蟻塚美門はアホ
涼しい教室から抜け出し、わざわざ暑くて汗をかくこと必至な非常階段の踊り場まで来た俺たち。
でもまあ、暑くてもここは相変わらず落ち着く場所ではある。
それにしても、明日のことって何だろう? 今度こそ、何かを約束した記憶なんてものはない。
「で、明日のことって何だ? 何か約束してたっけ?」
「まだ約束はしてねーな。 今からするつもりではあるけどよ」
「だよな。 またド忘れしたのかと思ったぞ……。 明日、何かするのか?」
「特別何かをするってわけでもねーな。 ただ、ちょうど明日、俺の両親がずっと家にいないからよ、俺の家にでも遊びに来るかなと思ったわけよ」
勇人の家には一度だけ行ったことがあるが、それっきりだ。 また遊びに行くのもいいかもしれない。
「いいな、それ。 明日は特に予定はないし、最近は勇人と遊んでなかったしな」
「よし決まりだな。 何なら泊まっていけよ。 夏休み初日から徹夜でゲームと行こうぜ?」
友達の家にお泊りか。 そんなこと、今までしたことがない。 良い思い出作りになるかもしれない。
「俺は構わないけど、勇人のお姉さんは了承済みなのか?」
「まあ、そこらへんは任せとけよ。 為せば成る、為さねば成らぬ、なんとやらって言うだろ?」
「………………」
こいつ、姉に何も言ってねーな。
「なんとやらって、何よ」
「わっ!?」
俺としたことが、今の今までその存在に気づかなかった。
「き、気づかなかったぜ……」
「いつからそこにいたんだよ……」
声の主は蟻塚美門だった。 相変わらずの高圧的態度。
そういえば、以前俺は蟻塚のことを高嶺の薔薇と表現していたが、実際にタカネバラという名の高山植物があることをつい最近知った。
高山植物の中では珍しく大きい花で鮮やかな色だというタカネバラは、何だか蟻塚に相応しいような気がしなくもない。
「あなたたち二人が来るよりだいぶ前からよ。 ここにわたしがいたら、悪いのかしら?」
蟻塚は、俺たちが立っている踊り場からすぐ上の階段に座って、読書をしている。
「悪くないけど、こんなところで読書して、暑くないのか?」
「暑いわ。 汗、かいてきちゃった」
「……っ……!」
確かに蟻塚を見てみると、額に汗を浮かべている。
しかも、それだけでなく、全体的に汗ばみ、湿っているような……。
更に目を凝らすと、これは、まさか……!
「………………」
勇人と目が合う。 どうやら気づいたことは同じようだ。
俺たちは今、目撃してしまっている。
透けて、その姿形が顕になった、ブラジャーを。
「暑いなら、教室で読んだ方がいいんじゃねーか? 熱中症になったらどうすんだよ」
「勇人の言うとおりだ。 こんなところで倒れたら洒落にならないぞ」
それにしても、デカい。
前からデカイことは知っていたが、改めてそのデカさに驚愕する。
「大丈夫よ。 水分補給はちゃんとしているわ」
俺たちは大丈夫じゃない。 正直言うと、悔しい。 どうして俺たちは蟻塚の胸にここまで魅了されてしまうのか。 悔しいぐらいに俺たちは蟻塚山脈に釘付け状態だ。 本当に凄い。
もしかしてこいつ、クラスで一番巨乳なんじゃないか……?
桃子も結構ある方だと思っていたのに、それ以上だぞ?
