新しい生活1
休日で、思いがけないことに疲労もたまっていたのか、楠樹が起きたのは8時だった。出勤日は6時半、休日は7時に起きているから、寝坊したとも言える。ダイニングキッチンの方から物音が聞こえてきて、一瞬だけ泥棒か何かかと思ったが、すぐに詩月を引き取ったことを思い出した。
「おはよう」
眼鏡をかけ、欠伸をしながら寝室を出た彼は、思いがけない光景を目にすることになった。
「おはようございます」
既に着替えている詩月が、キッチンに立っていたのである。
「今日の朝ごはんは食パンとベーコンエッグです」
慣れた手つきで調理する詩月は、おそらく両親が生きていたころにも料理をしていたのだろう、ということがうかがえた。
楠樹の朝ごはんは大抵食パンとハムである。たまに、シリアルだけで済ませることもある。基本的に、朝に火を使うことはない。
だが、今、彼の目の前に並べられているのは湯気が立つコンソメスープ、黄身のぷるぷるしたベーコンエッグ、そして食パンだった。
特にコンソメスープは見るからに手が込んでいる。細かく刻んだキャベツとニンジン、それにじゃがいもがたっぷり具として入っていて、食べ応えがありそうだ。小学五年生が朝に作るようなものではない。
「いただきます」
両手を合わせた二人は箸を手に取った。
詩月は黙々と、あまり表情を浮かべずに食べている。新しい生活に緊張しているのもあるだろうし、まだ心の整理が終わっていないのだろう。
楠樹は箸を取ると、ベーコンエッグの黄身を潰した。とろりとした黄身があふれ流れ出てくる。そのまま口元に運ぶ。とろりとした黄身のまろやかさ、カリッとしたベーコン、ぴりりときいてくるコショウが最高だった。
「おいしいよ」
「そうですか」
そう答えた詩月の表情は読み取れない。楠樹もそれ以上は何も言わなかった。距離感をうまくつかみかねているせいもあるが、あまり干渉しすぎるのも彼女の心の整理には邪魔なのではないかと思ったからだった。
楠樹が引き取ることに決定した後の両親の話では、楠樹は法律上詩月の未成年後見人というものになるらしい。既に、両親が知り合いの弁護士と共に手続きを開始している。その内楠樹と詩月は家庭裁判所に出頭して面接を受けるらしい。
詩月にとっての伯父夫婦が生存しているのに、その息子が未成年後見人になるという例はあまりないようであるが、おそらく受理されるだろう、と弁護士は言っているようだった。
とにかく財産の扱いには注意しなければならないらしい。例えば、この場合は詩月の教育費などを彼女の財産、というよりも彼女の両親の遺産から出すのは大丈夫だが、きちんと楠樹自身の財産とは分けて取り扱う必要があるし、ひどい場合には業務上横領の罪に問われるらしい。巨額の財産というわけではないが、子供の将来を考えての貯蓄をしていた痕跡があるのと、生命保険で、一財産にはなっていた。
とはいえ、公立に通うのであれば、高校卒業までは自分の収入で通わせられるだろう、と彼は考えている。大学も、家から通う国公立だったら十分まかなえる。一年間働いて、何となく自分の勤め先の給与体系は分かったから、それくらいは可能だろうと彼は判断していた。
自分が詩月よりももう十歳年上だったらあまりお金の心配はする必要がないのだが、どうしても若い時分には給料が低いため、将来のお金の心配はどうしても必要になってしまうのだった。
詩月の転入手続きや転校のための手続きをするためには市役所に行かなければならない。朝食を済ませ、着替えた楠樹は、いつの間にか皿洗いを済ませ、ソファーに座ってぼうっとしていた詩月に声をかけ、連れだって外に出ることにした。
「役所に行ったら簡単に街を案内して、その後必要なものを買おう」
こくんと詩月は大人しく頷いた。相変わらず表情は硬く、何を考えているのかつかめない。
いつかこの表情から何を思っているのか分かる日が来ればいいな、と楠樹は思った。