久々の登校
いつもはテレビを観ながら朝食を食べるが、今日はテレビの電源を点けずに朝食を食べる。
トースト二枚とベーコンエッグとサラダ。 いかにも朝食といった感じのメニューだ。
俺は、食パンをトーストしないと食べられない……というわけではないが、トーストすると、トーストしない時の数倍は美味しいと感じるくらいにはトーストする派だったりする。
「コーヒーはいつも通り、自分で用意してね」
「ああ」
朝はインスタントコーヒーを飲むのが日課だ。 缶コーヒーはあまり好きではなく、かといって本格的にコーヒーメーカーを使って豆から……といったことをするのは面倒くさい自分にはちょうどいい。
コーヒー粉末と砂糖を、ティースプーンで一対二杯。 これが一番自分好みの配分だ。
「一週間引きこもり生活をしていても、ごはんは美味しく感じるものだな」
「啓人は深夜に外出してたみたいだけどね」
ちなみに食事は、いつも桃子が作ってくれる。 流石に作ってもらってばかりは悪い気がするので、洗い物くらいは俺もするが、それだけだ。 いつか俺も、簡単な料理くらいなら作れるようにならなければ。
「啓人はわたしと一緒に登校したがらないだろうから、わたしは先に行くね。 別に問題ないだろうけど、ちゃんと戸締まりもよろしくね」
「はいよ」
まだ始業時間までだいぶあるというのに、桃子は家を出て行った。 てっきり俺が登校するのをちゃんと見届けるのかと思ったが、そんなことはなかったようだ。
朝食を済ませ、シャワーを浴び、テキトーに身支度を整えて制服を着る。 制服は、桃子がちゃんとアイロンがけをしてくれているみたいで、シワひとつない新品のような状態だった。
「あいつ、クリーニング屋さんになれるぞ」
桃子の家事スキルに感心しながら、学校へ行く準備をする。 準備といっても、置き勉マンの俺が用意するものは財布と筆箱辺りなものだが。
時計を見ると、まだ七時半である。 結構ゆっくりしていたのに、早く起きただけあって、まだまだ時間には余裕がある。
家から学校までは、徒歩で二十分程度の距離しかない。 公共交通機関を使わなくて済むし、自転車を使えばもっと早く行ける。
個人的に自転車に乗るのはあまり好きではないので、自転車を使うことはないだろうけれど、八時くらいに家を出れば徒歩でも充分始業時間には間に合う。
テレビを点けて観たり、スマホを弄ったりして時間を潰し、八時をちょっと過ぎた頃に家を出る。
深夜に外出していたとはいえ、久しぶりに出歩く明るい昼間の外の世界は、とても眩しく感じるものだった。
五月末。 もうすぐ六月になろうとするこの季節。 程よい暖かさの日差しが心地よい。 このまま通学途中にある公園で居眠りでもしたい気分になる。
「……いかんいかん」
今日はちゃんと学校へ行くと決めたのだ。 寝るのは学校に着いてからにしなければ。
途中、何人かの人とすれ違う。 近所にある中学校の生徒。 これから買い物でも行くのであろう、親子。 犬の散歩をする老人。 通勤途中らしきスーツ姿の社会人。 俺と同じ制服を着た高校生。
誰も、俺が一週間近く引きこもっていたことなど知らないだろう。 同じ高校の生徒なら、もしかすると噂か何かにで聞いている可能性がなくはないだろうが、基本的に俺はそこまで注目される存在ではない。
元々周囲との関わりのほとんどない生徒一人が不登校になったところで、周りはそんなに気にしないのが現実だろう。 仮に俺が、それこそ一ヶ月以上不登校になったとしてもだ。
数年後、そういえば自分の学校に不登校の子がいたなぁと、軽く思い出す。 せいぜいその程度じゃなかろうか。
そんな、高校の頃にいた不登校の生徒Aになるのも別に良かったのだが、不登校に拘りがあるわけじゃない。 桃子に登校を促される以前に、引きこもり生活に飽きていたのだ。
