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(三)

 どこかで、鳥が鳴いている。


 頬に陽射しの温かさを感じて、雅は褥の上で寝返りを打った。漂う眠気が霧のように頭の中に広がり、思考を曖昧にしている。その中でふと、雅は気付いた。



(……陽射し?)



 ふと鼻まで掛けていた夜着を退かすと、雅は先ほどまで身体を向けていた方へ顔をやる。そこには障子など意味をなさないほどの光が溢れていた。心臓が一際大きく跳ねると同時に、雅は顔を手で覆った。



(やってしまった……)



 雅は早起きが苦手だ。瀬和の城にいる時にもよく昼近くまで眠りこけていて乳母に怒られていたことを思い出す。ここでは怒ってくれる相手がいない分、昼を疾うに過ぎてしまっているのではないだろうか。雅は嫌な予感を覚えながら褥から這い出ると、素早く身支度を整える。


 昨晩は暁光と少しばかりの会話をして別れてしまった。彼の身体のどこかにあるだろう忌龍の逆鱗の在処を探ることなどもちろんできていない。今日は早く目を覚まして、甲斐甲斐しく旦那の世話を焼く妻を演じようとしていたというのに、初っ端から企んでいた計画が全て台無しになった。


 雅は袂をきゅっと整えると部屋を出る。途端、障子で遮られていた目映い陽射しに目が焼けた。眩しさに目を閉じる。瞼の裏に白い明るさを感じていると、左側から足音がした。



「雅様」



 掛けられた声の方を薄く目を開けて見遣る。昨晩に優雅な物腰で雅に接してくれた斎賀智重だった。昨晩は黒く見えた髪は太陽の許では少し茶色かかって見えた。同色の焦げ茶色の瞳は丸みを帯びて、肌は白磁のように白い。暁光とは違った種類の美丈夫な青年だ。智重は雅の隣で足を止めると、やわらかな微笑を浮かべた。



「朝餉はどちらでお召し上がりになられますか?」


「……」



 どうやら未だ朝のようだ。


 そのことに安堵しているとそんな雅を不思議そうに智重は首を傾げる。



「どうしました?」


「いえ……」



 まさか既に昼を過ぎているのではないかと疑っていたなどと言えるはずもなく、雅は苦笑して誤魔化す。


 雅はふと耳を澄ました。鳥の囀り以外は静寂と言って差し支えないほど静かだった。雅は智重に視線を上げる。



「暁光さまは?」


「暁光なら、既に食事を終えて散歩に出ました」


「散歩……?」


「村に下りていますよ」



 大寛の話では、この島は三つの村から成っていると聞いている。その内の一つに暁光が出掛けているのだろう。下手したら馬に乗らなければ辿り付けない場所にある村ではないだろうか。乗馬が左程得意ではない雅は思わず眉根をきゅうっと絞った。



「雅様も行きますか?」


「え?」


「村に」



 智重の提案に驚いて顔を上げれば、彼の笑顔が目に飛び込んできた。



「宜しければ、私が案内致しますが」



 大したことでもないように告げた智重は雅が頷く前に、既にそうすると本日の予定を決めたようだった。雅もそうしてもらえると有難いので反論をしない。思わず雅が口元を緩めると、智重も笑みを濃くした。



「朝餉はお部屋で宜しいですか?」


「……はい」



 首肯しながら雅は彼の台詞が嫌味かとも思ったが、陰りのない陽向のような彼の微笑を見て違うだろうと思い直した。






 朝餉を平らげると雅は智重の背に続いて木々の間を歩いていた。この島は外観と同様で緑が多いのだと智重が教えてくれた。浅い森が幾つもあり、その間に時折村が現れるという造りになっている。暁光の出向いた村は屋敷から半時ほど歩いたところにあるという。


 木々の背は高く、重なり合う深緑の葉の間から木漏れ日が差し込んでいる。数え切れぬほどの木々が生えているというのに、道は随分と舗装されて歩き易い。だが、雅と智重の二人が歩く道は人二人分の広さがあるだけで、それ以上先は雑草が生い茂っている。



