涅槃の彼方へ 4
記憶で構成された長期療養棟の中で、亜夢は咲磨の気配がする場所を片っ端から尋ねる。
……さくま! ……
まずは手近な亜夢の部屋だ。朝、微睡の中、さくまが起こしに来てくれた記憶が甦る。部屋はがらんとしていた。亜夢は集中して見回すが、咲磨の気配は既に立ち去った後のようだ。
……いない……
ぐずぐずはしていられない。すぐに判断し、扉を開けたまま駆け出す。直人もそれに続いた。
……ママ! ……
亜夢は次に実世の部屋を開ける。一度、ここで実世のヒントで咲磨を見つけた事がある。だが、やはり誰もいない。
……亜夢、闇雲に当たってはダメだ! 咲磨くんがよく行った場所なら……
亜夢は頷くと、咲磨の部屋を目指す。
ドアに触れる亜夢。
……ここ……いないみたい……
つぶやいた亜夢は、奥の食堂へと駆け出した。直人は、その様子に違和感を覚えたが、既に先を行く亜夢の後を追うしかなかった。
「急いでくれよ」東が焦り混じりで、IMCのモニターにもかろうじて共有されている、亜夢と直人が捉えた心象世界を見詰める。
「亜夢ちゃん……大丈夫、貴女なら絶対見つけられる」この一週間足らず、二人と多くの時間を共にした真世は、祈る気持ちを胸に見守った。残り時間、三分……。
食堂の張り出したベランダ。ここで海を見ながら語り合ったのを思い出す。
……死んだら何処へ行くのかな……海がいいな……
諦観しきった瞳を海に投げかけながら、咲磨が呟いた言葉。亜夢は、その言葉の意味が、今ならわかる気がした。
……さくま……絶対、死なせない! ……
食堂にもいない事を察した亜夢は、踵を返す。直人も続いて、意識の体を捻ったその時。
…………誰も……死なせたく……なかった……
……止められると……思った……
食堂の奥からなのか、それとも建物全体からなのか……その声が何処から聞こえるのかはわからない。
……僕が……僕だけが犠牲になれば……
…………皆、救われると思っていた…………
……それなのに……
直人は自分に絡みついてくる気配を感じながら、亜夢の後を追う。
亜夢は再び、咲磨の部屋の前に立っていた。
……僕は……ここじゃないよ……
…………ほんとうだよ、お姉さん……
扉の奥で咲磨が笑いかける気配がする。
……うそ……うそ……うそ、うそ、うそ! ……
……さくま、そうやって、にこにこして! ……いつも亜夢を騙すんだもん! ……だから‼︎ ……
亜夢は、今度は構わず扉を開ける。
……うっ⁉︎ ……
直人は思わずたじろいだ。部屋に押し込まれていた、重たく纏わりつく、水底のヘドロのような"空気"が溢れ出し、直人と亜夢を包み込む。姿はそこに見えないが、空間全体が『ヤマタノオロチ』で満たされているのだ。
部屋の中に何かの気配が収束して、一つの影を生み出す。
……さくまのママ? ……
幸乃の姿をゆらゆらと映す影が、亜夢に語りかけてくる。
……あむ……ちゃん……
…………さく……ずっと……ここに……
……連れて……行かない……で…………
その体は紛れもなく蛇だ。蛇のように身体をくねらせた幸乃の形をしたそれが、亜夢に迫る。
……あむ……ちゃん……
…………さくと……ずっと……いっしょ……ここで……ずっと……
……さくま……ママ……
亜夢の意識体はふらふらと幸乃の形をしたものに引き寄せられていく。幸乃の頭がゆっくりと持ち上がる。
……させるか‼︎ ……
亜夢は強い力に弾かれ、壁に倒れ込む。亜夢が顔を上げると、直人の意識体の腕と脚に何体もの蛇が絡みつき、動きを封じていた。
……なおと‼︎ ……
……来ちゃダメだ‼︎ ……
亜夢は、直人に駆け寄ろうとしたが、直人の厳しく張った声が、それを制する。
……今のうちに咲磨くんを︎‼︎ ……早く‼︎ ……
状況を理解した亜夢は力強く頷き、自分のなすべき事に集中する。
……さくま! ……
亜夢は意識体の両腕を左右いっぱいに伸ばし、瞑目して、この場に満たされた時空間情報の全てを掴みにかかる。
……赦さぬ……逃げる事は赦さぬ……
…………生贄を……生贄を……生贄を……生贄を……
直人の中に、『ヤマタノオロチ』に取り込まれた数多の想念が、悠久の大河のように流れ込んできていた。
幸乃の頭は、『ヤマタノオロチ』の記憶の中に見た、古代女性シャーマンの影に変わる。
……何故、そこまで生贄を? ……
直人は、問いかけてみる。
……何故? ……愚問……なり……
……自分達が救われる為に、他に犠牲を強いる……そんな事、許されるはずがない! ……
シャーマンの影は、直人の言葉が、馬鹿げた戯言だと言わんばかりに嘲笑う。
