第二章(一)
戦に旅立つ日、兄の誠士郎は言った。
――お前は、俺にとっては普通の妹だよ。
だから、と彼は続けたのだ。
――お前は戦場に来てはいけないよ。
どうして、と雅は思った。雅が戦場に行けば傷付いた兵を治療できる。翌日には何事もなかったように戦場に復帰させることだってできる。雅は今までそうして生きてきたのだ。自分の血を分け与えることで、民の命を護ってきた。雅はその方法しか知らないのに、なぜそれさえも兄は許してくれないのだろう。
――必ず帰ってくるから。
誠士郎はそう告げて雅の頭を撫でてくれた。その掌の温かさだけが、城の中で孤立していた雅の、唯一の救いだった。――それなのに。
――――……
陽が低い位置にある。
こんな早い時間に目覚めたのはいつぶりだろう、と雅は思う。いつも随分と空が青くなってから目覚めるものだから、朝焼けを見ることなど随分と久しぶりだった。身支度を整えた雅は縁側に立って、鮮やかな赤色に燃える空を眺めていた。
(あの色は……)
朝焼けの、空の色。淡くも見えるが、鮮明なその赤は炎よりもずっと暁光の瞳の色を連想させた。
そういえば暁光とは明け方の空の光を表すのだと、昔習った気がする。実の父に疎まれていたはずの彼がなぜ、そのような立派な名前をつけられているのか。少しばかり、気になった。
雅は朝日を浴びながら、胸元に隠してある短刀を思う。昨晩、脩仁から返された短刀。あの時の彼は、完全に雅を警戒した目で見ていた。もしかしたら雅の思惑を知っているのかもしれない――そう思った。だが、あれから考えるうちに、知っているのならば凶器など返すはずがない、と考え直した。自分の主を狙う者に凶器を返す愚者など、雅は見たことがない。
空が白く、青くなっていく。朝焼けが薄くなっていくことが残念だった。夕方よりも澄んだ空気の中で見る空の赤さが綺麗だと、そう思ったからだろう。そこでふと、雅の頭に疑問が過る。赤く色を灯す空は美しいと思うのに、なぜ、紅い瞳は、気味悪く思えるのだろうか。
首を傾げた拍子に、あまり目を合わせようとしない暁光の横顔が蘇る。彼が目を合わせようとしないのは、なぜだろう。
「雅殿?」
その声の方へ目を向けると、道着姿の暁光が立っていた。朝から道場で誰かと手合せでもしていたのだろう。
「おはようございます、暁光さま」
「おはよう」
にっこりと微笑んだ雅から暁光はすっと視線を外す。
空はすっかり青く色づいていた。鳥の囀りも耳に届き始める。朝独特の水っぽさが空気に漂っていた。その空気を胸いっぱいに吸い込んでいると、傍からなかなか離れようとしない暁光に気付く。そっと視線を投げると、丁度彼がそっと唇を開いたところだった。
「……居間で……」
「はい」
彼は躊躇うように口を閉じてから。淡々とした声調で、けれどどこか緊張した様子で告げた。
「いつも、居間で揃って朝食を摂っている。雅殿も、どうだろう」
暁光はこちらを見ない。だがその横顔で窺える瞳はどこか不安そうだった。なぜ彼がそんな目をするのか、雅には分からない。けれど。
「はい。是非」
返事をした途端、暁光の瞳が雅を捉えた。
そうか、と呟いた彼の顔に薄らと嬉しそうな笑みが浮かんでいる。本当にわずかな表情の変化だったが雅は気付いた。
「行こうか」
そう言って歩き出す彼の背へ雅は続く。
暁光の表情の変化は、貧しい。気難しい人なのでは、と思っていた。けれど先ほどの彼は――彼の笑顔は、飴玉を貰った子供のような屈託のないものに、雅には見えた。もしかしたら彼は雅が思うよりもずっと人間らしい人物なのかもしれない。
朝食を終えた暁光は雅が声を掛ける暇もなく姿を消した。どのようにして彼の逆鱗を探すか思案しながら雅が食後の茶を啜っていると、向かいに座っている智重が不意に微笑んだ。嫌な予感がした。
「雅様」
「……何でしょうか」
智重と数日過ごして、雅は少しずつ気付き始めている。彼はしっかり者でやさしい人であると見せかけて、本当は少し違うのではないか、と。その所為か、彼の不意の笑顔に雅の身体が強張っている。
「あとで暁光の書斎に行きましょう」
「書斎?」
智重の提案に雅は目を瞬かせる。
確かにこの屋敷は広い。書斎の一つや二つあっても、おかしくない。ここで生活している人数を考えれば、使われている部屋よりも使われていない部屋の方が多いのではないかと思うほどの広さをしていた。
智重が提案してくれたということは、暁光は書斎にいるのだろう。だが雅が首を縦に振る前に、智重の隣で湯呑を持ち上げた景時があからさまに顔を顰めた。
「暁光の書斎に? あそこは底なし沼――」
「景時、沢庵が残っているよ」