何せ、俺は今年の四月から学校に通い始める前まで、ずっと引きこもり生活をしていたのだから。 時間にして、約一年半。 飽きても当然の長さだ。
こう言うと、引きこもり生活が楽しくない退屈なものであるかのようだが、決してそんなことはなかった。
少なくとも俺にとっては、普通に学校へ行って過ごすよりも収穫のある、充実した時間だった。 これほどまでに自分としっかり向き合う時間というものを過ごしたことがなかったからだ。
一人で引き篭っていると、必然的に一人で思考する時間が増える。 思考の末、辛くなることも多い。
一人で考え続けたところで、打開できないことの方が多い。 むしろ、余計悩みが増えたりもする。
それでも自分を見つめることで、新しい物の見方ができるようになったり、憑き物が落ちたかのように今まで頑なに否定していたものを許せるようになったりもする。
世間では引きこもり生活などしてはならない、否定されるべきものだとされがちだ。 もちろんずっと引きこもり生活が続いたらダメだろうが、何も得ることがないものとして全否定するのは間違いではないだろうか。
そんなわけで、充分自分と向き合うことのできた俺に今必要なのは他人。 他人と言っても、指で数えられる程度の少人数しかいないが。
「お……」
と、考え事をしている内に、学校へ着いてしまった。 こうして、わずか一週間という短い期間ながらも不登校引きこもり生活をしていた俺は、元不登校引きこもりにランクアップ(?)したのであった。
朝から生徒の行き交う廊下は騒がしく、横切る朝練後の生徒たちから漂ってくる制汗剤と汗の混ざった匂いは、あまり嗅ぎたいとは思えないものだった。
やはり学校は人が多すぎる。 人が多すぎるところはあまり自分にはよろしくない。
でも、あれだけ学校をサボったのだから、今更逃げるわけにもいかない。
それに、これから人の多い場所へ行く機会が増えるような気がする。 なんとなくだが、その時の為にも慣れておかなければ。
意を決し、約一ヶ月ぶりの教室へ。
誰にも注目されず、さりげなく自分の席に座り、出席確認時に「あれ? あいつ久々に学校来てる……」と、少々ざわつかれる。
それくらいが理想。 大丈夫だ、周りは俺のことをそんなに気にしていないはず。
久々の登校で、少し緊張しているだけだ、自意識過剰になってしまっている。
普通に、いつも通りにしていれば、そこまで注目を浴びないはずだ。
自分の席へ向かって歩み出す。
見たところ、席替えなどしておらず、自分の席の位置は以前と変わらないままだった。
その前の席には、五木紗羽が座っていた。
話し相手などおらず、一人寂しく本を読む紗羽。
周囲に対して心を閉ざし、自分の世界に入り込んで時間を潰しているようだ。
それが、本人にとって本当に楽しく、充実した時の過ごし方ならば邪魔をしちゃいけないだろうが、どうみてもそうは思えない。 どこかつまらなそうにも見える。
あんな生き方で、高校生活を続けても辛いはずだ。 ストレスが溜まって心身ともに悪くなるだろうに。
今朝、桃子の言ったことが頭をよぎる。
とりあえず今は、同情するしないとかは関係なく、一度関わった責任をしっかり取る。 それでいい。 その為に登校したわけでもあるのだから。
席まで向かう途中、多少珍しいモノを見るような――実際珍しいモノだからしかたないが――視線を向けられてはいたけれど、教室にいる五木の存在を確認した今となっては、それらはあまり気にならなくなっていた。
ゴールデンウィーク前と変わらぬよう、ただ、五木の話し相手になる。
何も、五木の高校生活を輝かしいものにする正義のヒーローになるわけではない。 そんな押し付けがましい善意を俺は持ち合わせていない。
