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(二)

 縁側に腰掛けて、雅は自分の左腕を眺めていた。そこには決して消えることのない一枚の逆鱗がある。これが姿を消してくれれば、龍神に弱点など存在しないというのに。なぜ消えてはくれないのだろう。普通の人間とは違うのだという現実を突きつけられているようで、憎くて堪らない。


 そっとそこに触れれば、つるつるとした滑らかな感触を指先に感じる。温度はないけれど、それは雅の命を左右するものだ。今の雅は生まれて十七年しか経っていない。だから、もしこの鱗を剥ぎ落されても、雅の身体は砂のように崩れはしない。だが、人間の寿命を疾うに過ぎた龍神は逆鱗を奪われると同時に、身体が滅ぶと言う。


 長寿に興味はないけれど、ちょっとした傷が人間の身体では命に関わることを知っている雅は、逆鱗を取られることに恐怖を覚える。二番目の兄――誠士郎は、五年前に、戦で死んだ。彼にも龍の血が濃く流れていれば、今でも生きていたに違いないのに。


 雅は捲り上げていた袖を元に戻すと、一つ息をついた。


 暁光の逆鱗は未だに見付けられないままだ。首の後ろにも、なかった。もしかしたら雅と同じように服の下に隠れているのだろうか。そうならば、見付けるのに時間がかかる。



(どうしよう……)



 なぜか、雅は焦っていた。


 早く使命を全うして、城へ帰らなくてはならない。この島の領土を瀬和のものとするためにも。


 どのようにして暁光の逆鱗を見付け出そうか、そう考えていると声をかけられた。



「雅様」


「智重?」



 近付いてくる智重の腰には刀が差してある。これからどこかへ出かけるのだろうか。そう思いながら、雅は首を傾げる。



「どうしたのですか」


「魚を採りに行きましょう」


「……はい?」


「魚を採りに行きましょう」


「聞き取れず訊き返したわけではありません」



 智重の唐突な誘いに雅は思わず苦笑する。


 なぜ魚を採りに行こうなどと誘われるのか、雅には分からなかった。首を傾げている雅に智重は言う。



「暁光も先に行っておりますよ」


「え?」


「魚採り……おっと違った。今日は魚釣りでした」


「……女性はそのようなことをするべきでないと躾けられました」


「ですが、その乳母はここにはいらっしゃらない」


「……」


「私は早く暁光と雅様が仲睦まじくなってほしいのです」


「……」



 雅は疑うようにじっと智重の顔を見上げる。彼の顔には相変わらず穏やかな微笑が浮かんでいて、彼の言葉が好意から来ていること以外考えられないように感じられる。だが。



(何だろう……智重の言っていることは間違っていないのだけれど、けれど……)



