艦内の日常
出港して六日目、その日の雑用は順調にこなせていた。
この調子なら自由時間が増えそうだ。
一八の居室を概ね一週間に一回清掃せよと指示されていたので一日当たりの目標は三部屋だった。
すでに二部屋の掃除が終わっていた。
「ダテ・ダイスケ准尉、室内清掃に参りました!」
俺は後回しにしていたリンドルース中尉の部屋の前に立っていた。
彼女は当直勤務のシフトに入っていなかったので、どのタイミングでお邪魔してよいのかわからなかった。
それが後回しになった主な理由だった。
「いいわ。掃除は間に合ってるから」
少し間をおいて、居室の扉が開くことなく、部屋の中からクールなリンドルース中尉の声が響いてきた。
『それは困る。居室を含めた艦内清掃は艦長命令だ』
俺は一瞬だけ途方にくれたがすぐに立ち直った。
「自分は艦内すべての居室を清掃するよう艦長から厳命されています。ご協力お願いします」
普通の軍人ならこの言い方で観念するはずだ。
「だめったら、だめ」
リンドルース中尉は普通の軍人ではなかったようだ。
クールな雰囲気が影を潜め、駄々っ子のようなリアクションが帰ってきた。
ここで押し問答していても埒が明かない。
ひょっとしたら今は困るというだけなのかもしれない。
俺はとりあえず彼女の部屋の清掃を後回しにすることにした。
トイレ掃除でもしてこよう。
「支障があるなら、五分ほど猶予します」
各居室にはバスルームは設置されていない。
だから、例え何をしていても五分もあれば取り繕うことはできるはずだ。
「えっ、五分なんて無理!」
「トイレを清掃して五分後に参ります!」
階級も年齢も上の人であったが、意味の分からない態度だったので、俺は思わず強い態度にでてしまった。
そうしないと全ての居室を清掃するという使命を果たせないと思ったからだ。
何か彼女の室内で慌しい動きが感じられた。
罵り声を上げながら室内を片付けている雰囲気だ。
どうも大分散らかっていたらしい。
「ダテ・ダイスケ准尉です。ロックを外してください」
俺はわざとのんびりトイレを掃除し、一〇分後に再度リンドルース中尉の居室にお邪魔した。
「はぁ……」
扉が開き、憂鬱そうな表情のリンドルース中尉が現れた。
昨日のきびきびした、凛とした、クールな印象のリンドルース中尉ではなかった。
疲れたように肩を落としていて赤と黒の軍服は着ておらず、就寝用のクリーム色のジャージ姿だった。
「失礼します」
俺は元気にあいさつすると彼女の居室に入った。そして見てしまった。
「えっ!」
くしゃくしゃなシーツ、床の上に散乱するフリーズドライの食糧の空き容器、紙コップ、脱ぎ捨てた下着、プリントアウトした書類、使用済みの化粧用コットン……などなど、床の色がもともと何色だったのかわからないくらい悲惨な状況だった。
考えられない、一〇分間一体何をやっていたのだろう。
まさか、散らかしていたわけではないだろうが。
「ええと、早く中に入ってドアを閉めてください」
彼女は不機嫌そうに小さな声でつぶやいた。
俺は彼女の言うとおりにした。
生ごみのにおいが鼻をついた。
「こんなんで、よく士官学校を無事卒業できましたね」
扉を閉めると、俺は思わず彼女を非難してしまった。
美しく有能な彼女のイメージが音を立てて崩れていった。
士官学校ではとても厳しくしつけられた。
学生寮が汚れていたら連帯責任で一学年全員が罰を受けることもあった。
寝具などの乱れは上級生から何度でもやり直しを命じられた。
おかげで士官学校の学生寮で暮らすと、一年ほどで、掃除、洗濯、アイロンがけはプロ級になるはずだった。
「だって、私は士官学校には通ってないから。技術者枠採用だし」
彼女は少し拗ねたように言った。
例えそうだとしても、まったくもって他の技術者枠採用の方々に失礼だった。
俺の心からは上官に対する遠慮は完全になくなっていた。
「艦内のゴミの分別ルールは御存知ですか?」
「よく知りません。教えてもらってませんから」
「いいえ! 艦内を案内されたときに副長からマニュアルを渡されています! あのときの書類はどこにありますか!」
「たぶん、この部屋のどこか……」
彼女は飼い主に怒られている小型犬のような雰囲気で答えた。
「自分が発掘すればよろしいでしょうか?」
俺は腰に手を当てて彼女を見下ろした。
「えっと、ダルダンスケ准尉でしたっけ?」
彼女は上目遣いに俺のことを見た。
きちんと制服のネームプレートを見てくれればそういう間違いは犯さないはずだった。
「ダテ・ダイスケです」
「ダイスケくんは、ひょっとして怒ってますか?」
「そのように見えますでしょうか?」
「はい、怒っているように見えます」
「そうですか。当たりです!」
俺は大きく目を見開くと彼女に詰め寄った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
普段は人畜無害な草食獣にしか見えない俺は、きっとこの時、危険な捕食者のように見えたのだろう。
彼女は頭を押さえてうずくまった。
「まったく!」
俺は激しい動きで猛然と彼女の部屋を片付け始めた。