それでいて、見た感じカタチも悪くないように見える。 美乳であり巨乳でもあるだなんて、天は二物を与えるというのか。 その大きな胸は、間違いなく運動をするのに荷物だろうけど。
「そもそも何でここで読書してるんだ? 暑いし、汗はかくし、涼しい教室で読書した方が快適だろ?」
そして位置関係上当然ではあるが、今にも蟻塚のスカートの中が見えそうだ。
この学校の女子のほとんどは、どちらかというとスカートの丈を短めにしている。
蟻塚も例に漏れずスカートの丈が短いので、さっきからその透き通るように白い太腿が視界に映り込み、つい目を奪われてしまう。
これは決して俺がスケベ心溢れるドスケベ男子高校生だからなのではなく、肌色部分を目で追ってしまう男の本能のせいなのだ。 本能なのだから、仕方がない。
ちなみに蟻塚は現在オーバーニーソックスを履いているので、肌色部分はより強調されていた。 つまり、俺たちの本能は連続攻撃を受けていた。
「そうね。 快適さは間違いなく教室の方が上よ。 けれど、快適だから良いってものでもないでしょ?」
俺と勇人の視線は、蟻塚の上半身と下半身を行ったり来たりする。 俺たちは今、苦渋の選択を迫られているのだ。
「なんだそりゃ」
「快適な方が良いに決まってるだろ」
「わたしもつい最近までそう考えていたわ。 でも、快適さなんてもの、みんなが味わってしまえばそれが当たり前になってしまうじゃない。 わたしたちにとって、冷房の効いた教室は特別でも何でもないつまらないものなのよ」
パンチラか、スケブラか。
晩御飯の献立を決めるような軽いノリでは決められない。 何故なら、もう二度とこんなシチュエーションは訪れないのかもしれないのだ。
日常の中のエロスとは一期一会。 ロマンの塊なのだ。
「つまらないものだからって、ここで読書すんのかよ」
「ここで読書しても特別面白くなるとは思わないぞ」
「そうね。 特別面白くなるわけじゃないわ。 でも、こんなことしてるのはわたしだけなのかもって思うと、何だか気分が良くなるのよね」
普通コンプレックスは未だ健在なようだが、解消する必要なんてそもそもないのかもしれない。
そんなことより、俺はどっちを選べばいいのだろうか。
「そうなのか、気分が良くなるのか」
「なら仕方ねーな、人見。 邪魔しないでおこうぜ」
「………………?」
俺が本当に見たいのはどちらなのか。
そう自分に問いかけてみようと思ったが、優劣などつけられるはずがなかった。 どちらにも違う魅力があり、出来ることなら両方見ていたい。
しかし、二兎追うものは一兎をも得ずということわざがある通り、過ぎた欲がもたらす結末はいつだって悲しいものだ。
「……何かさっきから変よ、あなたたち」
男なら、即断即決。
迷うな俺。 迷っている暇があるのなら、事を成せ。
人生には限りがあり、この一分一秒全てがかけがえのないものなのだ。
そもそも、どちらを選んでも後悔するはずがない……! 俺は馬鹿だ。 そんなことに気づかなかったなんて。 もっと早く気づくべきだった。
「…………っ!」
そして蟻塚も気づいてしまった。
何に気づいたかって?
……俺たちのいやらしい視線の先にある、自らのスケブラと、無防備なスカートに。
「最っ低ッ……!」
これはマズい。 こうなった時の蟻塚は……。
「何で男っていっつも……! そんなに胸が見たいのなら、牧場にでも行けばいいじゃない! あわよくば、牛のお乳でも絞ってハァハァ息を荒くしてればいいのよ!」
……始まってしまった。 相変わらずトンチンカンなことを言いやがる。 牛さんをなんだと思っているんだ。
「……何よその顔……。 もしかして、そんな大きい胸でスカートも短くしてるんだから、ジロジロ見られても仕方がないだとか思ってるんじゃないでしょうね?」
ただでさえ夏の暑さに火照っていた蟻塚の顔が、更に上気する。
これ以上怒らせるわけにはいかない。 なんとか落ち着いてもらわなければ……。
「そんなこと、思って……」
「思ってるぜ? よくわかったな。 でもよ、俺はジロジロなんて見てねーからな。 ジーっと見てたんだから、そこは勘違いすんなよ?」
おい勇人。 真面目な顔で何言ってくれちゃってるんだこいつ。 暑さでついに頭がおかしくなっちまったのか?
