旭日昇天 4
老人は、先ほどから尿意が治らない。いそいそと茂みの影に急ぐ。
昨晩はつい飲み過ぎた。あの警官ときたら、とんだザルだった。
人目を気にしながら、下半身に溜まったものを斜面下へと一気に放つ。
「ふううぅ〜〜」
猟師の縄の腕を買われ、今日の儀式では、『縄掛け』の大役を仰せつかっていた。失敗は許されない。そのせいもあって、緊張が余計に膀胱を刺激する。
まだ頭もぼうっとしていたが、さっきの仕事は、上出来だ。そのはず、だ。
「おやおや、ずいぶんと溜め込んでましたねぇ」
背後からかかる声にビクついて、老人は振り向いた。
「な、なんじゃ、オメェ」郷のものではない。切長の目、細面のどこか冷血さを感じさせる顔に、老人は肩を吊り上げ、身を固くする。
身の危険を感じ、逃げたいのだが、流れ出すものは一向に止まる気配がない。
「神聖な境内を、こんな粗相で汚すとは……余の顔、見忘れたか?」
「な、な、な、なん……」酔いが回っているのか、自分が回っているのか、いや、世界が回っているのか……老人は頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「余はそなたの神……」「神……??」
老人は、次第に、男の顔に蛇のような影を見る。
「ま、まさか……洩矢神様!?」
「……ふふふふ。余の神聖な供物……そなたの縄。そんな酔った手で結えたとあっては、解けてしまうであろう?儀式を穢したなら、そなたも喰ろうてやろうぞ」「ひっいいぃ!!」
「"縄の緩み"をしかと確かめよ。そして……あの者らが、このようなものを"隠し持っている"のを確かめよ」
神はそう告げると、二つの筒のようなものを握らせる。
「良いか。それは誰にも気づかれてはならぬ。其方が見てもならぬ。さあ、わかったら早々に参れ!」
蛇神が絡みつき、真正面から見据えてくる。
「は、ははあぁ!洩矢神さまぁああ」
老人は、尿が切れるや否や、急ぎ境内中央へと走った。その背を神取は、一つ笑いを浮かべて見送ると、茂みにまた姿を隠した。
境内に出た老人は、いそいそと生贄に打った縄を確認し始める。
「何してんだ、ジィさん?」生贄の柱周りへの立ち入り規制に立つ男が、怪訝な顔をして聞いてくる。
「縄の緩みを見とるんじゃ!気にすんな」
老人は、ひととおり縄の結び目を手で確かめている。柱に括り付けられている皆は、何もかも諦めたまま、老人の好きにさせていた。が、ふと違和感を感じる。心なしか縄が緩い気がする。そして、手に何かを握らされた。使い慣れたものの感触だという事が、すぐにわかった。
ふと顔を上げると、信徒の群れの向こう、茂みの中に見覚えのある男の姿が見える。
……神取!?……
神取は、口を大きく動かして、何かを伝えている。読唇術で、簡単に読み取れた。一本、柱を挟んだ、反対側の柱に括り付けられている陣も気づいたようである。
「うっ……うう〜〜またきたぁ……」老人は、また尿意が下がってきたのか、身体をぶるりとさせ、作業を終えるや否や、茂みの影へ走って行った。
「まぁだぁ〜!」
「亜夢ちゃん、こ……こっちはどう?」
IMC、休憩ブースでの退屈しのぎのゲームにも、亜夢は飽き飽きしていた。
真世は別のゲームを立ち上げ、モニターに出すが、亜夢の関心をひくのも限界になっている。
本祭の開始時間である、九時を既に過ぎていた。動きが正確に予測できなかったためではあるが、集合から動きはなく、二時間近くIMCでの待機は、亜夢でなくても厳しい。
「本当に動くのか?『ヤマタノオロチ』は……」東も苛立ちのあまり、声が荒くなる。
「東くん」藤川は、不意に席を立つ。
「動きがないということは……」
すると、藤川は身体を伸ばし、ストレッチを始めた。
「まだ……咲磨くんは……無事ということだ」
藤川の身体の動きは、左脚の古傷も感じさせない。
「むしろ、このまま何もないに越したことはない。どうかね……東くん、君も一緒に……こまめに身体を動かしたほうが……いいぞ」
「……いえ……結構です」落ち着き払った所長の神経の図太さには、東は敬服しながらも少し呆れる。
すると、唐突に『PSI HAZARD』警戒アラームの音声が聴こえてきた。回線を開いている<イワクラ>からだった。
「諏訪湖余剰次元域に波動収束反応!データ転送します!」同時に<イワクラ>で監視を続けていたアイリーンが、モニターの向こうから告げる。