 裏があるような気がしてならないのだ。尚も疑うような顔をしていると、にこにこしている智重に手を引かれた。



「行きましょう、雅様」


「ですが……」


「散歩だと思えば良いのです」



 智重のこの様子だと、いくら断っても誘い続けるだろう。それに魚釣りを通して暁光に近付くこともできるかもしれない。そう考えれば、断る理由はなかった。


 雅が首を縦に振れば、笑みを濃くした智重と共に玄関へ向かって歩き出す。そうして玄関で草履を履いていると、後ろから軽やかな足音が聞こえてきた。



「間に合いましたね」


「志乃さま?」



 振り向けば、志乃の姿があった。彼女は雅を見るとにっこりと微笑む。



「志乃で良いです、奥方様」



 そう告げた志乃の手には風呂敷に包まれた、何やら四角い物があった。それを志乃は雅と智重の方へ差し出しながら言う。



「お弁当です。兄には、糊の巻いていないものが漬物入りだとお伝えください」


「景時さまは、お漬物が苦手なのですね」


「はい」



 それと、と続ける志乃は小さく笑った。



「兄のことは、『景時』とお呼びください」


「ですが……」


「兄はきっと、気付きもしないので大丈夫ですよ。それに、主の奥方様に『さま』付けで呼ばれる家臣というのもおかしなものです」



 そういうものなのだろうか。


 確かに雅が相田城にいる間、家臣を『さま』付けで呼んだ覚えはなかった。だがなぜか気が引けてしまうのは、景時が雅の家臣ではない所為だろう。


 智重は志乃から弁当箱を受け取ると、志乃に微笑みかけた。



「有難く頂くよ」


「はい。ちゃんと全部食べてくださいね」


「うん。ありがとう、志乃」



 草履を履き終わった雅が立ち上がると、智重は玄関の戸を開けてくれる。



「それでは行きましょうか、雅様」


「はい」



 智重を先頭に、雅は森の中を歩き出す。相変わらず森の中は静かで、鳥の囀りが大きく聞こえた。木々に生える葉は深緑だ。まだ肌寒さが残っている。どうやらこの島は海に囲まれているためか、本島よりも気温が低い。


 春もまだ初めだ。桜の季節は過ぎたが、夏にはまだ遠い。羽織だって完全には手放し切れない季節だ。今日の雅は藍色の小袖に薄桃色の羽織を着ている。先日、志乃と共に選んだ着物の一つだった。水の流れを表現した模様の小袖は、雅のお気に入りだ。



「この島は本島よりも少し肌寒いのですね」


「そうなのですか?」



 振り返った智重はきょとんと首を傾げている。そんな彼の反応に雅は尋ねる。



「智重はこの島の人間なのですか?」


「はい。一度も島から出たことがないので、外には疎くていけませんね」



 そう冗談のように言って笑う智重につられるように雅も笑みを零した。


 森を抜けると、海岸に出る。白い砂浜を歩いて進んでいくと岩場が見えた。その中で最も大きく広い岩の上に三つの人影が見え、細い糸が海の中へと落とされている。



「雅様、お手をどうぞ」


「ありがとうございます」



 差し出された智重の手を取って、雅は岩場を歩いていく。どうにか苦戦しながらも三人のいる大きな岩場に到着した。



「……テメェも来たのか」



 初めに雅に気付いたのは脩仁だった。彼は横目でちらりと雅を見遣り、再び海の中へと吊るしている釣竿に視線を戻す。


 景時は雅を見ると、顔を顰めて智重を睨んだ。



「また、お前は余計なことを……」


「間違ったことをしたとは思ってないんだけど。あと、これ。志乃から弁当」



 智重は肩を竦めて言うと、手に持っていた弁当を岩場の上に置いた。それを見ていた雅が景時へ声をかける。



「あ、それと。えっと、景時。糊の巻いてあるものがお漬物入りだと志乃がおっしゃっておりました」


「ああ、そうか。分かった」



 景時は雅の呼び方が変わったことに気付いていないかのように、すんなりと頷いた。どうやら志乃の言っていた通り、景時はさほど気にしていないようだった。


 雅は岩の上で胡坐をかいて座っている暁光を見下ろした。こちらに背を向けたまま、じっと海中に消えた釣り紐の先を眺めている。見方によっては、ぼーっとしているようにも見えた。雅の存在に気付いていないのか、気付いていて気付いていないふりをしているのかは、雅には判断できない。横顔を見ても、何を考えているのか読めなかった。



「あの、……暁光さま?」



 名前を呼ぶと、漸く彼は顔を雅に向けた。それからやはりあまり表情を変化させないまま言う。



「雅殿も来たのか」


「はい。来ました」



 言いながら雅は暁光の隣でしゃがみ、海面を見下ろす。



「何か釣れましたか?」


「うむ。少しだけならば」



 それを聞いた雅は暁光の魚籠を覗き込む。中に数匹の魚が見えた。



「それでは夕餉はお魚ですね」


「ああ」


「暁光さまはお魚がお好きですか?」


「ああ。そうだな」


「どのような料理がお好きですか?」


「うむ……」



 考えるように暁光が空を見上げている。その表情のあまりない彼の横顔を見ながら、彼が何を考えているのか想像する。だが、やはり彼の考えていることは少しも分からなかった。


 考えたまま黙り込んでしまった暁光は、雅に訊かれたことなど忘れてしまったかのようだった。その姿を見ていると、深い息を吐き出す音が聞こえた。



「……くだらねぇ会話」



 続いて耳を打ったその声の主は脩仁だ。欠伸を噛み殺している彼はやはり雅のことが嫌いのようである。それに傷つくことはない。これからきっと自分は彼に殺されかねないことをしようとしているのだ。だがやはり心地よいものではなく、思わず顔を顰めているとそれまで景時と話をしていた智重が傍へ寄って来た。そしてにっこりと微笑むと言う。



