旭日昇天 3
紀伊の山中は、昨日からの雨が降り続いていた。風辰翁は、雨音に苛立ち、扇子を開き閉じして、乾いた音を弾いている。
「そう、カリカリなされますな……」
尼僧は、立てた茶を風辰翁にそっと差し出す。
「ふん」翁は、作法も構わず、器を取ると片手で一気に飲み干した。
「おやまぁ……もう一杯、お立てしましょうか?」「いや、いい」
尼僧は、取り掛けた柄杓を戻し、風辰翁の方へと向く。
「其方らの夢は、肝心な結末を見せぬ。既に烏がまたしても!」そう言って扇子をもう一回、より強く打ち鳴らす。
「ほほほ、『夢』は『夢』にございます。そのことは……」「わかっておるわ!」
「……我らは、いく通りもある川の道筋を示すのみ……言霊には力があります。結末を我らが語れば、夢の形もまた、変わりますゆえ……」
尼僧の言葉は、不思議と老人の胸に染み入り、気付かぬうちに癪を洗い流す。
「貴方様は良い判断をなされました。私も、最良の策と存じます」言いながら尼僧は、三つ指をついて頭を下げた。
「ふん……」と、鼻で笑うと風辰翁は、立ち上がり、部屋を彷徨き始めた。
「烏共が伝えてきおった。森部の狙いは、彼らの神『洩矢』を封じ、『建御名方』を奉じた、諏訪の神子の一族への復讐と『洩矢』神の復権。其方らの夢の裏付けは取れたわけだが……」
尼僧は、微笑を湛えたまま、風辰翁を見やる。
「モレヤ……いや『モレク』と呼ぶべきか。『モレク』は、この国の礎とすべく、諏訪へと渡った我ら同胞が、あの湖に封じた神。風辰の記憶にも残っておった。ふん……建御名方など、時代の趨勢に合わせて、方便に使っただけのことよ。だが……その生贄が、よもや『神子』とは。森部め、知らずとはいえ余計なことを……」
風辰翁は、尼僧の正面で止まり、畏まる彼女を見下ろす。
「それで……確かに"見た"というのだな、夢見は?"我ら"が『モレク』の中に……」「はい……」
尼僧は、軽く頭を下げてから、上体を起こし、姿勢を正した。
「……『ミシャクジ』は、生きておりまする」
笑の消えた尼僧の冷たい視線が老翁へとまっすぐ向けられている。
「蛇の……あの姿形だけではないと」
「ゆえに……『神子』が、かの地に生まれたのです」
「ふあぁあっ……とと!」眠た気な熾恩の滑った足が、枝から危うく落ちそうになる。
「くくっ……猿も木から落ちるぞ」隣の木に、同じように身を隠す、焔凱のからかいまじりの声が脳内に響き、熾恩は中指を突き立てて抗議した。
「おうおう、そんなに夢見子達が恋しいか?」熾恩のサインの意味を曲解して、さらにからかうので、熾恩は、思わず大声をあげそうになる。すると、不意に口が、上から伸びてきた手で封じられた。
「はい、そーこーまぁでぇよぉ」上の枝に足をかけ、逆さ吊りになった飛煽だ。熾恩は、今度は頭上に向かって抗議の意を示さずにはいられない。
「ふぅ……」別の木の上の煌玲は、項垂れた頭に手を当てている。
四人は、潜入服を迷彩モードに変え、境内を囲むブナ林と一体となっていた……が、あまり大きな声を立てては意味がない。もっとも、人が集まっているあたりからは、少し離れており、カモフラージュもあって、彼らの位置を見分けられる人間は、そういないはずだ。
「……素人には、ね。だが、その貴方達の人並外れた霊力、押し殺しても私の目は誤魔化せませんよ」神取は、茂みに身を低く隠し呟く。
神取は、烏衆らと共に、火雀衆からは境内を挟んで反対側となる斜面から、難なく侵入を果たしていた。
