早朝に起床する、規則正しい引きこもり
朝焼けによる陽の光が部屋の中を真っ赤に染め上げている。
この赤は朝らしくない。時計の針は確かに午前六時を示しているが、午後の六時だと言われたらそう信じてしまうだろう。
窓を開け、外を見る。
何の変哲もない住宅街にある一戸建ての二階から見る景色なんて、たかが知れている。それでもその景色は素直に美しいと感じるものだった。
雲に滲む赤は幻想的で、このまま非現実的な何かが起きるんじゃないかと馬鹿げたことを考えるほどだ。
一日の始まりというより、一日の終わりを感じさせる赤。俺が二度寝をしたくなっても仕方がない。
「……寝るか」
ベッドへ戻り、横になる。今度はしっかりとカーテンを閉めて。さっきは朝の日差しをモロに浴びて起きてしまったのだろう。
「おはよう、啓人」
「ひっ……!?」
再睡眠の妨害者は唐突に現れた。近づく足音もしなければ、ドアをノックする音も……というより、そもそもノックなどしていないのだろうが。
「……相変わらず心臓に悪いね」
「気配を殺す練習、してるから」
そう言って、部屋のカーテンを開けるのは家守桃子だ。俺を相手にそんな練習しないでもらいたい。
「……どうしたんだ? こんな朝早くから俺の部屋に入ってきて。挨拶だけしに来たわけじゃないんだろ?」
「挨拶だけしに来ても良かったんだけど、啓人はもう一週間も学校へ行ってない。だからそろそろ、学校へ行くべきだと思って」
「その催促を?」
「うん」
腰まで届く長い黒髪に、新雪のように色白で綺麗な肌。
俺の同居人であり監視役でもある家守桃子は、既に登校する準備ができているのか学校の制服に身を包んでいた。
「このままだと、不登校引きこもりになっちゃうよ?」
「別にいいけど」
「学校へ行きたくない理由があるのなら、わたしがなんとかしちゃうから」
「あったとしても絶対に言わないからな」
下手なこと言って、なんとかされちゃったら困る。あの先生が気に入らないとでも言えば、翌日その先生が急な人事異動で消えているだなんてことが起きかねない。
それほどまでに家守桃子はなんでもできちゃいそうな完璧人間なのである。
頭も良ければ運動もできて、何事も卒なくこなし、容姿端麗……と、ここまででも充分凄いのだが、それだけでは満足せずに更なる高みを目指し、自身の限界に挑戦するためのあらゆる努力を惜しまない努力の天才だったりもする。
「ただめんどくさいだけなら、学校へ行かない理由にはならないよ。不登校とはいえ、その気になれば一人で外出して登校できるのは、わかってるから」
「それくらい中途半端な不登校もつらいんだぞ。同情されることもなく、登校拒否しても仕方ないかと思われることがない。しかし不登校である事実には変わらず、世間様から冷たい目で……」
「つまり、学校へ行けるということね」
「実は外へ出ようとすると精神的苦痛から熱、頭痛、吐き気に襲われるって言ったらどうする?」
「昨日の深夜、啓人が近所のコンビニへ漫画雑誌を立ち読みしに行っていたことは知っている」
「………………」
言い逃れはできないようだ。まあ、知ってたけど。
相変わらず俺の行動をしっかりと把握しているのは、監視役なだけはあると言うべきだろうか。
俺が家に引きこもっていても登校している辺り、結構テキトーな監視のようだが。
……まさか、俺の部屋に監視カメラでもあるのだろうか。
「……わかった、明日から学校へ行くよ」
「駄目。今日から行こ?」
「……どうしても?」
「うん。啓人は何のためにこの世界へ来たんだっけ?」
「ぐ……」
中々の鋭い指摘に心臓の辺りがキュッとなる。桃子のその言葉は俺に対し効果抜群だった。
「……そうだな、家守の言う通りだ。俺だって、このままでいいとは思ってないって」
「啓人……。じゃあ……!」
「今日の午後から登校するよ」
「………………」
一瞬嬉しそうな表情を見せた桃子の顔は、すぐにいつも通りの表情になってしまった。
「……できればこの手段は取りたくなかったけど、しょうがないか」
「…………?」
桃子の顔をまた見る。いつもクールで表情の変化が乏しい桃子の顔から、微妙に苛立ちを感じるのは気のせいだろうか……。
「……啓人の前の席の子、いるでしょ」
俺の前の席の子――五木紗羽のことだ。学校における、俺の数少ない話相手だったりもする。
俺は五木のことを勝手にボッチ女子3号と名付けている。ちなみにボッチ女子1号は桃子だ。名付けたとはいえ、心の中に留めているだけだが。
名付けた通りに五木も桃子も、学校では基本的に一人ぼっちだったりする。同じボッチでも両者には大きな違いがあるが、ボッチなことには変わりない。