「ご安心ください、雅様」


「え?」


「別に、脩仁は貴女のことを嫌っているわけではありません」



 その智重の台詞に脩仁の眉がぴくりと動く。しかし智重は気にせず、笑顔のままで続けた。



「拗ねているのです」


「脩仁さまは拗ねているのですか?」


「はい」



 こくりと頷いて、智重は語り出した。



「脩仁は暁光に出会う三年前まで、海賊やら盗賊やらをしている荒くれ者でした。人を傷つけては金銭を盗むことを繰り返していたのです。ですが、暁光に出会い、改心し、それから暁光の屋敷で共に暮らしているのです」



 それがなぜ雅が嫌われ、彼が拗ねる原因となるのだろう。尚も分からず首を捻れば、智重はきっぱりと言い切った。



「つまりは、淋しいのです」


「違ぇよ」



 智重の台詞を一蹴したのは脩仁本人だった。しかし微笑を崩すことなく、智重は言う。



「寂しいんだろう、脩仁?」


「違ぇっつってんだろーが」


「だが――」


「やめろ。俺が男色みてぇな発言は」



 脩仁は深く嘆息すると海に垂らしていた釣り糸を引き揚げながら、雅に声を投げる。



「それとテメェ」


「わたくしですか」


「そうだ、お前」



 鋭い脩仁の瞳が雅を見遣る。睨んでいるのかと思っていたが、どうやらそれは彼の目付きの問題のようだった。


 彼は短い舌打ちを挟み、告げた。



「その、『さま』付けで呼ぶのは止めろ」


「なぜです」


「気色悪ぃんだよ」


「……」



 嫌われている原因はそれなのだろうか。


 分からないが、これ以上剣呑な雰囲気になっては困るので雅は素直に頷いた。



「それでは『脩仁さん』と呼びます」


「……おう」



 どこか気に入らなそうにしていたが、それ以上反論しなかったところを見るとその呼び方で構わないようだった。再び釣り糸を海中へ浸す彼を見ていると、隣で今まで黙りこくっていた暁光が口を開いた。



「雅殿」


「はい」


「魚の煮付けだ」



 急に料理の名前を言われた雅は何の話か分からず、目を瞬く。そんな彼女をちらりと横目で眇めると、暁光は告げた。



「料理の話だ」


「あ、はい」



 どうやら今まで彼は雅の質問に真剣に考え込んでいたらしい。そう考えると、何だかおかしくて、雅は自然と笑みを零していた。



「志乃に作り方を聞いて、近い日に作ります」


「うむ」



 そう言って釣竿を引いた暁光の釣り糸の先。そこに、ぴちぴちと活き良く動き回る一匹の魚が食いついていた。






 昼に志乃の作ってくれた弁当を食べ、日が傾くまで釣りを続けた。途中、雅は智重に言われるままに釣りをしてみたが、何も釣れず四半刻もする間もなく飽きてしまった。



「もう帰りましょうか」



 智重がそう言い、皆が竿を仕舞い始める。その様子を眺めていた雅に魚籠を持った智重が振り返った。



「魚が腐るといけないので、私は急いで持ち帰りますね」


「はい」



 頷いた雅から視線を外し、智重は重箱を持っている景時と海を眺めていた脩仁へ声を掛ける。



「ほら、景時、脩仁。行くよ」


「あ? 何で俺まで――」


「分かった。脩仁、急げ」



 素直に頷いた景時は身軽な動きで岩場を進んでいく。その彼を視線で追うだけで動こうとしない脩仁を見ると、智重は彼に四人分の釣竿を押し付けた。



「はい、じゃあ脩仁は釣竿を持って」


「何で俺が……」


「早く。魚があたったらどうするの」



 脩仁はぶつぶつ言いながらも先に歩き出した智重の後を追って雅と暁光から離れていった。暫く小さくなっていく三人の背を眺めていた雅だったが、彼らの姿が見えなくなると岩の上に座ったまま動かない暁光に視線を移した。