教団の見張りがいたとはいえ、神取や烏衆らには、赤子の手を捻るようなもの。いや、殆ど神取の術に絡みとられ、見張りの役も果たしてはいなかった。兵は、改めて神取の実力を思い知っていた。皆が神取にしてやられたのも納得がいく。
神取と烏衆は、火雀衆の死角を選んで身を隠している。ここで師匠、風辰翁が差し向けたのであろう火雀衆に感づかれるのは、後々面倒だ。
「貴方がたは手筈通りに。後衛を任せますよ。私は、あちらを……」
茂みに身を隠した彼らの目前に、三本の柱が聳り立つ。
右と左の柱には、白の着物に身を包んだ男女が後ろ手にされて、縄で縛り付けられていた。
囚われていた烏衆、皆と陣である事は既にわかっている。耳をすませば、彼らが潜入時に顔見知りとなった信者らが、何やら罵声を浴びせかけているようだ。
「……隊長!」彼女らの部下達は、歯を食いしばり、飛び出さんばかりだ。それを制しながら兵は神取に問う。
「周りは人だかり……火雀衆の目もある。どうなさるおつもりです」
「手の拘束さえ解けば、自力で出られるのですね」「縄抜けは、基礎中の基礎……そのレーザーナイフさえ渡せれば……」神取は、烏衆が準備した、掌に忍ばせられるほどのレーザーナイフを二本預かっている。
「任せなさい。私より、貴方がたの方をしっかりと。退路は重要です」「心得ている」
兵は短く答え、お互いの行動を確認した。
「では、作戦行動開始です」神取は、言うや否や、さっそく動き始める。茂みを利用しながら、あっという間に姿を消す神取の後ろ姿を、兵は感心の眼差しで見送った。
「神取殿……今は信じますよ、貴方を」
——小一時間程前——
「兵……は貴方ですね?」
「な、なぜ、その名を?」
神取に名を呼ばれ、兵は狼狽した。烏衆の名は、仲間と林武衆、そして風辰翁くらいしか把握していないはずだった。風辰翁もこの名を口にし出したのは最近の事で、そもそも神取に伝えるとも考えにくい。
「聞いたのですよ。『林武』の朝臣殿から……ね」
「なに?……まさか、水織川!?」神取は、風辰翁から異界船の調査を命じられていた。先日の異界船の一件に関わっていたとしてもおかしくはない。
「おっと、こちらも守秘義務がありますので。想像にお任せします。ただ……頼まれてしまいましてね」
「頼まれた?」
「義兄弟達を……頼むと。確か、臨という男です」
「あ……義兄者が……」
兵は、肩を震わせ、椅子にへたり込む。話からおおよその想像がついたのであろう、彼の部下らも込み上げる想いを堪えている。
「臨殿のお言葉、些か心を打たれましてね。手をお貸ししようと伺ったわけですよ」
兵は顔を上げた。
「……神取殿。貴方が今、何の任務でここにいるのか……それを探る気もないが、手を貸す……というのであれば、我らの邪魔は、もうしないで頂きたい」
「……そう邪険にせずとも。貴方たちの狙いはあの少年……あの子は『神子』。違いますか?」
兵は目を見開く。
「そこまで調べがついていましたか。さすがですね。でも、もういいでしょう!我らはこれより、三度目の挑戦だ。これを逃せば……神子は森部の手に……」
「あなた達だけで、神子を獲れると?」「命に代えても」挑発的な神取に、兵はいきり立つ。
「ひょ、兵様!これを!」
昨晩設置した隠しカメラが、境内を映し出していた。拝殿から白い死装束を着せられた、男女が引き立てられてくる。
「隊長!陣様も!!」
二人は、境内の柱を背に、縛り付けられていく。
「皆!……くっ」項垂れた女の烏を目に留めた兵は、拳を握りしめ、打ち震えている。
「生贄の儀式……彼らをも屠るつもりだ……大事な義弟妹なのでしょう?見殺しにするのですか?」
「……神取殿、あなたの狙いは何だ?」
「そう、こなくては」




