初夏のプレリュード 1
伝統的な書院造りの一室は深い闇に包まれていた。その部屋の中ほどで、小さな灯の玉が畳表の山を浮き立たせる。やがてその灯は意思を持つかのようにゆっくりと動きだし、古めかしい日本列島の地図が照らし出す。模造紙程度の大きさに貼り合わされた和紙に全て手描きで描かれたものだ。
灯は紀伊半島の一帯を照らし『奈良』、『京都』といった地名を確認するかのように舐めていく。地図には随所に呪術の一説のような文言が記され、何を意味するのか、幾何学的な線形が幾重にも描き重ねられている。何代にも渡って受け継がれてきた代物である事が、多様な筆跡や紙、墨、インクの劣化度合いから見て取れる。
灯はそのまま北上し、日本海に沿って北上していく。その蝋燭の灯が微かに揺らめくと、その灯に導かれていた男の手が止まる。
「鳥海山……」
男はその周辺に何かを感じ取っていた。
そのポイントを更に絞り込むように意識を研ぎ澄ませていく。
灯がやや海岸線の方へと引き返すと再び蝋燭の火が揺らめいた。
「ここは……ふふ、見つけましたよ」
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「転移完了!時空間安定を確認」
「ランディングギア、タッチダウン!ガントリーローダー固定」
異空間より帰還する<アマテラス>。
アランとティムは手慣れた手順で<アマテラス>を発着エリア(トランジッションカタパルト最奥部)の帰還ポートに帰港させた。
ガントリーローダーに載せられた<アマテラス>はメンテナンスエリアに搬入される。
<アマテラス>上部のハッチカバーが開き、タラップが渡されると、開いたハッチの底から、昇降エレベーターがせり上がり、インナーノーツの5人をタラップまで送り届けた。
「んーっ!」と、密閉された船内から出た解放感からサニは大きく伸びをしている。
5人はタラップを渡って下船していく。
「今日もお疲れさん!」
タラップの先にはアルベルトが部下を連れて待ち構えていた。
「あと、頼みまっせ!」アルベルトに軽くハイタッチして返すティム。彼らと入れ替わりで、メンテナンスチームが船内へ向かう。
「そうそう、コーゾーが呼んどったぞ。所長室だ」
アルベルトは再び下に下がる<アマテラス>の昇降エレベーターから言葉を投げかける。
「所長が?わかりました」
カミラの返答に手振りで返すアルベルトはそのまま船内へ姿を消した。
「えー、これから?お腹空いたのにぃ……」
時間は午後1時に差し掛かったところだ。
サニは不満を漏らす。
「まあまあ、とにかく早く着替えて行きましょう」
カミラはサニを適当になだめるとそのままIN-PSID中枢区画の地上棟に直通するエレベーターに乗り込んでいく。「お先」とティムはポンとサニの肩を叩きカミラに続き、直人とアランもそれに続いた。
「あっ!待ってよぉ〜!」無情にも閉まり始めたエレベーターのドアに、サニは慌てて身をねじ込んだ。
南天に日は高らかに昇り、一層深みを増した樹々の青さに強いコントラストを生む。日本海から吹き付ける生暖かな潮風は、夏の到来を告げていた。
軽妙なチェロの音色が、青く澄み渡る空に浮かんでいく。日本海の波は穏やかにその上行と下降を繰り返す音階の軽妙なリズムに合わせ、ダンスを舞う。
バッハ作曲、無伴奏チェロ組曲第1番『プレリュード』
藤川はチェロを手にして間もない頃から弾き続けている。
IN-PSID中枢区画の六角推台部最上階。所長室はその北西の一角にある。(藤川はほぼこの部屋で寝起きしている)隣接して南側が接客や会議に使用するラウンジと集会室、北側は藤川のラボがあり、東側はVIP宿泊施設などがある。インナーノーツらはそのチェロの音色に誘われるように所長室へと向かう。扉の前に彼らが到着するのとほぼ同時に、『プレリュード』の最後のコードが静かに消えた。
「インナーノーツ、参りました」カミラが扉脇のインターフォン越しに声をかける。
「どうぞ」という返事と同時に扉が開いた。
藤川はいそいそとチェロをスタンドに立て掛けながらインナーノーツらを迎え入れる。
「所長のチェロ、久しぶりです。相変わらずいい音ですね」カミラは率直な感想を述べる。
「いやいや、このところロクに弾けなかったのでな。年をとるとすぐに衰える……まあ座ってくれ」
その言葉に従い、カミラ達はテーブルを囲うように置かれた接客用の椅子に腰を下ろす。
藤川は机から古ぼけた数冊の冊子を持って彼らの方へやって来ると、「秋のフェスなんだが、これをやろうかと思うんだが……」と、カミラ、直人、サニにそれぞれその冊子を渡す。
「ベートーヴェンのカルテット15番……それにシューマンのピアノ五重奏?」渡されたのは、そのパート譜だ。ファーストバイオリンをカミラ、セカンドバイオリンを直人、ビオラをサニが受け取る。
カミラは10代の頃通っていたミッションスクールでバイオリンを学んでおり、確かな演奏技術を持つ。
直人も少年の頃を過ごした松本でバイオリンを習っており、特に母が熱心になって、教室に通わせた。どうやら亡くなった父親が趣味で弾いていたらしく、母は彼を音楽の方に進ませたかったようだ。直人が今使っているバイオリンも父の形見と聞いている。
サニは元々音楽の素養があり、藤川の勧めでビオラを弾くようになった。ビオラに惚れ込んだのか、手にしてから1年ほど相当入れ込み、インナーノーツの訓練以外はほとんど楽器を弾く時間に当てていたらしい。
3人は、藤川とは年一回、秋に催される『IN-PSID カルチャーフェスタ』で室内楽を披露するなど、良き音楽仲間でもある。
藤川は、楽譜に関してはデータ化されたものは好まず、昔ながらの紙に印刷されたものを愛好しており、またそれは彼にとって大切なコレクションでもあった。50年ほど前の復刻版であるが、出版物自体が骨董的価値のあるこの時代においては貴重な代物である。
「うむ。カルテットは3楽章。5重奏は1楽章をやろうと思う。……ピアノは真世が引き受けてくれた」
真世の名前に一瞬、反応する直人。
サニはそれを見過ごさない。
「忙しいだろうが……どうかね?」
「わたしは構いません。是非。あなた達は?」
「センパイもやる気満々のよーですし、ま、いいですよ」カミラの問いに空かさずサニが答える。
「おい、サニ!どういう……」サニの答えに直人は動揺を隠せない。
「ん?駄目か?他の曲でも良いんだが……」
所長は直人の動揺から、選曲が難しかったか?好みではなかったか?と訝しんだ。
「い、いえ!大丈夫です、やります!」直人は咄嗟に返事を返す。
「ありがとう。練習は折をみて声をかけるのでサラっておいてくれ」
「あのぉ……」
はい、とカミラが返事しかけたところで、ティムが不満そうに口を挟む。
「横からすんませんが、用って、こういう?」
「おっとこれは失敬……」
そういうと藤川は振り返り、机上のインターホンの受話器をとる。別の部屋を呼び出しているようだ。
「私だ。準備の方は?……ん、わかった」短いやり取りの後、藤川は受話器を置いて向き直った。
「いいみたいだ」
新たなミッションの打ち合わせだろうか……インナーノーツは藤川の言葉をじっと待つ。
「みんな、お腹は減らしてきておるな?」
意外な藤川の言葉に、一同は拍子抜けした表情を返すのみであった。