 彼は潮の匂いに満ちた風を真っ向から受けている。その流れに乗って靡く彼の黒髪は自由を得て喜んでいるかのように見えた。彼の紅い瞳の先を追うと、そこには本島がある。雅も彼と同じように暫くそこを眺めていた。別段何も喋らなくても、この時間を居心地が悪いと感じないのはなぜだろうか。その感覚が不満で、雅は口を開く。



「二人きりですね」


「……ああ」



 首肯した暁光が立ち上がる。雅は自分よりも頭二つ分程度高い位置にある彼の顔を見上げた。その彼の腰で、刀が小さな音を立てる。そういえば景時と脩仁、それに智重も持っていた。雅がそのことを思い出していると、耳に暁光の声が届いた。



「少し、散歩をしてから帰るか」


「お供しても宜しいのですか?」


「……女性を一人で帰らせるわけにもいかんだろう」



 彼の顔を見上げると、一瞬、目が合った。だが直ぐに逸らされてしまう。


 いつも、そうだ。


 暁光は雅の目を見ようとしない。他の屋敷の者とは、割と目を合わせていたように思う。彼の朝焼けに似た、朱色の瞳は雅を映さない。


 岩を下りる途中で彼が、雅へ手を差し出す。降りるのを手伝ってくれるのだろう。だが雅が触れたのは、彼の指先ではなかった。



「暁光さま、」



 呼びかけと、ほぼ同時。


 雅は彼の頬に両腕を伸ばしていた。そのまま半ば無理やり、自分の方へと彼の顔を向かせた。



「きちんとこちらを見てください」


「っ……」



 驚いた彼が目を見開く。丸い朱色の虹彩が、はっきりと見えた。炎よりも儚く、けれど強烈なまでに鮮明な燃える瞳がそこにはあった。


 彼の頬を包んだ両手が、ひんやりと冷たい温度を感じ取った。どうやら長く潮風に吹かれていたようで、冷え切ってしまっていたらしい。


 暁光は瞬きすら忘れた様子で、雅を見ていた。その彼に、雅は問い掛ける。



「どうしてこちらを見ないのですか」


「そ、れは……」



 途切れ途切れの声は、震えている。何かに怯える子供のようで。あれほど考えていることが分からない人だと思っていたのに、今は違った。震えを飲み込むように彼は大きく唾を嚥下すると、口を開いた。



「目、が……」


「目が?」


「……気色が、悪い、と」


「……」



 彼はそのことを気にしていたのか。当たり前のことかもしれないが、何だかおかしなことだと、雅は思う。


 彼の瞳は、異色だ。だからこそ、きっとそんな言葉をたくさん投げつけられてきたのだろう。雅だって、思ったのだ。彼の目の色は、異様だと。だが、それが気にならなくなったのは、いつからだろう。


 朝焼けの色を見て、彼の名前の意味を想像して。そうしているうちに、雅の中で何かが変わったのだろうか。



「今でも気色が悪いと思っていたら、いつまでもこのようなところにはおりません」



 その言葉は、自然と、口を突いて出ていた。


 自分でも意外で、だが驚く間もなく次の言葉が引き出されていく。



「お話をする時はわたくしの目を見てください。お約束です!」


「や、約束……」


「はい」



 暁光は逸らすことなく、雅の目を見ている。その時、雅の左手首を、暁光の右手が掴んだ。頬の温度からは想像できないほどの熱が、そこから伝わってくる。何かを確かめるように、けれど強くない力で掴まれた左手。その手を振り解くことなく、じっと彼の瞳を見つめ返していると、彼はこくりと頷いた。



「……わかった」


「はい」



 雅は小さく微笑んで、彼から手を離す。その瞬間、彼が雅から顔を背けた。その頬が、紅潮して見えたのは橙に色を変えた陽射しの所為だろうか。



「雅殿」



 首を傾げていると、彼に手を差し出された。その手を掴んで、岩場を越えていく。その彼の背を見ながら、ふと思った。



(そういえば、暁光さまはどうやって智重と出会ったのだろう?)



 他の三人との出会いは、智重から聞いて知っている。だが、暁光と智重の出会いだけは、知らないままだった。

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