慰霊の日 3
昼食時の食堂は、普段の静けさが嘘のように賑わう。長期療養棟での生活は単調になりがちだ。体調の良い入居者らは、担当医の許可があれば、食堂で食事をしたり、他の入居者と団欒を楽しむこともできる。
真世は、久しぶりに母、実世を食堂へと連れ出していた。このところ初夏の暑さからか、実世は体調を崩しがちであったが、ようやく気候慣れしてきたのか、昨日、今日と幾分、具合が良さそうだった。
母が急に「麦切り」--IN-PSID本部が置かれた地域で古くから食されている、うどんによく似た麺料理。冷やした麺をザルに上げ、蕎麦のように付け汁に絡ませて食べる。うどんよりやや細く、コシのある麺が、甘口の魚介系の出汁に絡まり、暑い夏にはもってこいの喉越しを提供する。間違っても「冷たいザルうどん」などと呼んではいけない--を食べたいと言い出したので、個室での昼食をキャンセルし、足元に不安のある母を車椅子に乗せ、食堂まで来たところだった。
実世はこの地方の生まれではないが、10年前、こちらに移って間もない頃、食欲の出ない実世に母、貴美子が、ここの地元の料理で食欲がない時でも箸が進むと勧められたと、準備してくれたのがこの「麦切り」だった。不思議なくらい食べられたこの料理は、実世の好物のひとつだった。
「はい、どーぞ、ママ」付け汁の器を母に手渡しながら、真世は母の対面に座った。「ありがとう、真世。麦切り……何年ぶりかしら?」未世は衰弱する身体を維持するため、食事も厳しく管理する必要があり、食堂の夏季特別メニューで数週間提供される麦切りは、体調とのタイミングが合わなければ、なかなか食べられないメニューである。
好物を目の前に、目を輝かせ、静かに微笑む母が可愛らしい。真世も思わず笑みが溢れる。
「へーっ、これが麦切り?」真世はこの地域で生活しているにも関わらず、この食べ物に関しては母から聞かされるだけで、口にするのは初めてだった。
「って……ただのザルうどん?」母と二人で分け合う、大盛り一人前。そのザルに盛られた「麦切り」を箸で掴み上げながら、真世は思わず口にする。
どう見たってうどんだ……
「いーから黙って食べてごらんなさい」母の目が若干据わっているのに気づいた真世は、とにかく試してみるより他なかった。
『……この軌道エレベーターは、地上から約3万6千km上空に、主に宇宙空間でのPSI利用実現化に向けた研究施設や観測ステーション、民間向けの滞在施設などを有した国際宇宙開発ステーションへと続いています。ステーションには宇宙ポートが併設され、月面各基地への直通便が発着。また、今後、更に上空、57000kmには火星ポート、96000kmには外惑星への進出を目的とした大型船の建造区画の建設が今後3年のうちに予定され、半世紀ほど遅れとなっていた宇宙開拓計画がこのターミナル完成によって大幅に前進する見通しです。軌道エレベーターの完成予定は、今年9月……』
完成間近に迫った国際軌道エレベーター『オービタル・エデン』の映像をバックに、レポーターの解説が続く食堂の大型テレビモニターに、入居者の視線が集まっていた。
「ほぉ〜〜、あんな貧弱そうな紐で宇宙まで行けるんかいな?」「紐じゃないって。ケーブル!カーボンナノチューブってやつだ」「へ〜〜あんた詳しいのぉ」「ガッチリ固定しちまうより、ああいうやつの方が大気の影響を受けにくいんだよ。『PSI』テクノロジーで時空間制御できるようになって、ケーブルもいらないんじゃないかって言われてた時期もあったんだがな」「んっだら、なして?」「コストと宇宙空間でのPSI利用の安全性の問題。あ、そうそう、大気が無い宇宙空間での時空間座標コントロールも技術的に難しかったようだ。時空間制御っていっても、PSI情報抽出の媒体になる水が必要で、宇宙での水供給をどうするかが……」若い頃から宇宙開発事業に憧れてきたらしい60代前後の男達が、蘊蓄を得意気に語り合っている。
「うん!……これはいける」「でしょ?」
宇宙開発にはまるで興味のない母娘の関心は、目の前の食事だけだった。
実世は、娘が勢いよく麦切りを啜る様をみながら、したり顔で自分も麺を箸にとり、一本毎、啜ることなく口に運ぶ。筋力も吸気も衰え、麺一本啜ることも難しい。真世は母のそんな姿に顔を曇らせる。
「あら、ここの食堂のもなかなかね。美味しいわ」努めて明るい声を口にする母に真世は答えず、食べるのに集中する事にした。
「ザルうどんですか?良いですねぇ」
飄々とした声が背後から声を掛けてきた。
その声に真世は、啜り掛けの麺を咄嗟に吸い切って、ふと顔をあげると、母が声の方をジト目で見上げていた。真世も口を手で覆い隠しながら振り向いた。
「お……おや、何か……?」
「うどんじゃありません。『麦切り』です」刺さるような冷たい言葉を投げつけられ、困惑顔の神取が苦笑いを浮かべ立ち尽くしていた。
「神取先生!も……もう、ママ!」
母は澄ました顔で水を一口含む。間違っても「ザルうどん」ではない……のである。
「ははは……あ、隣よろしいですか?このコも、あ……あれ?」神取は後ろを振り返り、誰かを探すようにキョロキョロと見回す。
「あ、いたいた」そう口にする神取の視線の先を真世が見やると、背中の中ほどまで豊かな黒髪を垂らした少女が、テレビモニターに向かって立っていた。
「亜夢ちゃん?」「ええ、リハビリの一環で連れてきてみたのですが……」
テレビの画面は既に軌道エレベーターの報道から別の番組に切り替わっている。
『……世界同時多発地震……20年前、世界各地を襲った災害の中でも、最大規模となった、ここ水織川……その慰霊祭が間も無く開催します……』
「亜夢さん!」亜夢はテレビの前に佇んだまま、神取の声には反応も無い。長く伸びきった髪を身体の前の方で束ねるように、何気なく手で撫でている。「呼んできますね」と、神取は亜夢のもとへと近づいていく。
神取の背を追っていた真世の視界にふと、テレビモニターの画面が飛び込んでくる。会場中央の慰霊碑に、参列者らが献花の列を作っていた。
「!……風間くん……」真世の口から漏れた言葉に実世も顔を上げる。




