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混濁の柩 2

 藤川は再度、コーヒーカップを手に取り、茶褐色の液体をゆっくりと流し込んだ。

 

「そ……その事を、直人は……?」カミラの問いに、藤川は静かに首を横に振る。

 

「表層意識に記憶は、無い。だが……」藤川はコーヒーカップを戻し、顔を上げる。

 

「直人の潜在意識には、その時の出来事が残っている」

 

 藤川は立ち上がると、一同に背を向けた。視線の先には、バルコニー越しに、穏やかな夏の青空が広がる。

 

「あの時、直人の心の中で、直哉に何があったのか……あのミッションに立ち会った我々にも、よくわかっていない」

 

「生体記憶データの解析を何度も試みたが、データの最後の方で、アクセスを拒まれてしまうのだ。……風間先輩が、ロックをかけていたようでな……」東が補足する。

 

「データサーバーに転送されていた、生体記憶データに気付いたのは、直人が意識を回復して、しばらくの事だった。それには、直哉のメッセージも添えられていた」藤川は振り向いて、一同の方へと向き直った。

 

「……時が来たら、全てを直人に……それまでは、あの地震で直人と、直哉に起こった事の全てを、直人には明かさないで欲しい……と」

 

「ふん……」勇人の鼻先で笑う声が、静けさを打ち破る。

 

「それでか……。それでお前は、直人を手元に呼び寄せた?」「……そういう意図も、確かにあった」

 

「で、お前はその"トラウマ"を知りながら、直人をインナーノーツに加えた。にも関わらず、直人の心のケアは、何もしてこなかっただと?」勇人は、言葉の端々を尖らせ、藤川に迫る。

 

「止めろ! コーゾーは、直哉の意志を尊重してきたまでだ!」アルベルトは、身を乗り出して、今にも飛びかかりそうな勇人を制止した。

 

「何が⁉︎ そうやって直人の心と向き合う事を……いや、お前自身が、あの地震の記憶から、逃げて来たんじゃないのか⁉︎」制止するアルベルトの腕と押し問答しながら、勇人は叫ぶ。

 

「風間さん! そうじゃない! ……コウは何度も直人の潜在意識にアプローチしようとしたのよ……。でも、彼の心理的負荷も考えて……」「いい、貴美子」藤川は、穏やかに貴美子の弁護を止めると、勇人をじっと見詰める。

 

「お前の言うとおりかもしれん。あの二十年前の記憶……私も今になって掘り起こしたい過去ではなくなっていた……だが……」

 

「インナーノーツのミッションを重ねる度、直人の潜在意識に押し込められていたものが、噴き出そうとしている」

 

「それが、先日のあのテストでの……」カミラとアランは大きく頷きを見せる。

 

「うむ……。直人の心にとって、今がまさに全てを知る、いや"思い出す"べき時なのだ」

 

 

 ————

 

「……とんだ荒療治だな、コウ。お前はいつもそうだ……」

 

 もう一口、紅茶を啜る。甘ったるいミルクが、舌の上にまとわりつく。ミルクと砂糖で閉ざされた紅茶の香りは、もはや無いに等しい。勇人は顔をしかめて、カップを口から離した。

 

「……直人……」

 

 手にしたカップの中で、ミルクで白濁した紅茶の渦が、細やかに揺れ動く。指輪型通信端末の着信を告げる振動が、カップを皿に戻させる。勇人は、左手の掌を拡げ、通信端末を起動させた。

 

 指輪型投影機が、瞬時に形成したモニターを、勇人は一瞥する。モニター上には、一通のメールが展開された。

 

 

『IN-PSIDより、例の信号解析結果が届きました。捜査機密にあたるので、詳細はお知らせできませんが、事件解決の糸口になりそうです。

 

 ご協力、ありがとうございました。 上杉』

 

 

「ふんっ……こちらの思惑も、お見通しか」

 

 勇人は、苦笑しながら掌を軽く閉じる。IN-PSIDへと協力要請を取り付けたとはいえ、そのような事で、捜査情報を簡単に漏らすような上杉ではないことは、重々承知していた。

 

 国策でもある、インナースペースのヴァーチャルネット推進事業において、人気サービス『想いは永遠に(オモトワ)』は、善し悪しはともかく、その経済効果、及び社会への影響力の大きさから、非常に着目されていた。海外版の開発も進められており、その利権を巡って経産業界だけでなく、国政に携わるような人物やグループも、深く関わっている噂を、勇人は前々から聴いている。

 

 だが、その『オモトワ』が、何らかの事件に関与したという事実が明るみになれば……政経界の勢力地図も大きく変わる事だろう。今回の事件で、関わった連中の、弱みの一つ二つでも捕まえる事が出来れば、彼のビジネスにも利を得る事は間違いない。上杉は、そんな勇人の強かな思惑を見通して、捜査協力を引き出したのだ。

 

「人の扱い方を、よくわかっている」

 

 利用されたとわかっても、不思議と上杉に対しての嫌悪は感じない。いや、むしろ上杉には、強いシンパシーすら、勇人は感じていた。

 

「だがな……」勇人は眼前に広がる、水平線の彼方へと、視線を送る。

 

 勇人にとっても事件の解決は、何より望ましいものであった。

 

 インナースペースを利用したヴァーチャルネットの開発は、文明と人の可能性の拡大であると、勇人も認識はしている。だが、ヴァーチャルネットの世界は、人の魂を現世から引き離す、いわば一つの『あの世』でもある。

 

『オモトワ』は、まさに『あの世』を作り出し、人の魂を喰らう魔界。

 

 今回の件で、『オモトワ』を閉鎖に追い込む事が出来れば、無法地帯化するヴァーチャルネットの健全化に、一石を投じる事となろう。ヴァーチャルネットであろうと、PSIであろうと、『現世』の拡充の為に、あらねばならないのだ。

 

「なぁ……そうだろう? ……けい

 

 勇人は、白々と輝く、日本海の水面を遠く眺めながら、再度、紅茶カップを手にとると、静かに口を付けた。


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