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新しい生活3

 歴史の研究手法の一つにオーラルヒストリーというものがある。

 オーラルヒストリーというのは、口伝の歴史というもので、ある時代や事件を知る人に対して直接取材して話を聞くというものだ。文献だけでは分からない事実を知るのにとても大切なものであるが、一方で、話してくれる人の記憶の確かさであるとか、自己保身をしていないかだとか、そういったことが問題になる。

 楠樹当人としては、オーラルヒストリーに関わるほど歴史学に関わっていなかった。彼にとって、あくまでもこれは文献による知識を全て学んだ上で行うべきことであった。歴史とはあくまでも記録の学問だというのが彼の信念だった。この記録から知りえないことを知りたいと思った時、初めてオーラルヒストリーに手を出すべきだと彼は思い、そして、そこまで到達しないまま学問の道から去ったのである。

 時にはこのオーラルヒストリーを神聖視する者もいるが、文献同様十分に批判可能であるし、批判しながら扱っていくべきものであった。

 とはいえ、少しはオーラルヒストリーの勉強をしても良かったかもしれない、と隣を歩く少女を見やりながら思う。

 なぜならば、オーラルヒストリーというのは誰かから話を聞いて初めて成り立つものだ。つまり、相手と信頼関係を築いて、その上でいろいろなことを、時には取材相手の人が話したくないようなことまで、聞き出さなければならない。

 そして、その手法はもしかしたら、この幼い少女にも役に立つのではないか。

 ほとんど詩月と会話がないことを、詩月の心の整理のせいばかりにしていても仕方がない。保護者としては、できるだけ彼女が心の整理をしやすいように環境を整えてあげる必要がある。そのためには、詩月とコミュニケーションを取らなければならないし、場合によっては彼女の思い出したくないようなことも自然に聞き出すことを求められるのだった。

 あせらなくてもいいしむしろあせると良くないという気持ちと、それでもこのまま小学校に通い出しても良いのだろうかという気持ち、その二つが彼の中で相反していた。


 一度家に帰って、買い込んだ荷物を置いたころには、小学校を訪問する時間の直前になっていた。彼にとっては休日とはいえ、平日に初対面の人と会うのに普段着では具合が悪かろうと、彼は急いでスーツに着替え、ネクタイを締めた。

 彼が再びダイニングキッチンに来た時には、詩月はソファにちょこんと座ってぼうっとしているようだった。少しだけ顔を上げて楠樹を見て、少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻る。

「これから小学校に行くけど、大丈夫かい?」

「大丈夫です」

「帰りに夕飯の材料を買おう」

「はい」

 これでは業務連絡だな、と内心苦笑しつつ、楠樹は革靴に足を通した。


 詩月が通う小学校は、家から徒歩五分ほどの距離にある。登下校もあまり苦にならないだろうし、かなり良い立地であると言えた。

 小学校に入るなんて何年振りだろうか。楠樹は一階の事務室で受付をしながら思う。一年生の教室など、椅子も机もミニチュアサイズで可愛らしい。

 二階の職員室に行くと、何人かの教員が席に座って仕事にいそしんでいるようだった。

「失礼します。先ほどお電話させて頂いた萩原詩月の保護者です」

 持って回ったような言い方をしたのは、南淵と名乗るのも、萩原と名乗るのも、それぞれ違うような気がしたからだった。一瞬、職員室にいる教員の目が楠樹に集まった。連れているのは小学五年生の少女であり、父親にしては若すぎる彼に対して、いぶかしがるような視線と好奇な視線が半々ずつほど向けられた。

「御足労ありがとうございます」

 席から立ち上がり、楠樹たちを迎えたのは五十歳ほどの男性だった。既に髪の毛の多くは白髪になっており、しかも後退しかけている。しかし、くりくりとした目は愛嬌があって、どこか溌剌とした若さをも感じさせた。

