ビーフソーススパゲティー
「おかえり、啓人」
「ただいま……」
本日の帰宅部活動は、桃子に敗北するという結果に終わった。
と言っても、別に勝負していたわけではない。
「先に帰ってたんだ。 早いね」
「早めに帰って、これからスーパーへ買い物に行くつもりだったから。 啓人も一緒に、来てくれるよね」
「久々の学校で疲れたから、行きたくないな」
「ちょっと、何を言っているのかよく聞こえない。 一緒に、来てくれるよね」
どうしても俺を買い物に連れて行きたいらしい。
「……荷物持ちが必要なほどたくさん買うのか?」
「たくさん買うわけじゃないよ」
こういうところは正直なんだなと思う。
ここは、ちょっと面倒くさいが、買い物に付き合ってやることにしよう。
「わかった、行くよ。 弁当の恩も――って、弁当で思い……出した!」
「……前世まで思い出したかのような思い出し方だね」
「忘れたとは言わせないぞ。 今日の昼休み、ずっとこっちを見てただろ」
「うん……」
「そりゃ、事前に見るって言ってたけど、実際にやられると想像以上に俺と五木への精神的なダメージが大きくてな。 もう、あんなことはやめようか」
心なしか、しょんぼりとしたように見える桃子。 桃子自身もちょっとやりすぎたかなと反省してくれているのだろうか。
「……わかった。 今度からはバレないように見る」
「うん、わかってないね」
桃子の言う「わかった」は、わかってないってことだってわかった。
このわかったは本当にわかったって意味のわかっただが。
わかったのゲシュタルト崩壊である。
「見られたと啓人が気づいたのなら、わたしの負け。 見られたと啓人が気づかなかったらわたしの勝ち。 バレるか、バレないか、啓人との戦い」
「そんな戦いしなくていいから、俺に平穏な昼休みを過ごさせてくれ……」
「大丈夫。 勝つ自信があるから」
毎度、何を根拠にそんな自信があるのやら。
「まあいいや。 スーパーへ行くのなら、早く行こう」
「そうね」
二人で共に家を出る。
空を見てみると、雲にうっすらと夕日が滲み始めていた。
スーパーは徒歩で行ける距離にあるので、歩いて向かう。
隣を歩く桃子の横顔を、ふと一瞥する。
どこか色っぽさを感じる澄んだ瞳に、綺麗な黒髪。 まるで人形のように整った顔立ちの、美しい少女。
恵まれた容姿を持つ桃子は、当然学校でも美人として有名だったりする。 廊下ですれ違えば、大抵の生徒はつい振り返って見てしまうほどに。
そんな彼女と同居し始めた頃、もちろん俺はそれなりに緊張しまくっていたわけだが、やはり慣れというものはあるもので。
今ではすっかり自然体で接することができるようになり、冗談を言い合ったりもできるようになっていた。 我ながら、たいした進歩だ。
……と言っても、今はもう全く緊張していないというわけではないが。
とにかく。 桃子は俺にとって、ただの黒髪ロング美少女ではなく。
家守桃子は、同居人であり、監視役でもあり、俺にとって初めての友人でもある、一言ではとても言い表せない存在になっていた。
……それにしても桃子からは何かやけに良い香りが漂ってくる。 同じ生活空間で過ごしているはずなのに、人の匂いとはここまで変わってしまうものなのか。
一体この香りの原因がフレグランスによるものなのか、シャンプーによるものなのか凄く気になるけど、本人に聞いたら匂いをクンカクンカしている変態だと思われてしまいそうだから聞かないでおこう。
「啓人、何か変なこと考えていない?」
「考えてないよ」
……俺はそんなに変なことを考えていそうな顔をしていたのだろうか。
いや、偶然に違いない。 それにしても桃子は胸が大きいなあ。 85くらいってところだろうか。 正直たまらないぜグヘヘ……。
「……やっぱり変なこと考えてるでしょ?」
「考えているわけがない」
ついに読心術まで習得したのかこの御方は。
でもマジで習得しててもおかしくないから怖いのが桃子である。
「まあ、変なこと考えててもいいけど。 わたしも変なこと、考えちゃうから。 安心して。 考えるだけで何もしないから」
「いくら考えるだけって言っても、怖いんだけど……」
桃子の考える変なこと。 本当に変なことなんだろうなぁ。 深く考えないでおこう。