「斎賀さま」


「智重で良いですよ」


「……智重?」


「はい。何でしょう?」



 雅の半歩前を行く智重が微笑を雅へ向ける。雅は既に屋敷が見えなくなった背後を一瞥し、言った。



「あの屋敷は、とても静かですね」



 それは昨晩も思ったことだった。


 幾ら村から離れた場所にぽつんと一軒建っているだけだとしても、随分と静けさに満ちていた。暁光や智重もいるというのに、とても人の気配の薄い空間だ。



「智重と暁光さまと、それから藤さま以外はいらっしゃらないのですか?」


「おりますよ、あと二人」



 智重の声は、凪ぐようだ。春風のような暖かさがある。胸の内にピンと張っている緊張が緩む気配がして、雅は気を引き締め直しながら彼の話に耳を傾ける。



「食事の支度をしている志乃(しの)と、私や脩仁と同じように暁光の家臣である景時(かげとき)という、白河(しらかわ)兄妹がおります」


「皆さんは初めからこの島に?」


「違います。それに白河の二人は矢代の遠縁にあたる者達ですから」



 矢代の遠縁ということならば、将軍家の血を引いているということになる。白河の二人は暁光の付き人としてこの島にやって来たのだろう。


 暁光が『鬼の島』と呼ばれるこの島へ来たのは今から十一年前――彼が十二歳の時だと雅は聞いている。領土の一部を任されるというよりも島流しに近かったのではないかと、雅は一人で勝手に想像してしまう。何せ『鬼の島』と呼ばれる島だ。手中に収めてはみたものの、矢代大寛自身も持て余していた領土だと言う。なぜ『鬼の島』などと呼ばれるのか、雅は知らないがきっと本島から随分と離れていることと、周りを木々に覆われている正体不明な島であった所為ではないかと思っている。将又、島が鬼の形をしている、か。



「雅様、」



 智重に呼ばれ、考えに耽っていた雅は俯けていた顔を上げた。途端、どこか哀愁を帯びた彼の瞳と視線が重なる。



「どうか、暁光を宜しくお願い致します」



 足を止めた智重は雅に身体を向けると、深くこうべを垂れた。一拍遅れてから立ち止った雅はその彼の行動に瞠目して固まる。なぜ自分に彼が頭を下げるのか、分からなかった。


 暁光の、何を頼むというのだろう。主人のことを――男のことを女に頼む者など、雅は初めて見た。第一、そのようなこと高貴な位の男ならば矜持が許さない。だが、そんな彼女の考えなど構うことなく、智重は続けた。



「彼は感情が顔に現れ難いし何を考えているのか分からない人間としての欠点がありますが、根は良い奴です。どうか、見捨てないでください」



 その時、唐突に雅の頭に浮かんだのは、昨晩の暁光だった。なぜここに来たのか、とそう尋ねていた彼の真意は今でも分からない。だが智重の台詞で暁光の姿の後に雅の眼球の裏に蘇ったのは、暁光の父である大寛の姿だった。


 大寛は暁光を殺してほしい、と雅に頼んできた。領土と引き換えに、実の息子を殺してほしいと懇願してきた彼の、深々とした土下座を思い出す。


 雅と同じように龍の血を引いていても、瞳の色が違うことで忌龍と呼ばれる暁光。島流しにされた、彼。彼は矢代の城にいる間にどのような扱いを受けていたのだろう。考えたくなどないのに、雅の心がちくりと鈍く痛んだ。


 同情する余地などないのだ。


 自分がこの場所に何のためにやって来たのか、雅は何度も心の中で反芻する。そうして、智重の旋毛を見下ろしながら、彼に悟られないように唾を飲み込み、頷いた。



「……分かりました」



 どうにか震えのない声で告げれば、智重が顔を上げる。その顔にはやわらかな微笑があった。


 再び歩き出した智重に続き、雅も森を行く。その胸には先ほどまでなかった黒々とした重さがあった。鈍く痛み、重く、吐き出してしまいたいのに、粘度を持った蜘蛛の糸のように胸の内に張り巡らされている。その正体に気付かないふりをして、雅は前を歩く智重に気付かれないように吐息を落とした。


 暫く歩くと、森を抜けた。目前に現れた村。本島にある村とあまり変わりのない村だった。だがやはり島で、一つ一つの村が離れているということもあってか、村の中に市場もあるようだった。その村の奥へ進むのかと思ったが、智重は直ぐに右へ曲がると再び森の中を歩き始めた。不可思議に思いながら智重を追っていくと、再び森が開けた。



「ほら、雅様。あそこにおりましたよ」



 森の出口で足を止めた智重が指差す先に目を向けると暁光の姿があった。彼の周りには数人の姿がある。その人々の中で一際目立つ人物が暁光の傍らに立っている。


 目立っていたのは、その髪の色の所為だ。白い髪をしていた。だが、年寄ではないことはその凛と伸びた背筋や髪の艶から分かる。髪の長さは智重とそれほど変わらぬようだが、何よりその髪色が異質だった。着物までも白で統一しているものだから、死神なのではないかと一瞬雅の頭を過ってしまう。



「暁光の隣にいるのが、先ほどお話した白河景時です」



 どうやら白髪の彼が、景時のようだった。後姿だけでは暁光や智重と年が変わらないように見えた。


 雅は背を向けている暁光に近付いていく。黒い羽織を肩にかけた彼の姿は後ろから見れば誰とも変わりがない。だが、その眼窩に埋められた瞳は朝焼けと同じ色をしていることを、雅は知っている。


