彼女の匂い
「おはよう、マリオ」
当直明けの眠りから覚めた俺は、清掃作業に入る前に給湯室でフリーズドライのホワイトシチューにお湯を注いでいた。
マリオは当直明けでこれから休憩だ。
「昨日はちょっとした事件だったな。いずれにしても、『船頭多くして明日はどっちだ』にならなくてよかった」
「ごめん、いろいろ突っ込むところが多くて何と言っていいのかわからないけど、ことわざとして存在するのは『船頭多くして船山に上る』だ。でもこのことわざは指図する人が多くて物事が混乱するという意味で単に道に迷う話じゃない。ところで『明日はどっちだ』って何から来たの? ジャパニーズカルチャー? あしたのなんとかっていうボクシング漫画があったらしいけど、とうとうそんな分野まで興味を広げたのか?」
「さすがだな、ダイスケ。俺もまだまだ精進が足りない」
「まったく、学生じゃなくなったのに変わらないよな、マリオは……それにしても、昨日のリンドルース中尉はかっこよかったよな。凛としていて仕事ができて……」
「じゃあ、アタックしてみれば?」
ホワイシチューを飲み込もうとしていた俺は思わずむせた。
「……それはいろいろ差し障りがあるだろ。そんなこと言うならお前がアタックしてみろよ」
俺はその手のことは苦手だがマリオは躊躇がなかった。
俺は女性に冷たくされると傷つくが、マリオは気軽に女性に声をかけ、冷たくされても不死鳥のようによみがえっていた。
「俺、ストライクゾーン広いんだけど、ダメ、彼女には手が出ないわ」
「そうか? きれいな人じゃないか。ひょっとして、階級が上の人は駄目とか? 年上の人はダメとか?」
珍しいマリオのリアクションに俺は興味をそそられた。
「いや、そうじゃない。匂いがね」
「匂い?」
「ああ、俺の席の横を通り過ぎるとき、あの女からはおかしな匂いがした」
俺はちっとも匂いのことは気づかなかった。
あまり鼻が利く方ではないので彼女の匂いがどうだったか印象がない。
「体臭がきついってこと?」
「普通の体臭なら大歓迎だ」
「一歩間違えるとただの変態のような発言だな……マリオって化粧品の匂いとかは苦手だったっけ?」
「我が軍配給の化粧品やシャンプーそしてボディソープの匂いは、男性用女性用ともに把握している。彼女から漂ってきたのは、それらの匂いじゃない」
「じゃあ、私物の香水とか?」
「ダイスケだって余計な液体は宇宙ステーションに持ち込み禁止なのは知ってるだろ。この艦に乗る前にも、警備兵の奴らに異常にチェックされたの忘れたのか?」
液体爆薬や毒物による破壊工作を警戒しているらしく、宇宙ステーションや宇宙船では液体の持ち込みが異常に警戒されていた。
「確かに。でも奴らは俺たちと違ってリンドルース中尉には執拗なボディチェックはしなかったじゃないか」
「まあ、あのボディチェックを女性にやったら完全にセクハラだよな」
俺は体中を撫でまわすようにチェックされたことを思い出し、その俺の境遇を脳内でリンドルース中尉に置き換えてしまった。
物凄いセクハラな光景だった。
「一番近い匂いは、そうだな……生ゴミ」
一瞬、不埒な妄想に浸ってしまった俺をマリオの酷い一言が現実に引き戻した。
「おい、いくらなんでもそれはひどいだろ」
「しかし、俺の鼻に間違いはない」
「それ、絶対、本人に言うなよ!」
「当り前だろ」
尊敬する女性を悪しざまに言われた俺は、少し気分を害してマリオと別れた。