と、たいしてまともな会話もせず、スーパーに辿り着いた。
時間帯が時間帯なだけに、買い物客の数は結構多く、レジは混雑している。
新人バイトらしき若者が必死にレジ打ちをしている様子を見ながら、店内を進んでいく。
「啓人、何か食べたいものとかある?」
「なんでもいいよ」
何か食べたいものはあるかという質問に対して、よろしくないであろう返答の代表例をあえて使う。
まあ、本当に具体的な食べ物の名前が思い浮かばないし。
仮に思い浮かんだ具体名を言っても、よっぽど料理好きでもなければ、言われた通りの食べ物を喜んで作ろうとは思わないんじゃないだろうか。
何より、こういう質問は一応質問するだけしとくかって程度で、作ろうとしている料理はだいたい決めてあることが多かったりする。
「じゃあ、ビーフシチューとミートソース、どっちがいいか選んで」
なぜその二つなのかはわからないが、やはり決めてあった。
選択肢があるならこっちも答えやすい。
「ビーフソースで」
会話のドッジボール。
俺の投げた変化球、桃子はどう対処するのか。
「わかった。 今日の晩ごはんはビーフソースにするね」
そう言って、買い物カゴに鶏胸肉を入れる桃子。 何でだよ。
「……いや、わからないでよ。 俺がすまんかった」
競技をバレーボールに変更。 俺の変化球をスパイクで打ち返してきた。 やっぱり桃子は只者じゃなかった。
買い物カゴに入った庶民の味方、鶏胸肉。 ビーフはどこへいったんだ……。
「じゃあ、鶏肉と玉ねぎが安いからカレーにするね」
ビーフシチューとミートソースは一体なんだったのか。
「まったく、家守にはいつも振り回されてばっかりだな……」
「……だいぶ前にも言った気がするけど、わたしのことを家守って苗字で呼ぶのはやめてほしい」
そういえば、桃子は苗字で呼ばれるのを嫌がるんだった。
「爬虫類みたいだからか?」
「ううん、違うけど……」
「爬虫類のヤモリって夜行性らしいな」
「それは知ってる。 わたしは夜行性じゃないけどね」
「俺はつい最近まで夜行性だったよ。 一周回って元に戻ったけどな」
「……それはただの昼夜逆転生活。 すっかり話が脱線してる。 わたしも啓人に振り回されてばっかり」
やられてばかりは性に合わないのだ。 やられたら少しだけやり返す。
「で、家守はなんで苗字で呼ばれたくないんだ? 以前はちゃんと理由を聞けなかったから知らないままなんだけど」
「……酷い。 わたしが言ったこと覚えているのに家守って呼びつづけてたんだ……」
「理由を知らないといまいち呼び方変える気にならなかったというか。 まあ、名前で呼ぶの恥ずかしいって気持ちもあるけど……」
「何を恥ずかしがる必要があるの? わたし自身が名前で呼んで欲しいと言ってるのに」
「そ、そうだな……。 でも一応、呼ばれたくない理由があるなら教えてくれないか?」
桃子に若干の躊躇い。 しかしすぐに、桃子は口を開き、言葉を発する。
「わたしは、わたしが家守家の人間であることを意識したくないの」
「……あんまり聞かれたくないことだったか。 悪い」
「ううん、別に。 隠すようなことでもないし。 啓人もだいたいわたしの家族がどういう存在か知ってるでしょ?」
知らないと言えば嘘になるけど、詳しくは知らない。
せいぜい、桃子の親父さんと何度か会話した程度だ。
その親父さんが中々強烈なキャラだったから、桃子が自分の家族のことをあまり好ましく思っていないのも、なんとなくはわかる。
「……まあ、桃子の親父さんを見れば、だいたいな」
買い物カゴには飲料品もいくつか加わり重くなっていそうだが、桃子は平然と片手で持ち上げ、歩き続ける。 相変わらず涼し気な顔のままだ。
荷物を持とうと言うタイミングを逃した俺は、大人しく聞き手に回る。
「わたしが三姉妹のうちの次女だってことは知ってるよね」
「ああ、知ってるよ」
「わたしには二十歳の姉と、十六歳の妹がいるの。 妹はただただ可哀想な子で、別に嫌いってわけじゃないけど、姉は本当に、大嫌い……」
桃子にしては珍しく感情の強く篭った言葉。
しかし、その感情は向けられて心地良い感情ではない。
嫌悪。 負の感情だ。
