五木紗羽と人間関係
「な、なんでしょうか……」
すっかり弱った様子で、俺の声に応じる。
額に脂汗まで滲み出ていて、まるで腹でも殴られたかのように苦しそうだ。 本当に、何があったのやら。
「……どうかしたのか? 凄く辛そうだけど……」
「……おなか、痛いです……」
「腹痛? 原因に心当たりは?」
原因がわかれば、どうしてやればいいのかもわかる。 だが、こんな辛そうな状態で、原因を喋らせるのも悪いな。
「心当たりなら……あります」
「それは一体……?」
「麻婆豆腐です……」
「……え?」
腹痛の原因、麻婆豆腐。 要は、麻婆豆腐の辛さに胃がヤラれたというわけか。
「えっと……。 ……トイレへ行ったほうがいいんじゃないか?」
「そ、そうします……。 うう……」
本当に苦しそうだ。 だが、その苦しみを五木の代わりに受けてやることはできない。 やるせない気持ちのまま、五木がトイレから帰還してくるのをただ待つだけだ。
「ただいま戻りました……」
「おう、おかえり」
だいたい十分ほど経過した後に、五木がトイレから帰ってきた。 先程の苦悶に満ちた顔ではなくなったが、随分とゲッソリと疲れ果てた顔をしている。
「人見君……。 漫画のキャラクターたちって、凄いですよね……」
「え?」
「特に主人公なんかは、大怪我をたくさんしても、その痛みに耐えて戦い続けるじゃないですか」
「まあ、そうだな……」
「わたしは、今の腹痛だけでもう死にそうって思ったのに、ホント凄いですよね……。 わたしって、なんて弱いんだろう……」
「安心しろ、五木。 それが普通で、漫画の登場人物が異常なだけだ」
バトル漫画の登場人物たちが痛みに弱かったら大問題だ。 食事が原因の腹痛で気絶する主人公なんていたら、困る。
「でも……。 こんなに痛みに弱かったら、将来心配ですよ……」
「将来?」
「たぶんですけど、生きている限り、今回みたいな苦痛を何回も経験するわけじゃないですか。 その度にこんな思いをするなんて、不安でしょうがないです……」
これまた何で、ここまで深刻に考えるのやら。
「……どこかで聞いた話だけど、男性よりも女性の方が痛みに強いらしいぞ? 何でも、出産の痛みに耐える為に何やかんやで……。 だから、五木は俺なんかよりも痛みに強いんじゃないか?」
実のところ、男性と女性のどちらが痛みに強いかは、痛みの種類によっても異なるらしいし、ハッキリとわからない部分が多いそうだ。
でも、五木を少しでも元気づける為に、それっぽいことを言ってみた次第である。
「しゅ、しゅっさん……」
出産という言葉を聞いて、青褪める五木。 どうやら言葉のチョイスを間違えてしまったようだ。
「わたし、お母さんに聞いたことがあります……。 陣痛や出産の痛みは相当なものだそうで……」
「そ、そうらしいな……」
「……男の人って、ズルいです……。 痛い思いをするのは、女の人ばかりじゃないですか」
挙句の果てにズルいと言われてしまった。
人間のお産が苦痛なのは二足歩行の哺乳類であるが故の宿命だ。 俺を含め、人間の雄に文句を言われても困る。
「ズルくてもいいけどさ、何でまた、そんな腹痛になるほど辛い麻婆豆腐を食べたんだ?」
「ああ、それはですね……。 麻婆豆腐を作ってみたいと思って、昨日の夜、自分で作ってみたんですよ」
「もしかして、スーパーに売ってるような麻婆豆腐の素から作ったんじゃなくて……」
「はい。 ちゃんとタレも自分で作りました!」
「す、すごいな……」
俺だったら、中華料理屋にでも行ってしまう。 面倒くさいし……。
「それでですね、麻婆豆腐は四川料理で、四川料理の特徴といえば、花椒と唐辛子による味付けなわけです」
「麻辣味っていうんだっけか? 二種類の異なる辛さが、麻婆豆腐の美味しさを生み出すだとか……」
「はい。 ……もう、おわかりですね? わたし、花椒と唐辛子を入れすぎてしまったんです」
きっと、辛さこそが麻婆豆腐のうまさ! みたいなノリで入れまくってしまったのだろう。 その気持ち、わからんわけでもない。
「そしたら、辛くなりすぎて美味しいとかそれ以前に食べるのが大変なことになっちゃったと」