静かに自分の席に座る。 桃子じゃあるまいが、気配を殺して、音を立てずに。
五木の後ろ頭が目の前にある。
茶色がかった黒い髪の毛を左右にまとめて垂らしていてる。 所謂ツインテールというやつだ。
学校では他に五木と同じような髪型の女子は見かけない為、後ろ姿だけですぐ五木だとわかる。
「五木」
「ひゃっ!?」
首に冷たい缶ジュースでも押し付けられたかのように、ビクッとする五木。
……そりゃあそうなるよな、背後から約一週間ぶりに自分の名を呼ぶ声がいきなり聞こえりゃ。 五木じゃなくても驚いていただろう。
「ひっ、人見君!?」
「久しぶり」
「ひ、久しぶりです……」
最初は驚いていた表情も、徐々に驚きよりも、久々に会えた嬉しさが勝ったのか、笑顔へと変化する。
こんな言い方は五木に失礼だが、まるで飼い主を見つけた子犬のようだ。 きっとみえない尻尾を千切れんばかり振っているだろう。
そんな五木を見ていると、ますます気が重くなる。
五木にとって、学校における唯一の友人という存在の重み。 責任。
俺に対し向けられる好意が嫌なわけではないが、その好意に好意を返し続けることは、俺にとって決して楽なことじゃない。 だって俺、人に好意を向けるの苦手だし。
しかし、間違いなく俺の置かれたこの立場は、俺自身を起因とするものだ。 俺にとってはどんなに軽い気持ちでの関与であろうと、相手にとってそれが軽いものでなければ、それが相手にとっての真実となる。
俺がどう考えていようが、俺と五木は同じ人間ではない。
永遠に自己と他者。 違う思考をし、違う物の見方をする存在。
以前の俺は、その辺りの認識が薄かったのかもしれない。 この世界に来てからは、多少はマシになったと思うが、それでもまだまだだ。
「ずーっと学校に来ないから心配してたんですよ! 一体、何があったんですか?」
「五月病ってやつだよ」
「五月病なら仕方ないです。 六月病にはならないでくださいね」
「え、六月病なんかあるのか?」
「はい。 どちらも適応障害であることには変わりないですけど」
知らなかった。 それにしても、相変わらず五木は俺の冗談を本気にしてるのか、テキトーに受け流してるのかよくわからない。
ちなみに俺に対して敬語なのも、出会った当初に「実は俺、何年も留年してて、実年齢は二十歳を超えているんだ」と言ったのが原因だ。
「え! 何歳も年上だったんですか!?」と、その場では素直に俺の言葉を信じているようだったが。
今となっては、未だに本気にしてるのか、嘘だとわかっていても敬語に慣れてしまって今更タメ語に戻すのが面倒臭いのか、わからないし、聞こうとも特に思わない。
「でも、良かったです。 このまま学校に来ないんじゃないかと思いました……。 今日からはちゃんと学校に来てくれるんですね!」
「どうだろ。 たまにサボるかもよ」
「ダメです! サボり癖は治さないとですよ?」
「五木もたまにはサボってみれば? 平日の昼間に家でグータラするのは最高だぞ。 学校に行ってたら観ることのできないテレビ番組をリアルタイムで視聴したりさ。 ……飽きるけど」
「わたし、三年間無遅刻無欠席を目指しているんです。 そんな誘惑には負けません!」
「五木は真面目だなぁ……」
「む……。 その真面目は、決して良い意味で使われているわけじゃない真面目ですね?」
真面目という言葉に対し何か引っかかる部分があるのか、ふくれっ面を見せる五木。
「え? どういうこと?」
「褒めているわけじゃなく、悪い意味での真面目ってことです。 つまらない奴だとか、そういうニュアンスのですよ。 言われてる本人も、真面目な行動をするのは、単に気が弱いか、面倒くさがり屋なのが理由なんだと思います。 ちなみにわたしは前者です。 良い意味で真面目なんかじゃないですよ」
