交錯 1
張り詰めた空気が、二人の男達の間でくすぶっていた。
藤川は、勇人の見開かれた瞳を真正面から受け止める。勇人は、藤川のその瞳の奥に隠された言葉を読み取らんばかりに、瞬きもなくじっと見据える。
不意に、所長室の扉が開く。
「警察の方達、お帰りになったのね。風間さん、お茶のおかわりは……」所長室に足を踏み入れた貴美子は、すぐに夫と彼の親友の放つ、緊迫した空気を感じ取る。貴美子は、扉の前に立ち尽くすと、それ以上、足を進めることが出来ない。
静まり返る所長室に、一陣の柔らかな風が舞い込み、そっと二人の頰を撫でる。
藤川は、ふと目を伏せると、インターホンの受話器をとった。
「……おはよう、東くん。朝早くからすまんが、インナーノーツを集合させてくれ。……ああ、そうだ。……。うむ」
藤川が通話を始めたので、ふて腐れるように深々と椅子に座りなおす勇人。気持ちを落ち着かせようと、紅茶カップに口を付けると、カップが空になっていることに気づく。
「風間さん、どうぞ」貴美子は、ポットをとると、勇人に微笑みかけながら紅茶を勧める。
「あ、あぁ……ありがとう、貴美子」
勇人は、受けた紅茶に再び、砂糖とミルクをたっぷりと足すと、ゆっくりと一口含んだ。
「……カミラとアランはいるか?」藤川は、まだ通話中だ。
「どうかなさいました?」貴美子は、勇人に静かに問いかけた。
「いや……相変わらずだよ、コウは……」
勇人は、紅茶を受け皿に静かに戻しながら、伏せ目がちに呟く。
「……」貴美子は、この二人の友情の間に横たわる、埋めようのない溝を垣間見た気がする。
あの頃には戻れないのだ……。
「……うむ。それとアルにも声をかけてくれ。……ああ。こちらで詳しく話す。……では後ほど」通話を終えた藤川は、静かに受話器を置く。
「……コウ」「ん?」静かに語りかける勇人に、藤川も向き直る。
「……俺はな……別にお前のことを恨んだりはしとらん。二十年前も……"あの時"のことも……」
「あの時……」貴美子は、ハッと息を飲む。
「……わかっている……」
「いいや……お前はずっと、引きずっている。引きずっているからこそ、ここまで来れた……違うか?」
「……」勇人のその問いに、無言で答える藤川。貴美子は、そっと目を伏せる。
「お茶のおかわり……持ってきますね」
「すまん……貴美子」勇人は、藤川を見据えたまま、部屋を後にする貴美子の背中に、言葉を投げかけた。勇人はわかっている。この話題は、貴美子にとっては、心苦しい話題であることを……
貴美子を送り出した部屋の扉が、静かに閉まる。
「……彼女は……恵は、お前さんを愛していた……。それだけが真実だ」藤川のその言葉に、勇人は、藤川から視線を外す。
沈黙が、二人を包む。
「……恵が俺たちの前から姿を消したのは、お前のせいじゃない……だが……」勇人は、手にしたカップを静かに置くと、藤川を今一度、真っ直ぐに見据え直した。
「……だが……お前は、今でもあいつの影を追っている」
「……」
——泉恵——
勇人の妻となった、不思議な能力を持った女性であった。
『インナースペースを、生身の肉体で往き来できる能力』
それは、当時、黎明期のPSI 物理学を学ぶ藤川が、彼女の能力を独自に研究し、導き出した結論だった。(尤も、その証明は未だにかなえられていない)
彼女は、藤川の良き研究パートナーであり、彼女の能力に関する研究こそ、彼のその後の人生を決定付け、数々の功績へと導いたと言っても過言ではない。
だが、五十年ほど前、直人の父、直哉を産んで間も無く、恵は忽然と姿を消した……そう、まるで『神隠し』のように。
藤川は、それを薄々予期していた。
彼女の能力、それは同時に彼女自身の身を削る力。当時の藤川は、いつか訪れる別れを予期しながら、それを止めることは出来なかった……藤川の脳裏には、恵の微笑みが、今でも焼き付いている。
「いや、お前だけじゃない」勇人は続ける。
「息子も、孫も……知らず知らずに……何故なんだ?」勇人は俯き、首を横に二、三度振りながら、絞り出すように呟く。
「……何故、あいつらなんだ?」
「風間……すまん。彼らを巻き込んだのは、確かに私だ……」藤川は、勇人の胸中を痛いくらいに察していた。
「…………」勇人は、暫く口を噤んだ。藤川も、かける言葉が見つからない。
「……ふっ……。ふふっ……」不意に勇人は、顔を伏せたまま、渇いた笑いを立てる。
「……『神さまが与えてくれた力……なすべきことをべきことをなす』……か」
藤川は、思わず顔を上げた。恵が姿を消す直前、二人に言い残した言葉だった。
「コウよ……俺たちは、未だにあいつの手の中で踊らされているのかもしれんな……」
勇人は、紅茶のカップを手にすると、不意に立ち上がり、バルコニーへと足を向けた。既に高く登った日の光が、彼方の水平線をくっきりと浮かび上がらせ、天と海面を隔てていた。
「……今回の件、話を持ち込んだのは俺だ……その俺が、お前を信用せんのでは、話にならんな。……悪かった」勇人は、バルコニーへと目を向けたまま、独り言のように呟くと、紅茶をまた一口、啜った。藤川は、無言で旧友に背を向けたまま、彼の言葉を受け取った。
静寂を、来訪ベルの音が打ち破る。
「所長、東です」入室インターホンの映像が、モニターに映し出される。東、それにカミラ、アラン、アルベルトも一緒だ。
「入りたまえ」藤川の声に反応して、所長室のドアが開き、四人を招き入れた。
「風間理事長。ご無沙汰しております」東は、勇人の姿を認めると、一礼して挨拶を送る。
「おぅ、東か。久しぶりだな。アルも。元気そうだな」
「ふん、相変わらず、羽振りが良さそうで、結構なこった」勇人は、アルベルトにとっても旧知の仲。
「ははは、どうだ、アル。戻ってくる気はないか? お前ほどの技術者は、そういない。ここより、好待遇で受け入れるぞ」
「生憎だな。ここはメシがうまい。それだけで充分だ」「ふふ……そうか」
「君たち、がインナーノーツの?」勇人は、アルベルトの後ろに控えていた二人にも声をかける。
「隊長のカミラです」「副長、アランです」二人は短く名乗る。
「そうか……うちの孫を、よろしく頼むよ」
「は……はい。直人は良くやってくれてます。ご安心ください」目の前の老紳士と直人の関係は、先ほど東から聞かされていた。恐縮気味なカミラの返答に、勇人は、やや目を伏せながら、笑顔を返す。
勇人は、客席に戻ると、自分の手荷物をまとめ始めた。
「邪魔したな、コウ。……じゃぁ……」
「待て」所長室を後にしようと、扉へ向かいかけた勇人の背中を、藤川が制する。勇人は、怪訝そうに振り返った。
「……これから、ミッションプランを協議する。風間、お前にも聴いてもらいたい」
藤川の瞳の奥には、何者にも動じない力強さが漲っている。時折、彼の見せるこの眼差しは、かつての妻、恵によく似ていると、勇人は予々思っていた。二人は確かに、自分が入り込めない何かを共有していた……勇人は、そう思わずにはいられない。「まったく……」と、声にならない呟きを、ため息とともに吐き出す。
「……わかった。聴こう」勇人は、静かに踵を返した。




