新しい生活4
楠樹と共に小学校を辞した詩月は、楠樹に連れられるままスーパーへと向かった。
「夕飯は何がいい?」
楠樹はにこやかに聞いてくるが、詩月には分からない。
何がいいか分からないのだ。自分が何を食べたいのかが分からないのだ。
「何でもいいです」
だから、こう答えるしかない。
楠樹は少し困ったような表情を浮かべた。
「じゃあ肉じゃがにしよう」
両親が死んだ。悲しさなんてちっとも感じなかった。というよりも、何も感じない。お腹が空いたことも、きっと忘れることができるだろう。
自分ってこんなに薄情な子供だったんだっけ、と思わないでもない。しかし、何も感じないものはどうしようもないのだ。父と母には悪いのだけど、悲しいと思えなければ泣けないし、何も感じなければどんな表情を浮かべることもできない。
ただ、義務感めいたものはあった。見ず知らずの子供を引き取ってくれた楠樹に迷惑をかけるようなことはしたくない。両親の葬式に来ていたおばさんの反応の方が普通なのだ。だれが喜んで知らない子供を引き取りたいと思うだろうか。
なんで楠樹が自分を引き取ってくれたのか、詩月には分からない。単なる気まぐれなのかもしれないし、何か思うことがあったのかもしれない。けど、詩月にしてみれば天涯孤独となったこの身を、好意的に、かろうじてつなぎとめてくれる唯一の糸だった。
だから、自分を引き取ってこれから面倒を見てくれる楠樹の迷惑になることはしたくないし、できるだけ役に立たなきゃいけないだろうな、と思う。だから、今朝は早く起きて朝ごはんを作った。両親が共働きだったこともあって、自然とご飯の作り方は覚えた。頭が空っぽでも、体で覚えたことは忘れないようで、朝ごはんを作ることはできた。
感情がなくなっても、理性は働く。だから、本当はこんな無表情で、無感動な自分ではいけないことは分かっている。けれど、こればっかりは仕方ない。
いつになったら元に戻るのかな。今日だろうか、明日だろうか、明後日だろうか、一週間後だろうか、一ヶ月後だろうか、一年後だろうか、もしかしたらずっと戻らないのだろうか。
両親のために泣いてあげられる日は来るのだろうか。
スーパーで楠樹は手際よく食料品を籠の中に放り込む。詩月は彼に半歩遅れてただ歩いていた。他にやれることもないし、両親が生きていたついこの間までは大好きだったお菓子を見ても、心はちっとも動かない。幼心にもこの状態が変だということは分かる。けど、どうやったら治るのか分からない。
本能で、今の自分に必要なのは可愛げだということも分かっていた。楠樹にとっては血がつながっているとはいえ、見ず知らずの子供なのだ。世話してあげたい、守ってあげたい、と思わせるような可愛らしさが必要だ。けれど、それが今の自分にはないことは詩月はよく知っていた。
詩月の視界には、スーパーで買い物をする親子もいる。お菓子買って母さん、駄目よあんた夕飯食べられなくなるでしょ。日本でおそらく何度も繰り返された会話を、きっと詩月はもうできないのだろう。けど、悲しいとか、うらやましいとか、そういった気持ちは全くわき上がってこなかった。
「何か欲しいものはないかい?」
楠樹が尋ねてくる。彼が気を遣って、できるだけ詩月が心を開けるように、尋ねてくれるのは分かっている。
けれど、欲しいものはなかった。甘いチョコレートも、しょっぱいポテトチップも、ぱちぱちはじけるサイダーも、何もかも今は欲しくない。
だから、詩月は首を横に振った。
「そっか」
少しだけ残念そうに、でも柔和な笑みを絶やさず、楠樹は答えると、それでもチョコレートを籠の中に放り込んだ。
きっと子供はみんなチョコが好きだと思っているのだろう。大人の勝手な思い込みだ。詩月はチョコも好きだが、親友の知佳ちゃんは嫌いだった。
ふと、もう知佳ちゃんとは会えないのかな、と思った。両親が死んで、前の家には住めなくなって、転校して、だからもう前の友達とは会えない。
昔、しょっちゅう転校するんだという男の子が詩月のクラスに転校してきたことがあった。彼は、どうせ転校するのだから友達を作っても仕方ない、という感じで周りと壁を作っていた。きっと仲良くなってから別れることはとてもつらいことで、彼はそれにも飽き飽きしていたのだろう。結局、彼は詩月の名前を覚えることなく転校し、詩月も彼の名前を忘れてしまった。
もし、このまま心が凍ったままで、楠樹にも見放されたら、いろんな大人の間を転々とする生活になるかもしれない。可愛げがない他人の子供なんて誰も一緒にいたくないはずだ。こんな自分の友達になってくれる人はいないだろうけど、それでも、彼みたいになるのかもな、と思った。