 彼の背から三歩ほど離れた位置で足を止めると雅はそっと唇を開いた。



「暁光さま」


「……雅殿?」



 振り返った暁光はその紅の瞳をわずかに見開いた。明るい場所で初めて見る彼の瞳の色は恐れていたほど、気色悪くなかった。笹型の双眸を瞬かせ、だが顔の筋肉を殆ど動かすことなく、彼は雅を見ている。



「なぜ、ここへ……」


「智重に案内して頂きました」



 言いながら、雅は気付く。彼の前から何やら細い白い煙が立っている。そして耳を澄まさずとも、風に乗って人々のすすり泣く声が聞こえた。


 暁光の周りにいる人々は背を丸め、泣いている。顔を覆う手や頬を拭う手拭いを見て、雅は眉を顰めた。



「何をしていらっしゃるのですか?」


「……墓作りだ」


「お墓?」



 なぜ、と問い掛ける声は暁光の足元に目を向けて口を噤んだ。


 細い煙の正体は、線香だった。緑色の線香が、白く変化しながら独特の沈香の匂いを漂わせている。その線香の先。土が盛り上がり、石が乗せられている。そしてこの辺りには似たような墓が幾つも建てられていた。



「貴方が、相田雅か」



 すすり泣きに混じり、凛とした声が聞こえた。目を向ければ、景時がこちらを見ていた。彼はその白い髪の色とは反する黒々とした目をしている。顔立ちはまだほんのわずかに幼さが残る、二十歳程度。切れ長の瞳は、同じ血が通っているだけあって暁光と似ているようだった。



「こんな場所に連れて来なくても良いものを……」



 ぽつりと呟いた景時は森との境に立つ智重に睨むように目を遣った。その視線を智重はやはり微笑を浮かべて受けている。


 その二人から視線を外し、雅は目前の墓に目を向ける。昨晩にでも誰かが亡くなったのだろう。土の色が濃い、真新しい墓の数は三つ。



(三つ……?)



 雅はそこで昨晩の出来事を思い出す。昨晩雅は暁光に出会う前に襲われた。


 男が二人、と、女が一人。併せて、三人、だったはずだ。


 あの時、雅は暁光に羽織で視界を遮られて、何も見ることを許されなかった。だが聴覚が感じ取ったのは、肉を裂く音。それから、叫び声。あれは、断末魔ではなかっただろうか。焦点の合わない目をして、獣の如く雅に飛び掛かって来たあの三人が、あの後どうなったのか、――雅は知らない。



「行こう」



 立ち尽くしている雅にそう声を掛けたのは、暁光だった。彼は雅の隣を通り過ぎると景時を伴って歩き出す。雅は慌ててその背を追おうとして、振り返った。


 新しい墓の数は、やはり三つ。白い煙も、三つ。沈香の中で泣いている人々の中には、幼い子供の姿もあった。



「雅様」



 智重に急かされ、雅は後ろ髪を引かれる思いを感じながら足を動かした。


 森の中を再び歩いていく。先頭を歩く景時と智重は何やら小声で言い合っているが、青筋を浮かべているのは景時の方で、智重は相変わらずにこにこと笑顔を浮かべていた。その話す声に交ざって、雅以外の三人の腰に携えられている刀が、カチカチと金属の音を響かせている。その刀を見ながら、やはり雅は昨晩のことを思い出してしまう。



(どういう、こと?)



 あの墓が、昨晩の三人のものだとして。それならば彼らを殺したのは、きっと暁光と智重、そしてあの藤脩仁の三人だ。だが、それならばなぜ三人の墓作りに彼らを殺しただろう暁光が参加していたのだろうか。


 雅は三人が暁光たちに殺されるところを見たわけではない。だがあの音が聞こえた後、雅は暁光に促されるまま、あの場所を離れた。その時走ることがなかったのは、既にあの三人が襲ってくる可能性がなかったからではないのか。



「……あの、暁光さま」


「……何だ」



 恐る恐る雅は暁光の顔を見上げる。彼は真っ直ぐ前を見ていて、雅を見ようとしなかった。昨晩もそうであったことを思い出しながら、雅は尋ねる。



「昨晩の、あの者達は一体何だったのですか」


「……」



 雅の問い掛けに、前を歩く智重と景時も反応した。ちらりとこちらを一瞥した彼らに目を向けることなく、雅は真っ直ぐに暁光を見詰めていた。


 ちらり、と暁光が雅を見た。だが、それも本当に一瞬。烈火というよりも淡く、透き通った色をした彼の瞳は直ぐに前方に戻された。



「そのうち、分かる」



 彼の回答は短い。


 これ以上尋ねてもきっと彼は答えてくれないだろう。


 雅は彼の言う『そのうち』がやって来るのか、と。そんなことを考えた。


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