蛇の宴 1
雪が舞い散る冬の諏訪湖は、一面、銀盤に覆われ、あらゆる生命の息吹を包み隠していた。
『御神渡り』を見ようと言った父に連れられ、咲磨は母と共に湖畔に佇んでいる。
「ねぇ、とぉ様ぁ〜〜。『御神渡り』、どこぉ?」
咲磨は、『御神渡り』というものを、ヴァーチャルネットの写真でしか見たことがない。温暖化で、諏訪湖が凍結する年は、ごく僅かになっていたからだ。
白銀一色の世界に、父から教えられた『御神渡り』というものを一目見ようと、目を凝らしていた。
「ねぇ……とぉ様……あれ?」いつの間にか、父の姿が見えない。
「向こう岸の神社に参拝しているはずよ」母がにっこり微笑み掛ける。
「『御神渡り』を渡っていきましょう」そう言うと、母は氷の湖面へと足を踏み出す。
「えぇ??」
『御神渡り』も見えないし、氷上を歩くのは何より怖い。母は、そんな咲磨に構う事なく、足を進める。
「ま、待ってよ!!」咲磨は、どんどん進んでいく母の後を必死に追いかける。
「ねぇ、かぁ様。ここ、『御神渡り』なの?」
「ええ、そうよ」
足元をご覧なさいと、促す母の言葉で咲磨が下を向くと、足元に氷の柱が立ち上がり、いつのまにか咲磨をその先端に乗せている。
振り返れば、自分の歩いた後に、同じような氷の柱が立ち上がり、道を作っていた。
「『御神渡り』ってこういう……」言いながら母の方へと向き直る。
だが、今度は母の姿も消えていた。
「かぁ様!?かぁ様ああ!!」
咲磨の叫ぶ声は、静寂の雪景色の中に吸い込まれていく。
すると、咲磨の足元を残して、先ほどまでの氷面が形を変え、次第に湖面が姿を現す。波だった水の流れが、咲磨を中心にして渦を巻き始めた。
「かぁ様!!とぉ様!!!」
必死に呼ぶ声に答える声は何一つない。
いつの間にか、銀盤は消え、渦があたりいっぱいに広がっていく。
周囲を見回し、助けを求める咲磨。
その目に、不自然に渦の外周に佇む人影が映る。
「とぉ様!?」
父らしき人影は、渦の動きと共に、ぐるぐると咲磨の周りを回っていた。
「この渦は……郷を呑み込んでしまう……だが……どうしたら……」
父の言葉が何故か聴こえてくる。同じような言葉を漏らしながら、延々と渦と共にグルグルと回っている。
「とぉ様……」
「咲磨……やはりお前が……」背後に聞こえる声に振り向くと、渦に居たはずの父がそこに立ち尽くしていた。
「僕があの中、見てくればいいの?」父の考えがすんなりと心に入り込み、咲磨は父に問う。
「駄目だ!!それは駄目だ!!」
すると、父は烈火の如く怒りを露わにしながら、訳の分からない言葉を次から次へと発したかと思うと、突然、涙を浮かべ、強く抱きしめながら、「お前が行くしかない」と、何度も繰り返す。
咲磨は、父が苦しそうに言うので、「いいよ」と返した。
父は「行ってくれるのか?」と涙ながらに問いかける。咲磨は笑顔で頷いた。
父は、意を決して、顔を引き締めると、咲磨を抱き上げた。
足元の渦の中央が、ぽっかりと黒々とした口を開けている。
あそこに行くんだな、と咲磨は、不思議と納得していた。
「咲磨ぁ!!堪忍!!」
叫びながら父は、その穴目掛けて、自分の身体を放り込む。
「咲磨ああああ!!」
父の叫びを背に感じながら、咲磨の身体は穴の中へどんどん吸い込まれていく。
渦は落ちゆく咲磨に巻き付くように形を変え、グルグルと螺旋を描いている。
やがて、渦の中に幾つもの顔のようなものが浮かんで来るのに気づく。
何やら口論しているようだ。
………儂こそ神なり……いや儂じゃ……ウヌはニセモノだ、我こそが!……
そんな事を言い合っている様に聞こえる。
よく見ると森部のような顔つきのもの、父に似た顔つきのものもいる。咲磨を見つけた顔たちが、恐ろしい形相で迫ってくるので、咲磨は思わず目を瞑って、助けを求めていた。
すると薄明るい世界に出る。
早朝の靄が立ち込める諏訪湖のようだ。最初の諏訪湖とは別次元のようである。
湖面は、再び凍結していた。
氷上に迫り上がる『御神渡り』が、光り輝いて、まるで咲磨の行く先を示しているかのようだ。咲磨は、導かれるように、『御神渡り』を辿って進んでいく。
何やら声が聞こえる。
『よう来た、よう来た』
誰??