……犠牲なき世など……どこにあろう? ……汝がよく……知ること……なり……
……くっ……
………数多の犠牲を重ねて……生き長らえてきた……汝が……
影の言葉は、直人の原罪を呼び覚ます。
……違う! オレは、オレは犠牲を望んだわけじゃない‼︎ ……
直人を絡みとる蛇が、締め付けを強める。
……僕だって……
……さくま⁉︎ ……
亜夢は、昨日、隠れんぼで咲磨を見つけ出した時と同じ、クローゼットの奥に咲磨の気配を感じ取り、駆け寄るとその扉に取り付いた。
……僕だって……誰の犠牲も……
…………なのに、あの子供たちは……
部屋の壁に、あの日照りの中で捧げられていった子供たちの顔らしきものが浮かび上がり、悲しみと恐怖の怨嗟が不協和音を奏で始める。
臆する事なく亜夢は、クローゼットの扉を開けにかかる。扉は、重くびくともしない。
……あの時も……
部屋の風景が変わる。いつの時代かも、何処なのかもわからない。濁流の川を前に、別れを惜しむ両親。自分の身を投げ出せば……
そう願いながら、荒れ狂う水竜に呑まれた。
だが……その甲斐なく、大地は削られ、家々は流される……
また風景が変わり、つい先程の境内へと変わる。
……とぉ様……
郷を支配する森部の中に、『ヤマタノオロチ』の影を咲磨は何度も見ていた。『ヤマタノオロチ』の怨念と憎悪を鎮めぬ限り、郷、ひいては世界に安寧はない。
…………郷を……みんなを守りたかったのに……
……なのに……
…………誰も……誰も……
浮かび上がった父、慎吾の影に、無常に突き立てられる刀が心象世界を切り裂いてゆく。深い絶望が、暗い水底へと心象風景を変えた。
……誰も救えない……
直人を捉えていた力は、『ヤマタノオロチ』を作り出していたPSIボルテックスへと姿を変えていた。
……どうして……
咲磨の消え入りそうになる声をつなぎ止めるように、直人は声を張り上げた。
…………誰かの犠牲で……誰かの死で……たとえ命は救われても……心は救われない…………
……キミを待つ人に……キミを想う人に……哀しみが生まれる……
……キミを呼ぶ、亜夢の声が聞こえないのか!? ……咲磨くん‼︎ ……
……‼︎ ……
クローゼットのドアにわずかな隙間ができる。亜夢はすかさず手を入れた。
……さくま‼︎ ……
……さくまは、亜夢を助けてくれたよ!……
……水の中で……亜夢、怖かった……
……でも、さくまが亜夢の手を掴んで……
…………さくまと一緒に笑ったから……
……怖くなくなったんだよ!……
扉が開きかける。亜夢は魂の火を燃やして、手に力を込めた。
……‼︎ ……
……いっぱいお話しして、走って、遊んで!……
……亜夢は……亜夢は、さくまと一緒にいて!……
……嬉しかった!……楽しかった!……
二人の想い出が重なり合う。扉が少しずつ、開いていく。
……さくまは……亜夢を元気にしてくれた……初めてのお友達……
……さくまが居なくなって……亜夢だけ助かっても、そんなの……良いわけない!……だから、一緒に……
……さくまぁああ‼︎ ……
亜夢の想いが、炎となって溢れ出す。激しく燃え上がる生命の本能が、固く閉ざされた扉を焼き払う。
暗がりの中で、膝を抱えて蹲った咲磨の意識体『セルフ』が照らし出された。亜夢の放つ、眩い生命の輝きに咲磨は思わず手を翳している。
……おねぇ……さん……
意識体の瞳を潤わせながら、亜夢は、惜しみない微笑みを浮かべた。
……見つけた……
……さくま……みいっけ……
……あむ……ちゃん……
亜夢は手を伸ばす。咲磨は、戸惑いを見せたが、亜夢は力強く、更に腕を伸ばした。咲磨は、その手に触れる。
……死ぬための命なんて……ないんだよ……
いつか、亜夢が無意識の中で聞いた言葉が、自然と溢れた。大きな瞳で見つめ返す咲磨に、柔らかな笑顔が戻ってくる。
……行こう! ……
咲磨は小さく頷くと、亜夢の手を握った。
その瞬間、療養棟を描いていた空間は瓦解し、咲磨の身体が閉じ込められている、祈祷場の光景に変わっていく。
壁面が蠢き、風船のように膨らみながら、三人のいる空間を押し縮めてくる。その岩の壁面に不自然な切れ込みが現れた。切れ込みの奥からサニの意識体が、半身を現して声をあげる。
……こっちよ! 急いで‼︎ ……
直人は、未だ『ヤマタノオロチ』に絡みとられたままだ。
……なおと! ……
……サニ! 二人を頼む! ……
……センパイ⁉︎ ……
…………オレは大丈夫だから! ……早く! ……
今は直人を信じて、亜夢と咲磨の意識を先に回収するしかない。サニは二人の意識を時空間の切れ込みへ引き込んだ。