「その通りです……。 わたし、アホですよね……」
「そんなことは……ある」
「ひ、酷い……!」
せめてちょっとずつ味見くらいしよう。 味付けの確認を怠ってはならない。
「で、結局その麻婆豆腐は全部食べたのか?」
「……はい。 昨晩と今日のお昼で何とか……」
「そこは無理せず、捨てても良かったんじゃ……」
「だって、勿体無いじゃないですか。 何より、せっかく作ったのを捨てるなんて、切ないです……」
「そうは言ってもな。 もっと自分の体を労ってやらなきゃ……」
勿体無いからといって腹痛になるのも馬鹿らしい。
「いいんです。 この腹痛は、料理を失敗してしまったわたしへの罰として受け止めますから……」
なんてネガティブな考え方。 自分へのご褒美を毎週設けるくらいポジティブな子になって欲しいものだ。
「とにかく、体調が悪くなったら無理せず言ってくれよ。 生理現象は我慢して何とかなるものでもないし」
「はい……」
もしかして、五木の様子がいつもよりおかしく感じたのは、腹痛のせいだったのだろうか。
だったら、そこまで心配する必要もなさそうだが……。
「やっと、終わった……」
「何とか閉館時間までに終わりましたね!」
ただいまの時刻、午後六時半。
閉館時間まで後三十分というところで、俺は夏休みの宿題を全て終える。 想定していたよりもだいぶ時間がかかってしまったが、これで俺は自由だ……!
「これからどうしようか?」
「うーん、そうですね……。 駅の方でお祭りがあるみたいですけど、今から行くのは……」
「行ってすぐ帰ることになりそうだな……」
この後の予定は特に決めていなかった。 これで解散だなんてことにはしないようにしなければ。
「もう時間も時間ですし、帰りますか」
と思った矢先にこれか……!
「帰るのか……?」
「はい。 もしかして、人見君はどこか行きたいところでもあるんですか……?」
俺も人のことをアホだと言えないな。 その場のノリで何とかできるだろうと軽く考えていたが、いざとなるとちゃんと考えていなかったツケがここに。
「……特にないかな」
「じゃあ、途中まで一緒に帰りましょうか」
俺は何をやっているんだ……。 適当な場所を挙げればそれで良かったのに。 これじゃあ、このまま解散ルートだ。
「人見君」
「ん?」
帰り道。 どうしようかと考えながら歩いている途中、五木に声をかけられる。
「今日は、その、誘ってくれてありがとうございました……」
急にそんなことを言われたので、動揺してしまう。
「そんな改まって、どうしたんだ? 感謝なら、こっちからも言わせて貰いたいくらいだけど……」
「……わたし、ふと思ったんです。 人見君がいなかったら、今頃どんな生活をしていたんだろうと……」
「俺がいなかったら……?」
「はい。 わたし、今日だって、人見君に誘われなかったら一人で過ごす予定でしたし。 これでもし、人見君もいなかったら、ずっとひとりぼっちだったなって」
五木の言いたいことはだいたいわかった。 確かに五木の言うとおり、俺がもし五木のクラスに来ていなかったら、五木は誰とも馴染めずに高校生活を送り続けていた可能性は高い。
だが、本当にそうだったのかなんて、誰にもわかるわけがない。
だから、俺がいなかったらどうなっていたかなんて、想像することくらいしかできないんだ。
「……もしひとりぼっちのままだったら、五木はどうしてたんだ?」
「どうしてたんでしょうね。 案外、それなりに楽しみを見つけて過ごしている、かもしれませんし……。 そもそも、わたしは元々ひとりぼっちだったので……」
「高校一年の時はどうしてたんだ?」
「……毎日、黒板の上の時計ばかり見ていました」
「時計? 何で、また……」
「学校が終わるまで後どれくらいなのか、見ていたんです」
「………………」
俺が思っている以上に、五木は悲しい思いをし続けていたのかもしれない。
「休みの日はあっという間に時間が過ぎていくのに、学校で過ごす時間はとても長く感じました。 不思議ですよね」
「………………」
五木がイジメを受けていたという事実は確認していないし、きっと本当にそんな事実は無いんだろうけど、だからといって学校生活が五木にとって良いものであるとは限らない。
