因縁生起 4
「あら、あなた……また来たの?」インターフォン越しに応じたのは、落ち着いた女の声だ。
ティムは、ややはにかんだ笑顔をインターフォンのカメラに向けて見せる。
ティムは愛車を走らせ、庄内平野が一望できる小高い丘の上に立つ、小さな天文台までやって来ていた。天文台の玄関に出てきたのは、三十代前半くらいだろうか?細身の女性管理人が、応対してくれた。
「月が……見えたからな」
「ふふ、そうね」と、この小綺麗に整った線の細い顔に微笑みかけられれば、流石のティムも、はにかまずにはいられない。
予約が必要だと断りながらも、特別よと、露天展望台の方へと上げてくれる。管理人は、望遠鏡の一つ出してきて調整し、ティムへと勧めた。
丸く切り取られた空間に、だいぶ西へと傾いた、半月より少し膨らんだ月が映し出されている。
「俺の事……覚えてたの?」望遠鏡を覗き込みながら、恥ずかし気にティムは尋ねる。
「ええ。酔っ払って来たと思えば、月も出てないのに、月を見たいなんて言うから」と、女性はクスクス笑う。
「ちぇっ、その記憶は今、消してくれ」
あの日は、月は見えないからと宥められ、「出てる日にいらっしゃい」と帰されたのだった。
ブスッとなった顔を見られないように、接眼レンズに顔を押し当てる。
一週間ほど前、直人とサニと飲んだ後、ティムは一人、この天文台までやってきていた。大学の普通科にいた頃は、サークル仲間との遊びや、デートスポットにしていたここは、彼にとってはお気に入りの場所であった。
最近来ない間に、管理人が、いつのまにか爺さんから美女に変わっていたとは知らなかったが……
あの日、酔いが回ったまま、自動タクシーで一人ドライブの途中、ふと思い立って寄ったはいいが、まさかこんな美人に醜態を晒す事になるとは……一生の不覚である。
「……お、オレ、月育ちなんよ」
「へぇ、あそこにいたの」
「あの日、仲間と飲んでて、そいつの親父の話とか聞いてたら、ふと思い出してね。急に月が見たくなってさ……ここに来ればもしかしてっ……てね」
「……ふふ。ここでも見えない時は見えないわよ」「ハイハイ……ただの酔っ払いでしたよ」
それからしばらく、ティムは、身の上話を滔々と話し始めた。
父親が、宇宙貨物船乗りで、自分を月に連れていった。父には、正式な婚姻関係にある配偶者はおらず、地上の宇宙ポート近郊に、馴染みの女性が何人かいて、子供もいた。自分もその一人だ。
女性管理人は、時折り相槌を打っていた。聞いているのかはわからなかったが、ティムは話し続けた。
月には、他にも父が連れて来た、見ず知らずの義兄弟達がいた。
「これからは宇宙時代だ」と、そこで宇宙を体験させるという父親の変わった教育方針の元、義兄弟らと、自分も月で三年ほど暮らした……
この時代でも、そうそうない身の上だ。人に話した事も殆ど無い。
「……そっかぁ。あそこにいたんだよねぇ……いいなぁ……」
ティムは話すのを止め、望遠鏡から顔を離し、管理人の女性の方へ向く。彼女は、穏やかな微笑みを湛えたまま、ただ月を眺めていた。
……月にはかなわねぇ……か……
少々バツの悪い思いだが、嫌な気はしない。むしろ、さっきまでの苛々は、どこかへ行ってしまっていたことに気づく。
「……Thank You」こそっと、口から漏らしていた。
「ん?」「いや、何でもねぇよ……」
「……今週末あたりが満月よ。よかったら、またいらっしゃい」「ああ」
「……予約、入れてね」「…………」
神取は、三度目の境内侵入を試みていた。
早朝から既に人が集まり、紙垂を張り巡らせたり、儀式に使用するのか、大量の果物や野菜の入った箱を運び入れたりしている。
境内中央には、昨日まで一本だけであった巨大な天然丸太が、二本追加されていた。
丸太は、どことなく諏訪の御柱祭を思わせる。「大祭」のルーツは、おそらく近いのであろうが、森ノ部真理教団の祭事でどのように使用されるのかは、まだわからない。
神取は奥の社殿にこそ、神子の秘密を解く鍵があると睨んでいた。幸い、社殿の方に今は人気がない。
人目を掻い潜り、意を決して社殿に近づいた神取は、茂みをすり抜け、拝殿に近づく。だが、一歩踏み出したところで神取の足が止まる。それ以上の侵入を拒む気配を、神取の体が瞬時に察知していた。
カメラやセンサー類のセキュリティ装置の位置はすぐに見抜くが、それ以外にも、この一帯に、可視化されていない強力な磁場結界が張り巡らされている。(人が触れないよう、その周辺を水場結界でもある堀が囲っている)
「PSIプラント並みか?この結界は……」
……やはりここには何かを封じている……