「確か名前は……。ゴキチャバネさんだったっけ」
「……いつきさはね、な」
絶対にわざとだ。先ほど桃子の表情から感じた気がした苛立ちは、どうやら五木が原因らしい。
桃子は何故か、五木のことがあまり好きではないようだ。その五木の名を出して俺を学校に来させるのがたまらなく嫌なんだろう。
「そう、その子。啓人が学校に来なくなってから天敵に怯える小動物らしく自分の席で縮こまってる」
「容易に想像できるな……」
俺が話しかけ始めた当初も色々と大変だった。五木は別にイジメられているわけではないが、消極的で他者との関わりを避けがちな性格などが災いし、学校に友達がいないようだった。
言ってしまえば、世の中探せばいくらでもいそうな、人付き合いが苦手なおとなしい女の子だ。
もちろん、そのような性格になるに至るまでの経緯は人それぞれなのだろうが、本人以外がその経緯を知るのは難しい。
「さっき、中途半端な存在のつらさを啓人は話していたけれど、啓人の無責任で中途半端な優しさのせいで、以前よりも酷く寂しそうにしている一人ぼっちの女の子がいるんだよ。可哀想なチャバネさん」
まったく可哀想とは思っていない様子で桃子は言う。
でも、話している内容は俺の心に突き刺さった。
一度手に入れてしまえば、失った時の喪失感は大きい。最初から手に入れなければ良かったのにと思うこともあるだろう。
俺が五木にしてしまったのは、一度心の穴を埋めたモノが更に穴深くして勝手に消え去ってしまったようなものだ。
「啓人がしているのは、いいことだと思って後先考えず野良猫に餌を与えているのと一緒。中途半端な優しさは時に状況を悪くする。関わるのならちゃんと関わって、関わらないのなら最初から関わらなければいい。……啓人があの子にどんな対応をしようが、わたしは構わないけど」
と言いながらも、どこか不満気な様子を隠せずにいる桃子。桃子はきっと、五木の話をすれば俺が朝からちゃんと登校すると確信しているのだろう。
「……そうだな。責任ある行動を、か」
人間、関わる相手が少なければ少ないほど、その数少ない相手に対する思いは強くなるのだと思う。 関わる人数が多いと、その人数分だけ思う時間が分けられるからだ。
少々冷めた考え方から言えば、一人と関係が悪くなったところで他にも関わる人がいるのだから、そこまでつらい思いはしないということだ。
だが、五木はそうではない。俺は学校生活上避けられないコミニュケーションなどを除いて、五木が学校において関わりのある唯一の人間になっていたのだ。
学校での唯一の友人という存在は、五木にとって俺の思っている以上に大きい存在らしい。
そんな存在が急に学校へ来なくなったのだから、ボッチ女子生活をしていた頃よりつらいであろうことは容易に想像できることだったのに。
……俺は自分の立場に無責任だった。
「でも、そんなことをわざわざ俺に伝えるだなんて、家守は優しいんだな。学校で五木のことをちゃんと見ているってことだろ」
「……啓人は勘違いしてる。わたしは本当に、啓人を学校に来させるためチャバネさんを利用したに過ぎないよ。チャバネさんのことなんて、どうでもいいの」
そんなに俺を学校に連れて行きたいのかと疑問に思いながらも、桃子の話を聞き続ける。
「それに、わたしも人にこんなこと言うくらいだし、責任ある行動を心がけているの。チャバネさんには最初から中途半端な優しさを向けずに関わらない」
「………………」
「何より、彼女と仲良くする理由なんて、わたしにとっては同情くらいしかないでしょ? 気が合う相手ってわけでもなさそうだし。同情から仲良くしようとするだなんて、上から目線でムカつくはず。わたしが同じようなことされても嫌」
それは五木のことをどうでもいいと思っていないからこその発想なのではないかと思ったが、口にはしなかった。
「でも安心して、啓人。啓人には中途半端じゃなく、思いっきり優しくしてあげるから」
「……たまには中途半端も良いと思うんだ」
「照れなくてもいいのに」
俺はまったく照れていない上、桃子の発言に寒気を感じているのに、桃子から見ると俺は照れているように見えるらしい。
「これで啓人は、学校へ行く理由ができたね。朝食はもうできてるし、制服も用意してあるから」
「わかった、ちゃんと朝から登校するよ。そろそろ文化祭について決める時期だっけか。結構楽しそうだし、ちょうどいいや」
ゴールデンウィークの流れで結構学校をサボってしまっていたが、俺は元々学校がそんなに嫌いなわけじゃない。
何より、久しぶりに話したい相手がいる。
だから俺は、今から今日登校することが少し楽しみになっていた。