「私が詩月さんの担任をやります、新五年一組担任の北岡といいます。小学校には応接室みたいなこなれたものはありませんので、こちらへどうぞ」

 北岡はそう言いつつ、自分が先ほどまで座っていた席まで案内した。そして、あいている席を二つほど見つくろい、楠樹と詩月に進めた。

「こちら、提出する書類です」

 楠樹は忘れないうちにと、かばんにいれていた封筒を手渡す。北岡はそれを受け取ると、中の用紙を確認して、頷いた。

「大丈夫ですね。お預かりします」

 彼は封筒を置くと、笑顔を浮かべながら楠樹と相対する。

「保護者の名前には南淵楠樹さんという名前が書いてありましたが、あなたが南淵さんでよろしいですかな?」

 楠樹は、自分の親ほどの年齢の先生に、やや気後れしそうにもなるが、詩月もいることだし、できるだけ堂々と胸を張ることにした。

「はい」

「そうですかそうですか」

 北岡はそれだけ確認すると、今度は詩月の方に視線を投げかける。

「これから萩原さんの担任をやる北岡です。よろしく」

「萩原詩月です。よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げた詩月は、新しい担任に対しても緊張した素振りを見せず、むしろ無表情だった。

「好きな教科とかある?」

「体育と算数」

「苦手な教科は?」

「ない」

 ふむふむ、とにこやかに頷きながら、北岡は詩月に質問する。

「何か不安だなぁってなっていることはある?」

「……特には」

 ふーむ、と北岡はうなったが、やがて何かを思いついたように一つ大きく頷いた。

「じゃあ、この小学校を少し見学しようか」

 彼は顔を挙げると、きょろきょろと見渡した。

「あ、谷合先生、ちょっといいですか」

「何ですか?北岡先生」

 谷合先生と呼ばれたのは三十手前の女性の先生だった。縁の薄い眼鏡をかけて、長い髪を一つに結んでいる。

「ちょっと悪いんですけど、萩原さんに校舎の案内をしてあげてください」

「分かりました」

 彼女は頷くと、しゃがみこんで詩月と視線を合わせた。

「萩原さん、校舎を案内してあげますね」

 こくん、と詩月は頷くと、椅子から立ち上がり、谷合と一緒に職員室から出ていった。

「彼女はね、五年三組の担任なんですよ」

 と、説明した北岡は、すぐに表情を改めた。今までにこやかにしていたのは、おそらく詩月に警戒心を抱かせないためだったのだろう。真面目な表情だった。

「差し支えなければ、南淵さんと詩月さんの間柄を教えて頂ければ」

「従兄妹です」

 隠すこともないと、楠樹は自然に答えた。

「詩月の両親がつい先日亡くなったので、私が引き取ったんです」

「それはそれは……」

 北岡は何とも言えないような表情を浮かべた。眉根を寄せて、哀悼するような表情だった。

「詩月さんもそうですが、御両親はさぞ無念だったでしょうなぁ……」

 北岡はふぅ、と息を吐いて、表情を戻した。

「……あの様子ですと、今まであまり詩月さんと会ったことがなかったでしょう」

「そうですね。叔母夫婦――詩月の両親の葬式で初めて会いました」

「失礼でなければ、南淵さん、御結婚は?」

「独身です」

 北岡は考え込むように手に顎を当てる。

 あまりないケースなのだろう。孤児を引き取るとしたら、ある程度年のいって子育ての経験もあるような夫婦だとか、あるいはその子供自身と親しい大人であるとか、そういったような人がまず浮かぶ。楠樹のように二十代半ばの独身男性が小学生を引き取って育てるなど、無謀に見えるかもしれない。

「……何であれ、色々と難しいと思います。年頃も難しいですし、ここからどう信頼関係を築けるか、というのも難しい。お仕事もお忙しいかと思いますが、できるだけ詩月さんと一緒にいてあげてください。利発そうな子ですし、自分の状況を整理して、心の準備も整えば自然と心を開いてくれると思います」

「そうですね、そうなればいいと思います」

「多分、あのぐらいの年になっちゃうと親代わりといっても親にはなれません。やっぱり、自分の両親というものをきちんと覚えていられる年齢ですからね。けれど、だからこそ、二人でできるだけ居心地がいい、温かい家庭を作ってあげてください。そこでほっと安心できるような、そんな関係を築いてあげてください」

 北岡の表情は真摯だった。

「……僕もね、南淵さん、子供がいるんですよ、大学生の息子と高校生の娘。まぁなんで、何か困ったことがあったら気軽にご相談ください。詩月さんの担任としても、子育ての先輩としても、何かアドバイスできることがあるかもしれません」

 真剣な北岡の表情を見て、彼なら詩月を任せられると楠樹は直感した。彼はきっと本心から楠樹と詩月の家庭を心配してくれているし、詩月にも真剣に向き合ってくれるだろう。

「これからいろいろお世話になります」

 だから、楠樹も、深々と丁寧に頭を下げた。

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