新しい生活2
詩月の引越しの手続きと、学校に転入するための手続きはそんなに時間がかからず終わった。家から徒歩五分の小学校に通うことになるのだが、一方で受け入れ側の小学校にも電話をして、顔合わせの訪問をする日にちを決めなければならなかった。
「詩月ちゃん、電話をかけなければいけないから、ちょっと待っててくれるかな」
市役所のロビーで暇そうに座っていた詩月は、相変わらず頷くだけだった。
市役所を出たすぐのところで、小学校に電話をかける。担当の先生、おそらく学年主任あたりだと思われるが、に代わってもらってからは、すぐに訪問の日程が決まった。水曜日と日曜日が休日だと告げたら、それでは本日の午後五時ごろに、ということになって、楠樹は少々面食らった気分だった。
楠樹は詩月の元に戻ると、彼女は何も言われずともすぐに立ちあがった。
「今日の夕方、新しい小学校にも行くよ」
「分かりました」
相変わらず、表情には乏しかった。
市役所からゆっくりと散歩をしながら、楠樹は近所のスーパーであるとか、大きな神社であるとか、行く予定の小学校であるとかを見せていた。そのたびに、詩月は頷くだけで、特に感想を示したりはしない。
神社のときなどは、境内ににわとりがたくさんいるから見たら面白かろうと、「見ていく?」と尋ねたところ、彼女は無言で首を横に振ったのだった。
彼の住んでいる地域は徒歩圏内に二つの駅がある。それぞれ異なった路線に属していて、その間を大きな道路が貫いていた。
近所周りを一時間ほど歩いた後、楠樹と詩月はその道路を北へと向かっていた。楠樹の家は南側の駅の近くなのだが、こちらの駅はあまり栄えておらず、北側の駅には百貨店をはじめとする様々な店があるので、そちらで詩月に必要なものを買いそろえようと思ったからだった。
「あとそうそう、これが僕の職場」
家から徒歩二十分ほどというところにある学校を、彼は指差した。門のところには水山中学校・高等学校と書かれている。
「ここで先生をやってるんだ」
「先生なんですか」
「うん。日本の歴史の先生」
楠樹が詩月を引き取っても大丈夫だと思った最大の要因は、職場と自宅の近さにあった。これなら詩月に何かあってもすぐに駆け付けられるし、逆に詩月から楠樹のところに行くのも簡単だ。その上、生徒の完全下校時刻が17時と早いため、どんなに遅くても18時には家につける。
「歴史……」
小学校は社会科とひとくくりにされているから、あまり聞きなじみのない言葉だったかしれない。詩月は口の中でその単語をつぶやいた。
北側の駅についたところで、少し早いが昼食を摂った後、駅前のビルで詩月に必要な日用品を買った。それは衣服であったり、文房具であったりした。
ゆくゆくは彼女のための家具などを買いそろえてあげなきゃな、と思いつつ、他に何か欲しいものがないか尋ねた。
「特にありません」
詩月の答えはそっけなかった。
もしかしたら、他の人だったらこの時点で怒っているかもしれない、と楠樹は思う。少なくとも、彼女の母の恵津子だったら怒っているだろう。なによりも、両親の死に対して一滴も涙を流さないことを気味悪がっているかもしれない。
楠樹が怒らないのは、環境が激変した詩月への同情があることはもちろんだが、それ以上に彼の経験が作用していた。両親が突然死んで、その後放心したように感情が死んでしまった人を、彼は他にも知っていたのだった。
(あいつは立ち直るまでに半年かかっていたな……)
悲しい時に泣けるのはいい方なのだ。哀しい時には涙を流すことさえ忘れてしまう。
涙を流せるようになった時に、詩月は涙を流せばいいし、その時から、段々と心の鎧を脱いでもらえばいいだろう。自分が保護者としてやってあげるべきなのは、心の鎧を無理にはがそうとすることではない。涙が流せるようになるまで寄り添ってあげて、涙を流した時に、側にいてあげることだろう。