「わたしの姉はね、自分以外の人間をまるで実験動物くらいにしか思っていないの。 姉の人を見る目は、わたしたちが虫カゴの中の虫を見る目と同じものよ。 もう長い間姿を見ていないけど、どこで何をやっているのかなんて知りたいとも思わないし、できればこのまま一生会わずに過ごしたい」
桃子の話から、だいたいその姉とやらがどんな奴なのかなんとなくわかった。 確かに観察しているような目で見られるのは気分の良いものじゃない。
だが、桃子がその姉を嫌っているのはそれだけが理由じゃなさそうだ。
必要以上に聞こうとは思わないが、その姉を始めとした家守家には、複雑な家庭の事情があるのだろう。
「わたしが今こうやって、一般的に見て恵まれた生活を送ることができるのは、家族のおかげってのはわかっているけど。 でも、それがまた許せないの」
「許せない?」
「うん。 だからわたしは、より高みを目指すの。 誰にも頼らなくていいくらいに。 ……最終的に頼ることができるのは、自分自身だけだから」
「………………」
今のままでも有能すぎるくらいに有能な桃子が、更なる高みを目指す理由。
それは、誰にも頼らずに生きていく為という、とても寂しいものだった。
「……家守って呼ばれたくない理由、わかってくれた?」
「ああ、わかったよ。 ももこ」
「……ももこ違う。 とうこ」
家守桃子。 誰がどう見ても「やもりももこ」と読んでしまうだろう。
「確かに桃は『もも』と読みたくなるかもしれないけれど、わたしの名前は『とうこ』であって『ももこ』じゃない……」
「うん、知ってる」
「わざと間違えたの? 酷い……」
なんだかんだで親に付けてもらったであろう名前を大事にする家守桃子。 名前を間違えて呼ばれるのは普通に嫌なようだ。
「もう買うものは全部買い物カゴに入れたから、レジに行くね」
そう言って、桃子はレジへと向かった。
早く会計を済ませたいのなら、なるべく人が並んでいないレジに並ぶべきだろう。
しかし、視野に入れておきたいポイントは他にもあり、レジ担当者の仕事の速さや、並ぶ客の買い物カゴの中身もチェックしておく必要がある。
並んでいる人自体は多くても、レジ担当の仕事が早い且つ並ぶ客の買い物カゴの中身が少ないと、並んでいる人が少ない他のレジよりも早く会計が済む場合がある。
当然、桃子はそんなこと当たり前だと言わんばかりに、他よりも並んでいるレジにあえて並んでいた。
桃子の予想は的中。
桃子の並んだレジの店員はベテランのようで、レジ打ちが速かった。
並んでいる客の買い物カゴの中身も少なく、並んでいる客が少なかった他のレジよりも早く会計を済ませ、こちらへ帰ってくる。
「おまたせ」
「付いてきたはいいけど、特に何もしてないから、帰り道くらい全部荷物持ちするよ」
「うん。 それじゃあ、お願い」
商品の入ったスーパーの袋を二つ手渡される。 見た目よりも結構ずっしりと重みを感じる。
俺は力には自信があるから平気だが、いくら桃子でもこれは荷物持ちがいた方がいいだろう。
「……やっぱり久々に外で活動すると、疲れるな。 明日の学校も大変そうだ」
「授業中は寝るんでしょ? だったら、疲れていても大丈夫」
図星。
「体育の時間は起きてなきゃいけないし、疲れていても大丈夫じゃないと思うんだ」
「それもそうね。 保健室で寝るしかない」
体育サボる前提かよ。
「……俺は何も、サボるの大好き人間じゃないんだぞ。 元気があったら授業を頑張りたいと思っている」
「思っているだけ」
ぐぬぬ……。 何も言い返せない。
「桃子だって、授業中に授業と関係ない本を読んでるじゃないか」
「……授業中に、わたしのこと見てたの?」
「あっ」
弱みを見つけてやったと、心底嬉しそうにニヤニヤする桃子。
嗜虐心のたっぷり詰まったジト目を向けられる。
「……何か変な勘違いしてないか? 俺の席からは桃子の様子がよく見えるってだけだからな!」
「照れなくていいよ」
「照れてないから!」
「啓人のそういうところ、可愛い……。 ……安心して。 わたしは授業中、啓人に見られていても気にしないから。 むしろ、もっと見ていいよ」
「見ないから安心してくれ……」
桃子は俺をからかうとき、やけに楽しそうにする。
俺としては、決して楽しいものでもないが、桃子は本当に楽しそうだから困る。
桃子にとって心の底から楽しいと思えることは、きっと、とても少ないのだから。