神取は、結界に触れないよう、綻びを探索するも、侵入は困難であることをすぐに理解した。
その時、境内の下の方に集まる、黒い人影が数人、木々の隙間から見え隠れする。烏衆だと察しがつく。
「おや、もう来ましたか」リーダー格と思しき女が昨日、森部に捕われたことで、神取に対するマークも一時緩んでいたが、思いのほか早い立て直しだった。
「彼は……」指揮に当たる男には見覚えがある。何度か行動を共にしたこともあり、最近は風辰の屋敷でも、すれ違うことがあった。
「烏の頭目……向こうさんも本気か」
おそらく、この一帯の彼らの監視も強化されるのであろう。下手に動けば、自分も行動を怪しまれかねない。
「これ以上の探索は、無理そうですね」
神取は、彼らが境内への配置を完了する前に、境内を離れた。
「このところ、亜夢の活動時間が伸びてきてるの」
この日、藤川は、貴美子と共に、入居した咲磨の様子を伺いに療養棟へと足を伸ばしていた。平日とあって、貴美子の手弁当は無しだったが、代わりに療養棟の食堂で、彼女と遅めのランチをとっている。
ちょうど、外へと遊びに出て来た、咲磨と亜夢の姿が窓から見える。他の入居している子供達も一緒になって、水鉄砲片手に、対戦ごっこで遊んでいるようだ。
亜夢は、身体は小柄とはいえ子供達に比べれば十分大きい。良い標的にされているにも拘らず、嬉しそうだ。その彼女を必死に守ろうとする小さな衛兵、咲磨の奮戦の甲斐もない。
彼らを見守る真世は、時折、水鉄砲の被害にあい、何やら声をあげている。
藤川はその様子を微笑ましく見守っていた。
「見てちょうだい」と貴美子は持ち込んだタブレットのデータを示しながら説明する。
亜夢は、ここ二日、就寝時間帯にある程度まとまった睡眠時間が取れるようになり、日中の睡眠も三、四時間おきとなってきた。
「それから、これ」貴美子が示したのは、今朝の検査の結果だ。貴美子が示す言語能力テストの結果は、一週間前に比べ、信じられない伸びを示していた。五、六歳程度の語彙レベルだったのが、一気に八、九歳程度まで成長している。藤川も、驚きを隠せない。
「たぶん、あの子のおかげよ」貴美子は、咲磨を見遣りながら、続ける。
「亜夢は元々、無意識域に幼少期からの言語記憶も蓄えていたのだけど、表層意識に居た『メルジーネ』によって、抑え込まれていたんだと思うわ。それが、あの子と話をするうちに、どんどん解放と意識化が進んでいるみたい」
「それにしても、この短期間にかね?」藤川は、蕎麦を一口啜る。
「だから、あの子の能力のおかげだと思うの」「咲磨くんか……心身を癒し、安定させるという……」藤川は、再び子供達の方を見やる。
水鉄砲をかけられ、ムッとなる亜夢。そこに空かさす宥めにはいる咲磨。次の瞬間には、亜夢は笑顔を取り戻している。
「ね……ああやって、亜夢は自分の能力も少しずつコントロールする感覚を身につけて来ているみたい」「心が安定すれば、言葉も自然に……か」
貴美子は、慈しむように子供達を見つめている。
「こんな出会い……そうそうあるものでは無いわ……運命の導きかしら」貴美子は少女のような微笑みで見つめていた。
「……あるいは、宿命か……」
一方、藤川の瞳に既に笑みはない。ただ真っ直ぐに二人を見据えていた。
ガーデンを駆け回る亜夢と咲磨を見つめる、もう一つの視線には、誰も気づかない。
ICU棟の廊下の窓に佇む直人は、咲磨と亜夢の姿を目に留めると、黙したまま背を向け、今来た通路を戻っていった。
「貴美子」藤川は妻の方へと向き直る。「ん?何かしら?」
「咲磨くんだが……一つ確認してもらえないだろうか?」
この日も月夜が明るい夜だ。西の小窓から差し込む月明かりが、褐色の肌を仄かに照らす。
ふと、メッセージの通知もないのに、ベッドの上で、サニは左手のディスプレイを眺めていた。食べかけのラーメンが太々しい。
……何、気にしてんだろ……あたし……
ふと見回す。今日でこの部屋に来たのは三回目。小綺麗な部屋だ。二年前は、アパートだったが、今は海岸沿いのデザイナーズマンション。一人暮らしには、少し広過ぎるんじゃないかとサニは思う。何処となく、女の気配を感じる。今もいるのか、別れたばかりか……あるいは自分のような女なのか。別に興味はないけれど……。
伊藤は、先程、病院からの連絡にベッドを抜け、書斎部屋に篭っている。
「つまんないなぁ……」
もう一度、ディスプレイに視線を落とす。心なしか、ラーメンが美味しそうに見えた。
「やっぱ、帰ろ……」
サニは着替えると、伊藤に気付かれないうちに部屋を抜け出ていた。




