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曹操の父の死の謎と徐州大虐殺の真意 ①

曹操の父・曹嵩が徐州とエン州の国境で殺害される問題の場面について、先ずは後世に書かれた通俗小説のほうである『三国志演義』ではどのように描かれているか。

興平元年(194)春、曹操は父親の曹嵩を徐州牧の陶謙に殺害されたことの復讐として、徐州への大侵攻を行う。

そしてこの際に、

「凡殺男女數十萬人,雞犬無餘,泗水為之不流,

(およそ男女数十万人が殺され、鶏や犬さえも残ることはなく、泗水はそのために流れがせき止められたほどだった)」

※三国志「陶謙伝」

というほどの凄惨な大虐殺、ジェノサイドが、復讐の怨念に燃えた曹操によって引き起こされる事態となった。


この事件のシーンは、通俗小説のほうの『三国志演義』では次のような描写で書かれている。



「第十回     勤王室馬騰舉義   報父讎曹操興師


自是曹操部下文有謀臣,武有猛將,威鎮山東。乃遣泰山太守應劭,往瑯琊郡迎父曹嵩。嵩自陳留避難,隱居瑯琊;當日接了書信,便與弟曹德及一家老小四十餘人,帶從者百餘人,車百餘輛,逕望兗州而來。道經徐州,太守陶謙,字恭祖,為人溫厚純篤,向欲結納曹操,正無其由;知操父經過,遂出境迎接,再拜致敬,大設筵宴,款待兩日。曹嵩要行,陶謙親送出郭,特差都尉張闓,將部兵五百護送。


  曹嵩率家小行到華、費間,時夏末秋初,大雨驟至,只得投一古寺歇宿。寺僧接入,嵩安頓家小,命張闓將軍馬屯於兩廊。眾軍衣裝,都被雨打濕,同聲嗟怨。張闓喚手下頭目於靜處商議曰:「我們本是黃巾餘黨,勉強降順陶謙,未有好處;如今曹嵩輜重車輛無數,你們欲得富貴不難,只就今夜三更,大家砍將入去,把曹嵩一家殺了,取了財物,同往山中落草。此計何如?」眾皆應允。是夜風雨未息,曹嵩正坐,忽聞四壁喊聲大舉。曹德提劍出看,就被搠死。曹嵩忙引一妾奔入方丈後,欲越牆而走;妾肥胖不能出,嵩慌急,與妾躲於廁中,被亂軍所殺。應邵死命逃脫,投袁紹去了。張闓殺盡曹嵩全家,取了財物,放火燒寺,與五百人逃奔淮南去了。後人有詩曰:


曹操奸雄世所誇,曾將呂氏殺全家。

如今闔戶逢人殺,天理循環報不差。


  當下應劭部下有逃命的軍士,報與曹操。操聞之,哭倒於地。眾人救起。操切齒曰:「陶謙縱兵殺吾父,此讎不共戴天!吾今悉起大軍,洗蕩徐州,方雪吾恨!」遂留荀彧、程昱領軍三萬守鄄城,范縣,東阿三縣,其餘盡殺奔徐州來。



(第10回 王室に勤めんと馬騰義兵を挙げ、父の讐に報いんと曹操師を興す


 これより曹操の部下には、文には謀臣、武には猛将があり、山東を威で鎮めていた。曹操は泰山太守の応邵を遣わし、徐州瑯琊郡へ父の曹嵩を迎えに往かせた。曹嵩はエン州陳留郡から非難してから徐州の瑯琊郡に隠居していたが、その日手紙でのたよりに接すると、弟の曹徳及び一家の老幼四十余人、従者百人余り、車百輌余りを帯び、ただちに兗州へと出立した。徐州の道で、徐州太守の陶謙恭祖は温厚純篤な人だったため、曹操と誼を結ぶことを欲し、州の境まで迎え、再拝して敬い、大宴の席を設けて二日間歓待した。曹嵩の出発には陶謙自ら城を出て見送り、都尉の張闓に兵五百で護送させた。


 曹嵩が自分の妻子を率いて華県と費県の県境まで到ると、時は夏の末、秋の初め、俄かに大雨となり、ある古寺を宿にひとやすめすることとなった。寺僧に迎えられ一家が堂内に落ち着くと、曹嵩は張闓将軍に軍馬を廻廊に休ませるよう命じた。兵士たちの衣装はみな雨に打たれ、びしょ濡れになり、ともに怨嗟の声をあげた。張闓は手下の頭目を静かなところに呼び集めて相談すると、「我々はもともと黄巾の残党だ、陶謙に降伏してつとめて従順にしたがっていてもいまだいいところはない。いま曹嵩の輜重車輛は無数で、おまえたちが富貴を得ることは難しいことではない。今夜三更(午後11時すぎ)の夜更けに、おおいに家を切り壊して中へと押し入り、財物を奪い取って、山中のなかへ落ち延びていくというこの計略はどうか?」

といった。するとみな賛成した。その夜は風雨が止まず、曹嵩は寝ないでいたところ、たちまち四方から大きな喚声が聞こえてきた。曹徳が剣を手に様子を見に出て行ったが、いきなり刺し殺されてしまった。曹嵩はせわしく妾を引いて、方丈の後ろへ走り入って、垣根を越えて逃げようとしたが、妾は肥っていて越えられず、慌てて妾と厠に身を潜めたが、そこへ乱入した兵士に殺されるところとなった。張闓は曹嵩一家を皆殺しにして、財物を奪い取ると、寺に火を放って焼き、五百人の部下たちと揚州の淮南郡のほうへと逃げ去っていってしまった。後に人が詩にしていった。:


曹操は奸雄として世に誇り、かつては呂氏の家の者たちを皆殺しにした。

今彼が家族を残らず殺される目にあったようなことは、天理の因果応報にちがいない。


泰山太守応邵の部下に張闓の兵から逃れて命をながらえた者があり、曹操にこの事件のことを報せた。

曹操はこれを聞くと、地に倒れて慟哭し、周りの人びとに助け起こされた。曹操は切歯していった。「兵を放って我が父を殺した陶謙とは、共に天を戴かずこれに復讐してみせる!いま我はただちに大軍を起こし、徐州を洗蕩してすっかり何もなくして、この恨みを晴らす!」曹操は荀彧・程昱に兵三万を支配させてエン州の鄄城・范県・東阿三県を守らせると、余りの軍勢で徐州に殺到した。)」
















































少しずつ手直しを加えながら書き足していきます。

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