表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

曹操の父の死の謎と徐州大虐殺の真意 ②

曹崇の殺害場面、史書『三国志』武帝紀部分の考察。

曹操の父親の曹崇が徐州で殺害された場面について、小説『三国志演義』の描写部分をまとめてみると、


● エン州東郡太守として青州黄巾賊を撃退し、朝廷から鎮東将軍に任命され、荀彧、荀攸、程昱、郭嘉、劉曄、満寵、毛玠、于禁、典韋ら、謀臣、猛将を配下に加え、山東に武名を轟かせた曹操が、エン州の陳留郡から非難して徐州の瑯琊郡に隠棲していた父親の曹嵩に、泰山の太守応邵を遣わして、迎えにやった。


● かねてから曹操と誼を通じたいと思っていた徐州太守の陶謙が曹嵩をもてなし、さらに都尉の張闓に命じ兵五百で途中の警護に当たらせた。


● 元黄巾の余党だった張闓は、陶謙に従っていてもいいことはないと、曹嵩が所有していた財物を奪って逃げ去ることを部下に持ちかけ、徐州の国境にあるエン州泰山郡の華県と費県の間のところで、古寺に休んでいた曹嵩たちを襲って殺害した。


・・・と、このようになっているのだが、では、史書の『三国志』のほうの記述ではどうなっているのか。


先ず正史『三国志』の曹操の本紀のところをみると、


※三国志、魏書、武帝紀


「興平元年春,太祖自徐州還,初,太祖父嵩去官後還譙,董卓之亂,避難琅邪,爲陶謙所害,故太祖志在復讎東伐。


(興平元年、194年春、太祖は徐州から帰還した。そのむかし、太祖の父の曹嵩は官を離れたのち、故郷の譙に帰っていたが、董卓の乱が起きたとき琅邪へ批難し、陶謙によって殺害された。

そのため太祖は復讐を志して東へ討伐に赴いたのである。)」


・・・と、なんとたったこれだけ。


● 徐州の琅邪郡へ避難していた父の曹嵩が陶謙によって殺害されたため、復讐を志して徐州への遠征に赴いた。


曹操の父親の曹嵩が陶謙によって殺されたのは間違いないようだが、それ以上、何の背景もこれではわからない。


裴松之は、この部分の注釈として、『世語』と『呉書』の二つの史書からの引用を加えている。


〈《世語》曰:嵩在泰山華縣。太祖令泰山太守應劭送家詣兖州,劭兵未至,陶謙密遣數千騎掩捕。嵩家以爲劭迎,不設備。謙兵至,殺太祖弟德於門中。嵩懼,穿後垣,先出其妾,妾肥,不時得出;嵩逃于厠,與妾俱被害,闔門皆死。劭懼,棄官赴袁紹。後太祖定冀州,劭時已死。


(『世語』にいう。曹嵩は泰山の華県に滞在していた。太祖は泰山太守応劭に命じて、兗州まで家族を送って来させることにした。応劭の軍勢がまだ華県に行きつかぬうちに、陶謙はひそかに数千騎を派遣して家族を逮捕させた。曹嵩の家族は応劭の出迎えだと思いこみ、警戒をしていなかった。陶謙の兵はやって来ると、太祖の弟の曹徳を門の中で殺した。曹嵩は恐怖し、裏の土塀に穴を開け、まずその妾を外に出そうとしたが、妾は肥っていて敵の来ぬうちにぬけ出ることができなかった。曹嵩は便所に逃げ込み、妾と一緒に殺され、一家全員が死んだ。応劭は恐懼し、官職を棄てて袁紹のもとに身を寄せた。のちに太祖が冀州を平定したとき、応劭はすでに死んでいた。)


韋曜《吳書》曰:太祖迎嵩,輜重百餘兩。陶謙遣都尉張闓將騎二百衞送,闓於泰山華、費間殺嵩,取財物,因奔淮南。太祖歸咎於陶謙,故伐之。


(韋曜の『呉書』にいう。太祖は曹嵩を迎えにやったが、曹嵩の荷物を運ぶ車は百余台あった。陶謙は都尉張闓に騎兵二百の騎兵を与えて護送させたが、張闓は泰山郡の華県と費県の間で曹嵩を殺害し、財物を奪うと、そのまま淮南に逃げた。太祖は罪咎を陶謙に負わせ、そこで彼を討伐したのである。)



『世語』の記述のほうで驚きなのは、陶謙が騎兵を派遣して曹嵩を「逮捕」させたという点。

その後に曹嵩らは、陶謙から派遣された騎兵によって殺害されることになるが、しかし陶謙はなぜ、曹嵩を殺害したがったのだろうか?

その動機はまったくわからない。


次いで、『呉書』のほうは、こちらは小説の『三国志演義』の内容と非常に近い内容になっている。

ただわからないのは、都尉の張闓が曹嵩をなぜ殺したのかという動機。

財物を奪って逃げたとあるので、普通に考えれば"金目当て"ということになるところだが、ただ、張闓の「都尉」という身分が引っかかる。


「都尉」という役職は、太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った役職で、官秩は比二千石だったという。

「二千石にせんせき」とは漢代における官僚の等級と俸給を表す語で、

二千石という数字は、かつては実際にその額が支払われていたらしいが、漢代ではあくまで格を表す指標として、実際に支払われる給料とは別になっていたという。


そしてその二千石はさらに、


・中二千石(九卿など、月180斛の支給)、


・真二千石(州牧など、月150斛の支給)、


・二千石(郡太守や司隷校尉など、月120斛の支給)、


・比二千石(郡都尉や光禄大夫など、月100斛の支給)、の四種類に分れるのだが、


しかしこうしてみると、張ガイはこの当時のほぼヒエラルキーのトップに位置する身分にいたわけで、

それほどの人間がいくら何でも、他人の財宝欲しさに強盗まで犯すものだろうか・・・?



また、裴松之の注釈部分に引用された『世語』と『呉書』の二つを比べると、

『世語』のほうは、西晋に仕えた郭頒という人物の著作で、正式には『魏晋世語』という。

しかし現物は残っておらず、現在では裴松之が注釈として取りあげた部分のみでその内容が確認できるだけだという。

が、その裴松之先生によれば、

「見識が乏しく、文章は音の響きも悪い。最も卑劣な作だが、変わった記事が多いので世間によく読まれており、干宝、孫盛らが多く採用している。そのなかには誤りが多い」

とのこと。

『世語』の曹嵩殺害場面の記述は他に比べてかなりボリューミーだが、著者の郭頒がかなり気分よく筆を走らせて書いた部分があるのかもしれない。



いっぽう、『呉書』を書いた韋曜のほうは、彼は三国時代の呉に仕えた人物だったという。

政治家で儒学者で歴史家で、彼が執筆した『呉書』は、『三国志』を書いた陳寿の『呉』の部分の記述は、ほとんどこの韋昭の『呉書』の部分を参考にして書かれたものだといい、その点で、史書として信憑性の高いものとなっている。








今回、訳は、ちくま学芸文庫の『正史 三国志』の訳を使わせていただきました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