「ふふ……」
勇人の言葉を受け、不敵な笑みを浮かべる蟻塚。
落ち着きを取り戻したかのようにも見えるが、絶対にそうじゃないのがわかっているから怖い。
「良い度胸じゃない。 それならわたしにも考えがあるわ」
サディスティックな眼差しで俺たちを睥睨する蟻塚。 どんなろくでもない考えを思い浮かんだことやら。
「目には目を。 歯には歯を。 ダイヤモンドにはダイヤモンドを。 なら、あなたたちのいやらしい視線には何で対抗するべきだと思う?」
こいつまさか……。
「ふふふ……、そうよ。 わたしもあなたたちにいやらしい視線を向けてやるのよ!」
アホだ。 アホすぎる……!
ここには夏の暑さに頭のネジが外れてしまった残念な学生が二人もいやがる。 ……いや、こいつは元からこんな感じか。
「マジかよ。 やべーな人見」
勇人。 なんでお前、嬉しそうなんだよ……。
「後悔しなさい。 あなたたちのそのスケベ心が、自らの身を滅ぼすのよ」
「わかった。 後悔してやるから、そろそろ頭冷やしてこい……」
結局蟻塚は、俺たちにいやらしい視線を向けることが自分で恥ずかしくなってきたようで、俺たちの前から逃げていった。 恥ずかしがるなら最初からやるなよ……。
思えばあの夜の一件から、俺と蟻塚は以前よりもだいぶ普通に接するようになっていた。
そのこともあって、何だか親しくなれたのかなと嬉しく思う一方で、一日でも早くいつも通りの日常へと帰してやらなければならないなという義務感が日に日に強くなっていた。
俺の予想が当たっていれば、近いうちに俺はネアレスと相まみえることになるはずだ。
そうなれば、厳しい戦いは避けられない。 相手は決して、楽に勝てる相手などではないのだから。
その時に、果たして俺は、ちゃんと力を発揮できるのだろうか。
今のうちに何かしらの策を考えておいた方がいいのかもしれない。 念には念を入れ、先の戦いに備えるべきだ。
「ただいまっと……」
一学期最後の登校日を終え、帰宅する。
桃子の靴はまだない。 きっと、帰り道に買い物でもしているのだろう。
「帰ってきたか」
「おかえりー」
「……………………」
リビングに入ると、そこにはソファに横になって漫画を読んでいる蕭条八重と、テレビで映画を鑑賞している鬼山竜紀の姿があった。
「あ、そういえば人見君。 この漫画の続きはないの?」
……昼間っから、冷房のガンガンに効いた部屋でダラダラと。
最近この二人は、自宅警備員と化していた。 全くいいご身分である。
「続きはまだ買ってないな。 来月になったら買おうかなと思って……」
「そうなんだ。 続き、気になるなぁ……」
二人とも、家に来た当初はこうではなかった。
家主である桃子に迷惑のないよう、借りてきた猫のようにおとなしくしていたのだ。
けれど二人は、俺たちが学校へ行っている間、家にいることが多いことから、すっかり俺たちの家に慣れてしまった。 良い意味でも、悪い意味でも。
「……あのさ」
「何だ?」
俺たちと早く打ち解けることができたのは良いことだが、ここまで緊張感がないのも、それはそれで困るような気はする。 だから……。
「二人ともこんなに寛いでいて、大丈夫なのか……?」
流石に不安なので、聞いてみる。
「安心しろ。 こう見えても俺たちは、一日一時間ほど運動も兼ねた魔術の鍛錬をしている。 それに、あんまり気を張っていても疲れるだけだ。 オンオフの切り替えはしっかりしないとな」
そんな鍛錬をしているとは、知らなかった。 早朝か深夜にでもやっているのだろうか。
「なら、いいんだけど……」
二人はそれなりに修羅場をくぐり抜けてはいる。 だから、信頼していいのかもしれないが、やはりこうもダラダラしているところを見てしまうと、つい心配になってしまう。
「桃子ちゃんはまだ学校なの?」
上体を起こし、テーブルの上にあるペットボトルを手に取った蕭条さんが、桃子はまだ学校なのかと聞いてくる。