智重は景時が最後まで言い終らぬうちに、自分の箸で摘まんだ景時の沢庵を彼の口へと押し込んだ。景時は吐き出すことができずに沢庵を飲み込んでいたが、どうやら彼は沢庵が嫌いだったらしい。傍らに置いた刀の柄に触れながら、智重を凄い勢いで睨んでいる。しかしそれを気にする素振りすらなく、智重は微笑を貫いていた。
「どうします? 行きますか、暁光の巣窟へ?」
「巣窟って……」
その響きが気になったが、雅は暁光の書斎に行くことを決意する。
ここに来たのは暁光の逆鱗を見付け、彼の父からの依頼を遂行するため。そのためには彼に近付く必要があるのだ。
(でも、巣窟ってどういうことだろう)
景時と智重の言葉に首を捻っていると、隣に座っている脩仁が立ち上がりざまに言った。
「あれはあいつの性分だ。諦めろ」
さらに、分からなくなった。
智重に案内されて、雅は屋敷の広さを実感した。雅に与えられた部屋から居間までの距離は大したことなかったが、そこから暁光の書斎は歩いて随分と時間がかかった。実家の城とまではいかないが、相田の別邸よりかは遥かに広い。
雅が感心していると、智重が足を止めた。角を曲がろうかとしていた彼は雅の位置からは死角となって見えない廊下にひょっこりと顔を出して確認すると、雅に振り返った。何か不穏な物を感じて雅も確認しようとしたが、智重が両手を広げてそれを妨げる。
「盗み見はいけません」
「どういうことですか」
「お楽しみです」
意味が分からない。
「さて、雅様」
智重はにっこりと微笑むと、言った。
「頑張ってください」
「智重……?」
「ご無事で」
それだけ告げると智重はそそくさと去っていった。残された雅はその場で暫く立ち竦んでいたが、ここにいても仕方ないと自分に言い聞かせる。
(それに何であれほど激励されるのか……)
分からないのなら恐怖せずに進むしかない。雅は決心すると廊下の角を曲がった。そのまま直ぐ傍の部屋の前に立つ。障子はきっちりと閉められていて、中の様子は分からない。
「暁光さま」
呼びかけてみる。
だが、声は返ってこなかった。
もう一度中に声をかけるが、やはり結果は同じ。首を傾げつつも、そっと障子に手を添えた。そして障子を開けながら、声をかける。
「暁光さま、いらっしゃらないのです――」
そこまで言って、雅は固まった。
障子を開けて現れた暁光の書斎。その惨状に、息を吸い込むと同時に目を剥く。
(この部屋の汚さは……)
暁光の書斎の中には数え切れぬほどの書物やら紙やら様々な物で溢れていた。畳の目を一つ見付けることも難しいほどである。
(これは一体……)
唖然とその場に立ち尽くしていると、雅の隣に長い影が並んだ。
「雅殿?」
「暁光さま……」
雅は呆然とした表情のまま、隣に立った暁光を見上げる。
「部屋が……」
「ああ、そうだな」
何でもないことのように言われて、思わず雅はじっと暁光の顔を見た。やはりこちらを見ようとしない暁光の横顔を凝視してみるが、いつも通り表情の変化がほぼないため、判断しようがない。もしや驚き過ぎて固まっているのかと思ってしまう。
「強盗……」
「いつも通りだが」
「……」
どうやら暁光にとってこれが日常的な光景のようだ。つまり部屋を散らかしたのが暁光ならば、そのまま放置したのも彼ということになる。
「……片付けは、なさらないのですか」
「眠る部屋は別にあるからな」
そう言うと暁光は書斎に入っていったが、すぐさま紙の下にあった何かで躓いて転びそうになっていた。それすらも気にしていない様子なので、つまり、そういうことなのだろう。
暁光は言葉通り足の踏み場もない場所を、どうにか踏み場を探して歩いている。さらには座る場所すら探し始めた彼を見兼ねて、気付けば雅は口を開いていた。
「あの、暁光さま」
「何だ」
「わたくしが片付けても宜しいでしょうか」
「……」
振り返った暁光は真っ直ぐに雅を見たが、ほんの少しばかり怪訝そうな表情をすると部屋を見回した。
「雅殿が?」
「はい」
「……片付けを」
「はい」
「そうすれば書物が探しやすくなるだろうか」
「ええ。きっと」
雅が断言すると暁光は一瞬だけ考える仕草をしたが、直ぐに頷いた。
「それでは、頼む」
「はい」
暁光を書斎から追い出すと、雅は早速清掃を始める。書物と紙とそれから筆までが幾つも隠れていた。それを種類別に分類していると、不意に廊下から雅の様子を眺めていた暁光が口を開いた。
「……雅殿は、」
雅は手を止めて振り向く。それと同時に流れるように雅から視線を外しながら、暁光は続けた。
「部屋の片付けが億劫ではないのだな」