「でも、人見君が来てから……。 わたしにとっての学校生活は、変化しました。 毎日、仕方なく行っていた学校が、楽しみになって……。 休日の方が辛いくらいで……」
俺のおかげ。 そう聞いて、素直に良い気分にはなれない。
まったく、桃子が俺に言ってきたことは、割りと的を射ているから困る。
俺は、五木が一人でいたから仲良くしたわけじゃない。 ただ、話しかけてみたいと思っただけで、五木の恩人になろうとかそんな気は一切ないんだ。
だから、俺のことをそんな風に思うのはやめてくれ。
「……人見君はどうなんですか」
「……え?」
「わたしといて、楽しいですか?」
「……楽しいよ」
「わたしには、人見君しかいないようなものですが……。 人見君には鎌桐君や桃子さん、それに蟻塚さんだっています」
前は桃子のことを家守さん呼びしていたのに、今は桃子さんか。 このことに五木は何とも思わないのか。
「人見君はもしかして、無理してわたしと一緒にいるんじゃありませんか……? 他にも友達がいるのに、わたしが可哀想だから話しかけてくれるんじゃ……」
「そんなわけないだろ」
まったく、五木はわかりやすくて困る。 友達のいないヤツが陥る、典型的な思考パターンだ。 テンプレートすぎて呆れる。 この際、ハッキリ言ってやろうじゃないか。
「前から五木に言おうとは思っていたんだけどさ、五木って結構ロマンチストだよな」
「え……?」
「あの時の会話、覚えているか? 人間関係なんてたいしたことないって話」
「覚えてますよ……。 でも、わたしは、たいしたことないなんて思いたくないって……」
「そうだったな。 だから俺も、五木に押されて言葉を訂正したんだ。 でも、やっぱり人間関係なんてたいしたことないんだよ。 俺は運命の出会いとか、そういうのは無いと思ってる。 それに対して冷たいと思ったり、つまらないと思ってくれても構わないけど、一応理由くらいは聞いてくれないか?」
「…………はい」
五木も五木で俺がこんな風に対応してくるとは思っていなかったのか、若干動揺している様子。
「俺はたぶん、五木がすぐ近くの席にいなかったら、五木に話しかけていなかった」
「……え?」
「普段の俺を見てもわかるだろ? 俺は、わざわざ遠くの席に座っている話しかけたことのないような子の元へ行くような人じゃない」
「………………」
「もしも、俺の前の席が五木じゃなかったら、俺はその人に話しかけていたかもな。 あくまでかもしれない程度の話だけど」
「……そう、ですか……」
こんな話、五木は聞きたがらないだろうけど、そんなことはどうでもいい。
「まず、俺があの高校に通っているのは、たまたまあの高校が住む家の一番近くにあったからだ。 五木にはどんな理由があるのかわからないけど、たぶん近場だったからとか、そんな理由だろ?」
「まあ、そんな感じですね……」
「つまり、俺と五木が同じ学校に通うのは、たまたま生活圏が重なったとかそんな理由でしかない。 それこそ、五木の両親の勤務先がこの地域から通勤するのにちょうどいいとか、色々な理由があって成立しているわけであって、その一つでも違っていれば、五木はもっと別の地域で暮らしてて、別の高校に通っていたのかもしれない。 人と人との出会いなんて、その程度のものなんだよ」
その程度のもの。 それこそが、あまりにも大きな影響力を持っているわけだが。
「俺たちは、大きな流れの中で偶然巡り合っただけで、会うべくして会ったとか、そういうのはない。 今俺たちの身の回りのあらゆる関係性は、偶然出会った人間同士で、それなりの関係を築き上げていった結果でしかないんだ。 もしもの話をしだしたらキリがないが、今の人間関係が良いにしろ、悪いにしろ、出会う人の巡り合わせが少しでも違っていたら、もっと良い人間関係に恵まれている可能性だって、もっと悪い人間関係に見舞われる可能性だってある」
だからある意味、よく教師が言うような、同じクラスの一員になったからには云々ってのは正しい。
が、それだけのことでしかない。 運良く気の合う人が多かったら喜べばいいし、嫌なヤツばかりだったら憂鬱な日々を送り続ける他ない。 人間関係を選べない人たちは、自らの置かれた人間環境でそれなりにやっていくしかないんだ。