意外なことに、桃子は蕭条さんと案外仲良くやっているのだ。 同性同士だから話せることもあるのだろう。
「たぶんスーパーに寄ってるんだと思うよ。 夕飯の食材でも買ってるんじゃないか?」
「じゃあ、そろそろ帰ってくるってことね。 夕飯、楽しみだなぁ……」
と言って、ゴクゴクとペットボトルの中身のミネラルウォーターを飲み始める蕭条さん。 良い飲みっぷりだ。
「そういえば、二人とも昼食は済ませたのか?」
「いや、これからだ。 何を食べるのかも決めていない」
「じゃあ、たまには外へ食べに行ってきたらどうだ? ほぼ一日中部屋の中に閉じこもってるのも体に悪いだろうし」
「何を言っている。 外の暑さの方が体に悪いだろう」
「わたしも外へは出たくないかな。 これから一番暑い時間帯だし」
「………………そっか」
だめだこりゃ。 二人とも冷房の効いたこの部屋から離れる気配がまるでない。 こうなったら……。
「……そういえば、つい最近この近くに新しく飲食店ができたらしいな」
「………………!」
蕭条さんが微妙に反応する。 かかったな。
「確か、スリランカカレーの店だと聞いていたけど、インドカレーとどう違うのかわからないな。 二人はわかるか?」
「詳しくは知らんが、スパイスが違うんじゃないか? あと、スリランカカレーはインドカレーと比べて汁気が多いと聞いたことがある。 米にもよく合うらしい。 そもそもインドカレー自体、地方によってナンやチャパティーを主食にするのか、米を主食にするのか、ベジタリアン向けなのか汁気が強いのかと、たくさんの違いがあるんだ。 スリランカカレーとインドカレーの違いを答えるにしても、まずインドカレーをどこの地方のインドカレーとして考えるのかがわからないと、うまく答え――」
「行きましょう!」
鬼山さんの言葉を遮り、早くも外へ行く気満々な蕭条さん。 なんて扱いやすいんだろう。
「行きましょう、だと? ……どこへ行くつもりだ?」
「話を流れからして、そのスリランカカレーのお店に決まってるじゃないですか! 人見君、そのお店の場所ってどの辺りなの?」
「スーパーを通り越してしばらく歩いた先にある、郵便局のすぐ近くだよ。 俺もまだ行ってないから、定休日がいつなのかわからないけど」
「わかった、ありがとね」
とお礼をし、立ち上がる蕭条さん。
初めて会った日からわかっていたことではあるが、この人は食べることが好きなようだ。 食べる量の割に見た目は華奢だから、痩せの大食い系女子という何とも羨ましい体質の持ち主。
「……本気なのか蕭条。 こんな真っ昼間に外へ出たら、死ぬぞ?」
「もしわたしが死んでしまったら、遺骨は粉末化して向日葵の肥料にでもしてください」
「わかった。 トマト畑の肥料にしてやる。 さぞ甘みの増したトマトができることだろう」
「わかってないじゃないですか! というか、鬼山さんも一緒に行くんですよ! わたしたち、なるべく単独行動は避けなきゃいけないんですよね?」
「それはそうだが……。 人見、お前が一緒に行ってやれ」
俺が一緒に……?
嫌ではないけど、今回は……。
「悪いけど、俺は今度その店へ食べに行く予定があるんだ。 だから今日は行かないよ」
「そ、そうなのか……」
たった今立てた予定である。
「さあ、観念してください鬼山さん。 たまには夏の暑さを味わうべきです。 ついでにスリランカカレーも味わいましょう!」
「……仕方がないな」
目を輝かせ、これから遊園地にでも行く子供のような顔をする蕭条さんを前に、鬼山さんも断る気力を失ったようだ。
「……まだ外へ出ていないのに、既に暑いぞ……」
「じゃあ、行ってくるね。 ほら、鬼山さん! 行きましょう!」
そんなわけで、二人は外へ行ってしまった。 一人残された俺も、昼食を摂ることにしよう。