「乳母のヨネが口煩かったので」
相田の城にいた頃を思い出せば、毎日のように早起きをしろだの部屋が汚いだのと叱られていた。城の中で孤立を強いられていたが、それでも人間らしい生活が少しでもできるように、という乳母の配慮だったのだろう。あれがあったからこそ雅はある程度は難なく過ごせている。
「暁光さまは、誰にも叱られないのですか」
「……景時は煩いな」
白河景時はどうやら暁光の世話役のようだ。白髪をした、本来の忌龍が生まれる家系。志乃は本来ならば暁光が忌龍になるはずではなかったと話していた。そして自分たちも島流しにされていたのだ、と。その話の詳しいところは不明のままだが、探る必要があるのかもしれない。
片付けが終わると暁光は珍しいものでも見るように書斎内をきょろきょろと見回しながら畳の上に腰を下ろした。その彼を眺めていた雅は、ふと、気付く。
「暁光さま」
彼の漆黒の髪を見る。髪紐が緩くなっていた。
「髪が乱れています」
「……ああ」
そう暁光が頷いた拍子に髪を結っていた紐が解けて、彼の髪が広がった。肩を滑り落ち、胸元へと落ちていく自分の髪を暁光は興味がなさそうに眺めている。
「……わたくしが、直しても宜しければ」
別に、他意があるわけでもなかった。長い髪を邪魔そうにしているのが、思わず目に入ってしまったから。それだけの、理由だった。
彼は驚いたように雅を見た。彼にしては表情の変化の大きい、目を見開いた表情をしている。
拒絶をしないところを見ると、構わないのだろう。雅はそう判断して、畳の上に落ちている彼の髪紐を拾う。
「前を向いていてください」
雅が頼めば、声もなく暁光はそれに倣う。その彼の髪に雅は指を通した。
彼の髪はさらさらと雅の指の隙間を流れていく。見た目よりもずっと指通りはやわらかく滑らかで、猫の毛を連想させる。何だか心地好くて、自分の髪を結う時よりも丁寧な手付きになった。
「……貴女は、」
前を向いたままの暁光が、ぽつりと呟いた。
「躊躇なく、俺に触れるんだな」
「そうですか?」
どうして貴方に触れてはいけないのだろう、――雅は首を傾げながら自分がここへ来た目的を忘れそうになっていることに気付いた。殺すべき相手の髪を、なぜ自分は結っているのだろう。こんなことをして、逆鱗を発見できるわけでもないだろうに。変な同情が移ったら、どうするのだ。
そう思った途端、心が焦る。早く済ませてしまおう。そう判断して、一つに束ねた彼の髪を紐で縛り始める。その彼女の耳に、暁光の独白が触れた。
「なぜ、貴女だったのだろうな」
それは、どういう意味だろう。
分からず首を傾げれば、暁光は自らの呟きすら忘れたように言った。
「芍薬の匂いがする」
「え?」
「貴女から」
言われて自分の肩を嗅いでみたが、何の匂いも感じない。
暁光からは睡蓮の匂いがする。初めて出会った時からそう思っていた。だが口に出すことはなぜだか憚れた。
「初めて言われました」
そう言って誤魔化すように笑ってから、雅は結った彼の髪から手を離した。
「できましたよ、暁光さま」
「ああ。ありがとう」
彼の声を聞きながら部屋にあった塵を抱えると、雅は立ち上がった。部屋は既に片付いている。暁光はどうやらこれから何か仕事をするようだった。ここにいては気に入られるどころか嫌われる可能性がある。
「それでは、わたくしはこれで失礼します」
「ああ」
一礼して、雅は部屋を出て行く。その間、背中に何やら温かさを感じた気がした。その温かさの正体が何なのか、確かめることができずに雅は振り返ることなく、暁光の書斎を後にした。
再び角を曲がり、自室に戻ろうと雅は廊下を歩いていく。その時だった。
「智重?」
暗い廊下の先に、床に蹲る影を見付けた。その後姿で智重だと判断した雅は急いで彼の傍へ駆け寄る。そして彼の顔を覗き込みながら、そっと彼の背に手を当てた。
「智重、どうしたのですか?」
「雅様……」
顔を上げた智重の顔色は悪かった。ただでさえ白い肌をした彼が、青白く見える。彼の背を擦りながら、雅は彼の身体に響かないような、静かな声で尋ねた。
「具合が悪いのなら、暁光さまにお伝えしてお医者様を呼んで頂きましょう」
「いえ、大丈夫です。お気になさらず」
「ですが……」
「本当に、大丈夫ですので」
そう言いながら智重はよろよろと立ち上がっていく。彼の背から手を離して身体を起こした雅に、彼は拭い切れない疲労を顔に浮かべながらも微笑んだ。
「暁光にも、おっしゃらないで結構です」
最後にそう告げた智重は振り返ることなく、歩いて行ってしまう。
「智重……?」
去っていくその背が、何だかひどく寂しそうに見えた。