「……と、ここまでは前に話した通りだな。 要は、人間関係を重く捉えすぎるなってこと。 で、ここからなんだけど、五木は本当はわかっているんじゃないか? 俺が散々、人間関係はたいしたことないだの、巡り合わせだの言っているけど、個人の力でどうにでも変えられる部分だってあるってことに」
「個人の、力で……?」
「例えば、俺の席が五木からだいぶ離れた場所にあったとして、だ。 俺は五木に話しかけたりしなかったかもしれないけど、五木が俺に話しかけていたら、どうなっていたかわからないだろ?」
「………………」
「人と人との巡り合いの、大きな流れ自体は変えられなくても、変えられる部分が全くないわけじゃないんだ」
超アホ女の受け売りなのが情けないが、この考えを割りと気に入っている俺がいた。
「そして何より俺が五木に言いたいことは、五木はもう、変えているんだよってことだ」
「………………?」
俺が何を言っているのやらサッパリといった顔をする五木。 けど、すぐにわかってくれるだろう。
「五木を取り巻く今の人間関係はさ、俺だけが作ったものじゃないだろ?」
「………………!!」
五木にとって、これは盲点だったに違いない。
五木がこうやって俺と一緒に歩いているのは、それを受け入れた五木がいるからだ。
五木と俺が仲良くなれたのは、俺が五木に話しかけて、五木が応えてくれたからだ。
くだらないことを言い合ったり、互いの悩みを打ち明けたり、そんな風にできるのは、言葉を返してくれる相手がいるからなんだ。
俺だけが頑張ったところで、五木が俺を無視し続けていたら、今のような関係は存在していない。
「五木はもしかすると、自分ばかり何かをしてもらっているだとか思っているのかもしれないけど、そんなことはないからな。 俺はさ、五木が何でもないような会話に付き合ってくれて、本当に嬉しいと思うし、文化祭の時だって、本当に感謝してるんだ。 だからさ、あんまり自分を責めるようなネガティブな思考には陥らないでくれよ。 同じネガティブなら、前向きなネガティブになってくれ」
「……ポジティブな諦めってことですね」
俺の言葉をどう受け止めたのだろうか。 五木は俯いて、考え込んでいる。
「……人見君」
しばらくして、
「わたし、どうかしてました……。 色々あって、物事を良くない方にばかり考えてしまって……」
と五木は言った。
……色々あって?
「……そっか」
気づけばもう、五木の住むマンションの前だ。
しかし、これで別れてしまって本当にいいのだろうか。
俺はただ、言いたいことをベラベラと一方的に喋っただけに過ぎないし、まだ言い足りない。 これだけじゃ、俺が本当に気になっていたことは未解決のままだ。
「………………」
ふと、空を見てみる。
既に夜の帳は下りていて、空に浮かぶ満月の存在を際立たせている。
「じゃあ、また今度ですね」
とうとう五木の家の前まで来てしまった。 俺はなんてヘタレなんだろう。 桃子のことをヘタレだと言えない。
「ああ。 また近いうちにどこか行こうな」
「はい! 是非!」
さっきまでとは打って変わって、明るい笑顔を見せてくれる五木。
「では、お気をつけて!」
でも……。 相変わらず、五木は別れ際に、寂しそうな笑顔を見せた。
「………………」
以前の俺は、それに気づきながらも、これ以上踏み込むことを良しとしなかったが、今は違う。
今こそ俺は……。
「……五木」
「はい……?」
本当は、最初からこうしていれば良かったのかもしれない。
「……まだ、ちょっとだけ、散歩でもしないか?」
「散歩、ですか……?」
我ながら、なんて苦しい誘い方なんだろう。
「空。 見てみなよ」
「空……?」
一人でただただぼんやりと、月夜を眺める。
それだけの行為が好きだった俺だが、何も一人で見ることに拘っているわけじゃない。
「…………満月、ですね」
誰かと一緒に月を見る。 そんな時間を過ごすのも、中々良いものなんじゃないかなと思い始めていた。
こんな満月の夜は、特に。 そう思わざるを得なかった。




