残滓 4
開かれた窓から入り込んだ、そよ風に運ばれた仄かな潮の香りが、鼻腔をそっと撫でてゆく。何故か、懐かしさを覚える香りだ。
亜夢は、不意に目を開き、身体を起こす。
まどろみの中で、ふと、何者かに引き寄せられる感覚に、亜夢は、室内を見回してみる。
この部屋ではない……いったい、何処から?
亜夢は、ベッドから降りると、感覚の呼ぶ方へふらふらと足を運ぶ。部屋の外、そう……部屋の外からだ……
妙な胸騒ぎに、亜夢の足どりが早まる。
ドアの開く音に、ふと顔を上げる真世。
体調を崩していた母は、今朝方、落ち着きを取り戻したので、真世は一旦、昼食がてら、祖父母から借り受けている自宅へ帰宅。溜まっていた家事を片付け、母の部屋に泊まり込む準備を整えて、戻ってきたところだった。
「亜夢ちゃん?」ふらふらと、廊下に歩き出てくる亜夢に、真世の目が留まる。
容態は安定しているものの、亜夢は、まだ一日のうち、決められた三食の時間帯くらいしか、起きている事が出来ないと聞いていた。まだ夕飯時には時間があり、亜夢は普段なら寝ているはずの時間帯だった。活動できる時間が、伸びてきているのであろうか?
母の部屋に入室するのを忘れ、しばし真世は、訝しむように亜夢を見つめていた。
亜夢は、廊下の窓辺に立つと、青く広がる空を見上げて、うつろな表情を浮かべている。
その亜夢を、もう一つの視線が捉えていた。真世から死角となる場所で、神取は、亜夢の動向を監視する。
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トンネルに入ってから五分ほど、ひたすら暗闇を歩き続けていた。サニは何度か、ヘルプ画面を呼び出し、状況を確認するものの、『深層無意識へアクセス中です。そのままお進みください』というメッセージが、表示されるばかりであった。
「もぅ……どこまで続くのかしら……」不満と不安が入り混じった溜息をつきながら、小さな直人に、しがみつくようにしているサニ。
「センパイ、小さ過ぎ……腰痛くなってきちゃった……。こういうところまで、リアルなんだから」
「じゃあ、離れたら?」
「やだ! 怖いもん。……あ、そうだ、アバターの設定、変更できるみたい。実年齢設定にしない?」「いい……このままで」
「そぅ……ま、可愛くていいけどさ……あっ?」
二人の目の前で、灯りが静かに留まると、その灯りの光点が、次第に姿を変えていく。
渦を巻く水柱のようだ……同じような柱が、何本も直人とサニを取り囲むように、足元から立ち上がる。
「な……何ここ⁉︎」サニの、直人にしがみつく手がこわばる。直人は身じろぎせず、そのまま様子を伺う。
「……ここは……」無意識の奥底でくすぶる記憶の残滓が、パズルのように組み上がっていく感覚と共に、直人の目の前に、その光景が広がっていく。
水柱は、巨大な幾本もの水槽へと姿を変えていた。其々が共鳴し合うかのように振動し、朧気に発光している。先ほどまで、彼らを導いた灯も、同じように一際大きな水柱を形成し、それは巨大な水槽、否、浄水タンクへと姿を変えた。
「そうだ……オレは……ここに来た……いつも入れなかった、あのドア……あの日は、何故か開いていて……」
直人はサニの腕を振り解くと、中央の一際大きな浄水タンクへと引き寄せられるように、ふらふらと歩み出す。
「せ……センパイ! ……」サニが呼び止める声は、届いていない。
「えっ? 何⁉︎」水槽の光が、だんだんと紫色や赤黒い色合いに染まっていき、明滅を始める。その明滅に呼応するように、空間が生き物のように蠢いたかと思うと、サニはその空間の中へと、引きずりこまれていくような気持ち悪さが、身体の内側から込み上げてくるのを感じた。
「なんかヤバいよ! センパイ‼︎」
直人は、その呼びかけに、まるで気付かないのか、足を止めない。
「……そこに居るのは……誰……?」
直人は、目の前の浄水タンクの内側に、"何者"かの存在を確かに感じていた。幼い直人を包み込む、母親の腕のように、その感覚は、直人を引き寄せる。
「何なの……これって……」サニの脳裏に、ネットで見た噂が駆け巡る。
『……なんかさ、最近のオモトワ……時々気持ち悪い場面あるよね……』『そうそう……なんかグネグネした感触の……』『……怖くなって中断したんだけどさ……あのまま行ったら……』『……帰れなくなりそうな感じ?』『……絶対ヤバイって!』『……まさか、例の『神隠し』?? ……』
……ホントだったの⁉︎……
……知っていたのに! ……危ないかもって、わかってたのに! ……
「センパイ‼︎」内からこみ上げる焦燥感を、吐き出すようにサニは叫ぶ。
直人の向かうタンクの中の水は、直人が近づくにつれ、喜びの舞を舞うかのように、烈しく渦を巻き、嬉々とした表情を浮かべ始めた。
「まさか……⁉︎」
サニは、意識がぐちゃぐちゃに攪拌されるような感覚の中で、水流の中に、何者かの存在を感じ取った。
「メルジーネ……?」亜夢のミッションで見た、あのメルジーネなのか……?
