普通コンプレックス
――――ネアレス。 知っている名だ。 まさか、本当にあいつがこの世界に来ているとは。
「やっとわたしは、普通から逃れられると思ったわ。 わたしを満たしてくれるのは、普通じゃないものだけ。 周りが面白いと思っているようなことを今更面白いと思えたところで、そこにたいした価値なんて感じないのよ」
「それは嘘だな」
否定してやる。 本当は、蟻塚だって自覚しているはずなんだ。
ただ、こういうことは、他人から指摘されない限り、嘘で覆い隠されてしまう。 そしてそのうち、それが嘘だと自分で気づけなくなるんだ。
「……嘘? どうしてそう思うのかしら?」
「そこにたいした価値を感じてるからこそ、お前は普通じゃないものへ逃げているんだろ」
「わたしが、逃げている……?」
「そうだ。 蟻塚は普通コンプレックスなんだよ。 普通じゃない。 本当は普通になりたいのに、普通になれない。 故に、普通じゃないものに憧れる。 こういうのを、反動形成とでも言うんだっけか」
人の心に備わる、防衛機制。
欲求不満を一時的に解消する、無意識の働き。
周囲に適応できなかった蟻塚が、自身を守るために取った自衛手段。
言ってしまえば、俺だって普通コンプレックスだ。 俺は普通じゃない。 だから、普通に焦がれている。 蟻塚のように、更に普通ではない存在になろうとは思わないが。
普通というのはつまらないのかもしれない。 平凡で退屈な日々なのかもしれない。
でも、俺はその方が良かったと思える。 たまに楽しいくらいがちょうどいい。 静かに暮らし、美しいものを美しいと、誰か一人でもいいから分かち合えるような、そんな人生。 ただそれだけが、欲しかったんだ。
普通じゃないことに対して、全く優越感がないわけでもない。
だけど、これだけはハッキリと言える。 普通じゃない激動の人生なんて、小説の主人公にでも任せておけばいいんだ。 端から見ている分には面白いからな。
「蟻塚のやっていることは、勉強ができないから勉強以外の……例えば、部活動なんかに逃げる学生と、同じようなことだろ。 ある世界でうまくいかないから、別の世界へ逃げ込む、一種の現実逃避だよ」
ある意味ブーメラン発言だが、今は気にしない。
「……何を言っているのかわからないわね。 わたしが本当は普通になりたがっている? 昔はそんな気持ち、あったのかもしれないわ。 でも、今は違う。 普通に憧れる気持ちなんて、とっくに消え失せているのよ」
「だったら、訂正してやる――」
言葉を続ける。 この言葉が蟻塚にどのような感情を生むのかわからない。 かといって、黙ったままではいられない。
「蟻塚。 お前は結局のところ、普通に囚われすぎなんだよ」
「……わたしが普通に、囚われすぎ?」
「だって、そうだろ。 蟻塚の話を聞いている限り、普通という言葉に左右されてばかりじゃないか。 普通とはかけ離れている俺だって、そこまで普通を意識することはないぞ」
一体、この数分間で何度“普通”という言葉を聞いたことやら。
「俺は何も、蟻塚の言う普通に合わせることが良いだなんて、思っていないんだ。 蟻塚が最初から自分らしく生きているのなら、何も言うつもりはない。 その結果、周囲の普通とはかけ離れていったって、別にいいじゃないか。 たった一度の人生なんだ。 自分らしく生きなくて、どうする」
「じゃあ、何で――」
「蟻塚は最初から最後まで、普通に囚われているようにしか見えないんだよ。 やけになって、普通じゃないことをしようとしている、危なっかしい大馬鹿者だ」
「………………………っ!」
蟻塚を怒らせること承知で、乱暴な言葉を投げつけてやる。
果たして蟻塚は。 ……何も、言い返してこない。 俯いて、何やら考え事をしているように見える。
「……啓人!」
ここでようやく、桃子がやってくる。 クラスメイトである蟻塚美門の姿を確認し一瞬驚きを見せたものの、すぐに状況を理解した様子だ。
「竜紀さんと八重さん……二人とも、無事みたいね」
「……なんとかな。 その青年のおかげだ。 感謝する」
俺のことか。 感謝されて悪い気はしない。
「家守、桃子……? あなたもそいつらの仲間なの……?」
蟻塚もまさか、この場に同じクラスの生徒が二人も来るとは思わなかったのだろう。 桃子の登場に、えらく驚いている。
「うん。 ……ねえ、啓人。 これまで何があったのか、詳しいことはわからないけど、蟻塚美門は敵ということでいいの?」
「少なくとも、味方ではないな。 かといって、戦わせる駒を失った蟻塚とこれ以上戦う必要もない」
「でも、このまま野放しにはできないでしょ」
「当たり前だ。 可能なら、与えられた力を完全に引剥したい。 それに、魔術の存在や俺の正体を知ったんだ。 その辺りについても考えなきゃいけない。 何よりまだ聞き出していないこともある」
「……そう」
桃子はどうしたものかと思案している。 桃子の立場上、魔術を知った一般人がいるのはよろしくない。
しかも、蟻塚は魔術を知ったどころか、魔術の力を手に入れている。 その上、魔人にも接触している。 桃子にとって、頭の痛くなるような存在だ。
「……いい事思いついた」
「いい事?」
「不慮の事故に遭ったということに……」
「それはダメだ」
そりゃ、蟻塚の存在を消してしまえれば都合が良いだろうけど、そんな物騒なことするわけにはいかない。
「じゃあ、これからどうするの?」
「それは……」
これは困った。 魔術会に任せてしまえば、蟻塚は桃子の発言以上に悲惨な目に遭うだろう。
かといって、ネアレスと繋がりを持っているかもしれない蟻塚を、自由に動かすのも……。
「……面白いわ」
「え?」
誰が喋ったのかと思えば、蟻塚だった。 面白い? 一体、何が……?
「クラスメイトに二人も普通じゃない人がいるなんて、面白いじゃない」
「……は?」
この場にいる蟻塚美門以外の全員が思ったに違いない。 こいつ、只者ではないと。 これが真性の馬鹿なのだと。