「<イワクラ>からデータ来ました!スクリーンに出します!」田中が声をあげる。それに反応して走り寄る亜夢。真世も亜夢に続く。皆、スクリーンを覗き込む。
諏訪湖周辺地図の現象化予測マップの反応プロットが、湖中央から次第に広がり始めていた。波動収束率を示すグラフも、先ほどまでフラットだった反応値が急速に伸び始めている。
「いきなり来たな。やはり、あと一時間たらずで、現象化するのは間違いない」藤川は、モニターをじっと見据える。
「アイリーン!IMS結界班へ第一種警戒体制を通達!それから諏訪の医療チームへ。急性PSIシンドロームへの対応準備!諏訪湖近隣の避難状況は?」「レスキューの方で対応してますが、避難疲れで、なかなか……」「レスキューへもデータを共有、急がせてくれ」「了解です!」東は、即座に支持を飛ばす。
「東くん、彼らも」「ええ」
<アマテラス>ブリッジ——全ての準備を整えたインナーノーツは、昨晩の睡眠を取り戻すため、照明を落とし、仮眠を取っていた。
IMCからのコール音に即座に反応し、全員目を覚ます。カミラは髪を整え直し、応答をアランへ目配せで指示する。
「待たせたな」東がブリッジのメインスクリーンに現れた。
「チーフ、それでは?」「あぁ、いよいよだぞ。準備は?」
「大丈夫です、いつでもいけます」
「よし。……所長!」藤川もモニターの前へ進み出る。
「うむ……今回はこちら側の動きとインナースペース両方の連携が重要になる。アイリーン、IMSの方は?」
「諏訪湖結界車両にて待機中です。通信、出します」
「こちらIMS、ナビゲーターのジョンです。所定位置にて、アマテラスの航路ナビゲーションにあたります。現在、諏訪湖周辺に結界を展開していますが、これを多元量子マーカーの座標データにリンクさせ、突入口にします。飛び込んできてください!」
それにカミラが応答する。
「了解した!サポートよろしく」「航海の無事を。では!」
「所長……ところで、我々が『ヤマタノオロチ』を抑えられたとして、咲磨くんの救助は?」カミラ達は地上での作戦行動については何も聞かされていない状況だった。
「……大丈夫、そちらも手は打った。IMSの精鋭メンバーが向かう。それと……」
「え?」言いながら口髭を持ち上げ、にやりとする藤川を、インナーノーツは怪訝に窺う。
「助っ人も間も無く現地に到着するはずだ」
「助っ人?所長……いったい誰を……」助っ人に関しては、東も聞いていない。
「東くん、貸しは作っておくものだな」「はぁ?」
「現象界のことは、我々に任せ、君たちは『ヤマタノオロチ』の鎮圧に全力を挙げてくれ」藤川は、よく通る声で告げた。
「わかりました」
そこに亜夢が割り込んでくる。
「なおと!」「亜夢!?」
「さくま……死なないよね?……きっと助かるよね?」亜夢は大きな丸い目を真っ直ぐにモニター越しの直人へと向けている。
「ああ。大丈夫、大丈夫だよ、亜夢!」直人は、自分にも言い聞かせるように答えた。
「わかった……」亜夢は軽く目を閉じる。
「……いいよ。もう出てきて……さくまを助けて……」
亜夢は、瞑目したまま自身の内側に潜む気配を探った。果てしない大海が広がっているような、そんな気配を感じる。
…………水は……怖くない……そうだよね……さくま……
意を決して亜夢は、海面へとダイブした。
「亜夢ちゃん!」立ったまま揺らぐ亜夢の身体を真世は咄嗟に支える。
次第に亜夢の閉じた瞼が持ち上げられていく。
晴れ渡る海面の如き青緑の光が、瞼の間から溢れ出す。その光を宿す瞳が開かれる。
「この子……気づいてたの……」
真世が支える少女は、少し驚いた表情をみせていた。
「アムネリア……」人格の入れ替わりを察した直人が声をかける。
「……亜夢……ありがとう……」
「アムネリア……さん?」真世も恐る恐る声をかけた。
アムネリアは、微笑を浮かべ、真世から離れると、両手首にブレスレットにしていたビーズのシュシュで、髪を束ねていく。その様子を皆は、言葉もなく見守っていた。
髪を整えたアムネリアは、ミッション保護カプセルの方へ向き、姿勢を正す。
「……参りましょう、淀みし湖の底へ」
静かながら、一切の穢れを感じさせないアムネリアの一言が、一同の気持ちを引き締め直していた。