「なんで⁉︎」サニの直感が、そう認識した瞬間、激しい振動が空間を襲う。
その振動と共振して、水槽群が震えだす。
振動は、次第に激しさを増し、水槽の表面に次々とヒビ割れを走らせる。その中に封じ込められていた"水達"は、自らを拘束していた戒めを次々と打ち砕き、喜びと共に踊り出した。
「きゃあああ!」たまらず悲鳴をあげるサニの足元を、瞬く間に、溢れ出た水が侵食していく。
直人は、その異変にもまるで気づきもせず、浄水タンクのガラス壁へと取り付いた。
タンクの水流が瞳のような形を形成すると、直人は慈しむように、その水槽の中の瞳に手を差し伸べる。水槽に浮かび上がった、その瞳は、大きく見開かれ、直人を捉えている……
……あなたと共に……
……あなたと……
「あ……あな……た……は? ……だれ? ……」
天を仰ぎ見ていた亜夢の口から、絞り出るような言葉が、こぼれ落ちる。両の手を空に向かって開く。まるで、空に浮かぶ雲を捉えようとするかのように……。
そうしているうちに、亜夢の身体の周辺に、仄かな光が溢れてくる。薄赤い、炎の揺らめきのようなそのオーラは、真世の肉眼でも、はっきりと捉えることができた。
「亜夢ちゃん⁉︎」
亜夢は明らかに、サイキック能力を解放していた。施設の、サイキック能力に対する抑制結界も、ほとんど効果がないようだ。
「まさか、これが『神子』か?」亜夢の放つ気配に、神取の神経は、張り詰めていた。その場へ踊り出そうとした神取は、それに先んじて、思わず亜夢へ駆け寄る、真世の気配を察知し、再び身を隠す。
「亜夢ちゃん‼︎しっかりして!」
真世は呼びかけながら、天高く掲げられた亜夢の腕をとる。
「アツッ⁉︎」真世は、思わずその手を離す。亜夢の身体は、異常なほど発熱していた。
亜夢の身体は、まるで焚き木のように身体中から炎と、煙のようなオーラを放つ。
「……亜夢ちゃん……」なす術なく、立ち尽くす真世。亜夢が纏った炎は、一層煌めきを増し、周辺に熱をも発する。
……いけない! ……
亜夢は、身体の裡から聞こえた、何者かの声に一瞬、戸惑いを見せる。その隙に、亜夢の体のうちから、その何者かの力が、亜夢の溢れ出そうになるものを押し留めるかのように、開いた腕を引き戻そうとする。
「う……ぐっううう……」
その場で亜夢は、腕を伸び縮みさせ、身体をよじらせながら、もがき苦しむ——
「もう、いい加減にして! 早く止めてよ‼︎」
その空間は、溢れ出した大量の水に覆いつくされていく。サニは、ヒステリックに声を張り上げ、ガイドAIに終了を呼び掛けるも、応答がない。コントロールメニューからも『強制終了』を試みるが、エラーが表示されるばかりだった。
水は、サニの膝丈のあたりまで水かさを増している。直人も、腰のあたりまで水に浸かっているが、全く意に介していないようだ。
「どうなってるのよ!」
水かさと共に、サニの焦りは募る。
幼子の姿のままでいる直人を、守れるのは自分しかいない。とにかく、直人の居る中央のタンクへ近づこうと、サニは、水の奔流を掻き分けながら、足を進めた。ヴァーチャルとはいえ、足にまとわりつく水の感覚は、非常にリアルだ。
「センパイ‼︎」直人に、サニの声はまるで届かない。直人は、中央タンクと向きあったまま、その中の『存在』と、一心に交感を続けているようだ。
……そうか……あの日、あの時……オレはキミに……
直人の記憶のピースが嵌ったその瞬間、まるでそれが起動装置であったかのように、タンクの中の『存在』が呼応して、激しく渦巻き始めた——
「ぅあああああああっ‼︎」宙を仰ぎ見ていた亜夢は、一段と瞳を見開き、叫びながら全身を震わせる——
渦の産み出す衝撃は、瞬く間に、空間に衝撃波を撒き散らしながら、タンクはひしゃげ、自重に耐えかねて、内部の水を吹き出しながら、圧壊する。直人の姿は、その奔流の中に掻き消されていく。
「センパイ‼︎センパァァイイイ‼︎」
サニの悲痛な叫びを巻き込みながら、激しく振動し、もはや空間構成の制御を失ったヴァーチャル空間は、至る所で空間構成エラーを発生させながら崩壊する。
その空間は、激しい衝撃を伴って弾け飛んだ——