「そうか……? 五木は普通に良い意味で真面目だと思うけどな。 三年間無遅刻無欠席なんて、口で言うほど簡単じゃないだろうし、気を強く持たなきゃできないと思うぞ」
何より、三年間無遅刻無欠席だったところで大きな報酬があるわけでもない。 他人から認められたい、褒められたいと思って何かをする人間にはまず難しいだろう。
「そうですかね……? わたしが無遅刻無欠席を貫くのは、遅刻して教室入るのも、欠席した翌日学校へ行くのも嫌って理由が大きいんですけど……」
「それでも凄いと思う」
「そうかな……?」
「そうだよ。 ほら、俺は現時点で遅刻も欠席もしまくりだし」
「……人見君と比較してもあまり意味がないですね」
「ぐっ……! 耳が痛い……」
中々痛いところを突かれ、何も言い返せなくなる俺。 五木は意外と毒舌だったりするので、油断ならない。
「…………?」
ふと、視界に桃子が入り込む。
ちょうど教室に入って席に座るところみたいだ。
俺と五木の席が窓際の列の真ん中辺りであるのに対し、桃子の席は教卓の目の前である。 俺の席からは桃子の様子がわかりやすい。
早く家を出たのに、始業時間ギリギリに着席するとは。 今まで図書室にでもいたのだろう。
「あっ、先生が来ましたよ」
五木の声を聞き、視線を桃子から教室前方の扉に移す。 先生が入ってきた。 四十代くらいの、眼鏡をかけた男性教師が担任である。
堅物そうに見えるが、俺を始めとする問題児にも寛容な良い教師だ。 生徒との距離感の掴み方がなかなかうまく、校内の教師の中でも、人気がある。
「今日の欠席は……蟻塚と鎌桐だけか」
そう言って担任が出席確認を終えようとしたタイミングで、欠席扱いされそうになった鎌桐勇人が教室に入ってきた。
「……と思ったら鎌桐は遅刻か。 早く席に着け」
「悪いな先生。 明日はわかりやすく遅刻するからよ」
「わかりやすく遅刻してどうする……。 明日はちゃんと間に合うように来い」
校則的に、完全にアウトだろうと突っ込みたくなる金髪具合に、着崩した制服。 深夜のコンビニ前でタバコでも吸って座っていれば、さぞいかにもな絵面になるだろう。
そう、鎌桐勇人はパッと見不良だ。 中身も不良じゃないとは言い切れない。 だが、単純に不良とカテゴライズするには、抵抗感を抱かずにはいられない不思議な男だったりする。
学校における俺の、数少ない話し相手の一人であり、唯一の、同性の友達。
遅刻の常習犯で、欠席も多く、何かと担任を困らせる存在ではあるが、他人を傷つけるような行動はしない。
どこかのグループに属しているという感じではないが、一匹狼なわけでも、ボッチなわけでもなく、クラスの誰とでも別け隔てなく接している。
俺は当初、勇人と仲良くするつもりはなかった。
だが、学校生活を送る中でよく話すようになり、結構気が合うということで知らない間に仲良くなっていた。
そんな勇人に今日学校で会えることは、正直嬉しい。
朝のホームルームも終わり、久しぶりの授業が始まる。 一限目は国語のようだ。
「……というわけで、作者はこの作品を書いたわけであるが……」
勉強は大事だし、ちゃんと授業を受ける必要はあるとは思うが、今朝まで不登校引きこもりだった俺には辛い時間だ。 幸い、一限目は寝ても怒らない先生なので、寝ることにしよう。
とその前に、桃子の方を見る。
桃子にとって、学校の授業は退屈すぎるものだろう。
正直、なんでわざわざ普通の女子高生らしく学校に通い続けているのかわからなかったりする。
案の定、ちゃんと教科書とノートを机に出してはいるが、なにやら別の本を涼し気な顔で読み進めている。
教卓の目の前なのに。 先生も気づいているだろう。
彼女にとって、学校生活とは何なのだろう。
そんな疑問を抱きながら、俺は睡魔の泥濘に沈んでいった。