『ふぉふぉふぉ……わしゃおめぇをよう知っとる』
すると、靄の中から白蛇のような煙が立ち込め、やがて老人のような姿に変わる。
物覚えが付くか付かないかの頃に、死に別れた祖父にも似ている。
よく親の心配をよそに、近隣の山中や森の中を咲磨を連れて歩いた祖父。おぼろげに覚えていたその顔に似ている。
『この姿が良いかの?』
……じぃじ?……
『あっちはあーでもにぁ、こーでもにゃー騒がしいのう』
『……贄など……わしらは欲しておらんのにのぉ……欲しておるのは人間供自身……おまぁがそんなもんになる必要はない』
……じぃじ、ここはどこなの?……
『覚えておらんかぇ?』
……?……
『…おめぇの兄弟たちもあっちへいったきり帰ってこんかった』
『みな行き場を失って苦しんどる……おみゃのその印もそのせいじゃ……診せてみい』
祖父は咲磨の手を取ると、皴にまみれた両手で包み込む。咲磨の身体中の痣がみるみる消えていく。
『どうじゃ?』
……わあ!すごいや!……咲磨は痣の消えた身体中を見回す。
祖父は柔和な笑顔を咲磨にみせている。
『よぉく見てみぃ。ここはおめぇが生まれ出たところ。そして帰ってくるところ』
『おめぇがあっちへ行った理由もここにある』
……僕は、一体……
突然、膨大な情報が頭からつま先までを貫く。悠久と流れる大河に身を委ねるが如く、咲磨は、その大いなる流れと自分が一体である感覚を覚えた。
全能なるものが、全てを生み出した。
全能なるものの、完全なる法則によって、天が作られ、星々が散りばめられる。
この太陽系、そして地球もまた、大いなる法則の一部であり、同じように生み出されたのだ。
地は鳴動し、やがて海が陸地を分け、草木が生い茂る。
原始生物が生まれ、巨大な太古の竜が繁栄を謳歌した時代もやがて過ぎ去った。
様々な生命が生まれては消え、それを繰り返した時代を経て、やがて人間が現れる。
人間は、道具を使う事を覚え、言葉を操り、火を扱えるようになると、森を焼き、農地を切り開き、やがて小さな居住地から巨大な都市を作り出す。
食と外敵の不安から解放された都市は、文化が花開き、知識を蓄え、人間の世界をより複雑な社会へと変貌させていく。
『文明』と呼ばれる、人間独特の営みは、それまで見えていた自然の循環の中にある、他の生物達と、人は明らかに異質な存在に、咲磨には見えた。
だが、どんなに栄えた文明も、やがて終焉を迎える。
『文明』は、過酷な自然から人々を隔絶し、安全と安定を保障する。だが、自然の揺り戻しは、人の作り出すささやかな安寧など、いとも簡単に崩し去る。いや……これは自然をコントロールし、あたかも人に自然を超越した、万物の霊長と錯覚させる『文明』の宿命なのかもしれない。
人は、自ら創り出したものが、砂上の楼閣であった事を思い知るなり、自然との埋めようのない亀裂に絶望し、同時に『文明』化に伴って、蔑み、深層無意識、インナースペース深くに押し込めた、未熟で猟奇的な野性に翻弄されるのだ……
過去のあらゆる時が、未来の揺れ動く可能性が咲磨という今に集約していく。
その瞬間、咲磨は自分の感覚が、何かを悟って行くのを感じていた。
『良いか……ここをよく覚えておくのじゃぞ』
すると老人の姿は消え、あたりは再び朝靄に包まれていった。
ふと目を覚ます咲磨。
穏やかな朝の日差しが部屋に差し込んでいる。
知らない天井が、視界に浮かんできた。
そっと身を起こす。母、幸乃が寄り添うようにベッドの端にうつぶして眠っている。
「かぁ様……」
母の目元にはうっすらと泣き跡が浮かんでいた。咲磨の身を起こした気配に、母がゆっくりと目を覚ます。
「おはよう、かぁ様」「サク……」
ほっとした表情を浮かべ、咲磨をそっと抱きしめる母。
「……何も心配ないわ。私がサクを守るから」
母の抱きしめる手に力がこもる。
母の温かいぬくもりに包まれ、咲磨は今を生きることの喜びを噛み締めずにはいられない。
体を覆っていた痣は、すっかり消えていた。