楠樹がキッチンで料理している間、詩月はテレビの前のソファに座ってぼやっとしていた。テレビはついているものの、どんな番組を流しているか関心はなかった。
水の流れる音、包丁がにんじんを刻む音、ガスコンロがつく音――いろんな音がキッチンから聞こえてくる。流れるようなその音たちは、詩月が台所に立つよりも手際がいいことを教えてくれる。
男の人なのに料理を作れるんだなぁ――詩月の父親は料理と洗濯はできなかった。代わりに、母親より掃除が上手だった。
ぼやっとしているだけだから時間がひどく長く感じられる。けれど、それを嫌だと思う心がないから、ひどく短くも感じられる。どっちなんだろう、と詩月は思う。もしかしたら、詩月にとっての時間は、両親が死んだと共に死んだのかもしれない。
やがて、食卓からにおいが漂ってきた。きっとご飯ができたのだ。詩月はソファから立ち上がると、何も言わずにキッチンに入って皿を運ぶ。楠樹はありがとう、といったようだったけど、詩月はそれに頷くことしかできなかった。
食卓には白ごはん、あぶらあげと豆腐とわかめが入ったお味噌汁、にんじんとじゃがいも、糸こんにゃくに牛肉の入った肉じゃが、そしてかつおぶしがかかったほうれん草のおひたしが並んでいた。
「いただきます」
機械的に、そう言わなくちゃいけないから、詩月はそう言って箸を手に取る。お腹が空いたとは感じないけど、きっと目の前の人は詩月がご飯を食べなかったらとても悲しい顔をするだろうし、困るだろう。だから、食べなくちゃいけない。
白ごはんを最初に口に含む。今まで食べていたのよりもちょっとだけかためだ。次にお味噌汁をすする。今まで食べていたのと全然味が違う。きっと味噌が違うのだろう。もしかしたら、出汁も違うのかもしれない。
肉じゃがのじゃがいもを箸で器用に一口サイズに切ると、それを口に運んだ。味がしっかり染みている。
白ごはんもお味噌汁も今まで食べていたのと違うのに、肉じゃがの味はどこか懐かしい。不思議に思って、もう一口、今度は牛肉を口に運んだ。やっぱり同じだ。お母さんが作ってくれたのと同じ味がする。
「同じだ……」
気が付いたら声が漏れていた。
楠樹は箸を止めて少しだけ恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「肉じゃがの作り方は婆ちゃん……君のお母さんのお母さんに教わったんだ。だから、もしかしたら君のお母さんも同じように教わって、同じように作ってたかもしれないね」
「お母さんと同じ……」
お行儀が悪いことだけど、詩月は肉じゃがを入れたお皿を手にとって、汁を飲んだ。懐かしい味だ。お母さんはよく肉じゃがを作ってくれて、これと全く同じ味をいつも食べさせてくれた。
「お母さん……」
気が付いたら涙が出ていた。箸と皿を置いて、袖で涙をぬぐったけど、次から次へと涙が出てくる。
おかしいな、両親の葬式の時にも一滴の涙も出なかったのに。
楠樹がそっと席を立ちあがり、机をぐるっと回って詩月の左隣に来た。そして、しゃがみ込んで詩月と目線より少し下から、詩月の顔をじっと見た。その表情は、柔らかいけれど、少し悲しそうで、痛そうだった。
「詩月、泣けないのなら泣かなくてもいい。なぜなら、泣けないのは泣くだけの心の準備ができてないせいだからね。でも、泣きたくなったらいつ泣いてもいいんだよ。大人だって悲しければ泣くさ。ましてや君は十歳の子供だ。いくらでも泣いていいし、その時には僕が側にいてあげるから、ね」
この人は今までの無愛想で無表情な自分を受け入れてくれていたんだな。詩月がそう思った瞬間、とめどない感情が押し寄せてきた。両親との思い出、楽しかったこと、大変だったこと、怒られたこと、褒められたこと。
そういったものを思い出しながらいつのまにかわんわん泣いていた。お父さん、お母さんと繰り返しながら。
楠樹の両腕がそっと背中にまわされたのを感じた。詩月は彼の肩に顔をうずめて、ひたすら泣いて喚いた。そんな彼女を、静かに抱きしめながら、楠樹が背中をさすったり、ぽんぽんと軽く叩いてくれるのを感じていた。
両親のために悲しめた。それが嬉しかったし、心の中で彼らを埋葬することができた。
それと共に、新しい居場所と、無条件に受け入れて守ってくれる人を見つけることができた。
この人と一緒に新しい生活を営むのだ。心の中で両親に対して感謝と、報告と、祈りを捧げ、心の鎧に別れを告げた。
大河の洪水が肥沃な大地をもたらし新たな生命を生むように、滂沱の涙が心の鎧を引き剥がしその裏に隠れていた豊かな土壌から一つの小さな感情が芽吹いた。あまりにも儚く小さなその芽吹きは、しかしやがて大樹になる可能性をも秘めていた。
詩月は、その芽吹きの名前を知らない。けれど、大切に、守り育てることにしようと思った。