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終章

 きちんと化粧したのは随分と久しぶりだと雅は思った。


 ふと顔を上げて、鏡で紅を引いた自分の姿を見る。少しばかり大人びて見えて、こそばゆい感覚がした。そんな自分の顔から再び手元の文へと目を落とす。



(これで、いいだろう)



 そう思っていると、隣に影が落とされた。顔を上げると、そこには雅の手許を見下ろす暁光の姿があった。



「何をしている」


「父に文を書いておりました」



 帰らない、と。私は暁光様と生きていきます、と綴った文を雅は父に送る。


 戦だと思って、雅は暁光の許に嫁いできた。花嫁衣装すら纏わず、その身には短刀を携えて。民と国のために瀬和を出た雅は紅涙の瞳を持った彼と生きることを決めた。


 雅は隣に立つ暁光に視線を投げる。暁光はいつもの着物とは違う、羽織袴姿をしている。その見慣れない姿に、雅は思わず笑ってしまう。



「ふふ、お似合いですね」


「……いつもの方が俺は良いがな」



 雅は今、一度席を外した志乃の帰りを待っていた。既に化粧は終えている。後は部屋に立てかけられている白無垢に着替えるだけだった。


 今日は雅と暁光の祝言を執り行う日。雅は必要ないと言ったのだが、志乃がするのだと言って聞かなかった。


 暁光はふっと目を細めた。



「紅いな」


「……暁光さまの瞳と同じ色です」



 彼の目が自分の唇を映していると知って、雅はほのかに笑って答える。確かにこんなにはっきりとした色の紅を引くのも久方ぶりだった。


 暁光の手が伸びてくる。その手が雅の頬に触れようとした、が。



「あ、暁光!」



 志乃だった。戻ってきた彼女は暁光を見ると目を三角にした。そのまま怒った表情で言う。



「まだここに来てはなりません!」


「だが志乃――」


「反論は許しません! 奥方様が準備を終えるまでは部屋に来てはなりませんとあれほど申しましたでしょう」


「……」



 強い口調で言われると暁光は何も言えなくなってしまったようだった。


 口を噤んだ彼をじっと鋭い双眸で睨み上げる志乃。だが暁光は少しも部屋を出て行こうとしない。そんな彼を見兼ねて志乃が口を開こうとした、その時だった。



「あ、ここにいたんだね」


「智重……」



 部屋にひょっこりと顔を出した智重に暁光が困ったように言う。



「志乃の機嫌が悪いようだ」


「うん、それは暁光の所為だよね」



 この状況を一瞬で判断したらしい智重は続ける。



「行くよ、暁光。先程から脩仁が食器を割ってばかりいるから景時が苛々しっぱなしだ。そろそろ宥めてやらんと景時が倒れてしまう」


「そうか」



 暁光は納得いかないようだったが、確かに先ほどから微かに食器の割れる音がこの部屋にまで届いていた。


 渋々と歩き出す暁光に智重が続く。その二人に志乃が声をかける。



「あとは私がやりますから、これ以上手を出さないように言っておいてください」


「ああ、わかったよ」



 智重は笑顔で頷くと、暁光と共に部屋を出て行った。


 二人きりになった部屋で、志乃が雅の着付けを始める。いつもよりも帯をきつく巻く、その志乃に雅は顔を顰めた。



「志乃、苦しいです」


「我慢してください」


「ですが……」


「きっと暁光も喜んでくれますから」


「……」



 何と言う殺し文句を使うのだろう。そんなことを言われれば、雅は何も反論ができなくなる。


 帯を締め終わると、そこにはこせこと懐剣を差し込む。あとは打掛を羽織るだけだ。打掛を持ち、雅の後ろへ回った時、志乃が言った。



「ありがとうございました」


「え?」


「……ずっと言えていませんでしたから」



 何が、と雅が訊く前に志乃が続けた。



「奥方様のお蔭で、今、またみんなで笑っていられる」



 智重のことだろう、と思った。


 けれど志乃は、覚悟はできている、と言っていたはずだ。そう言って、あの日、志乃は智重を探しに行く雅を見送ってくれた。



「私、本当は覚悟なんてできていませんでした。だから奥方様が智重を助けに行くと知って、本当にほっとしたんです」



 雅が黙っていると、志乃は袖を持つように雅に促す。言われるままに袖を持つ雅の肩に打掛が掛けられる。


 雅は鏡を見た。その姿を見て、雅は不思議な気持ちになる。


 ここに来たのがもう随分と前のことのように感じる。あの時の気持ちも今はすっかりと薄れてしまって。代わりに胸を満たす想いに、涙が込み上げそうになった。


 その間にも志乃が白無垢を整えてくれていた。そうして着付けが終わった頃、流れるような動作で志乃が雅の向かいに膝をついた。驚く雅に構わず、志乃は丁寧な動作で畳に手を付く。



「雅様」



 初めて、名を呼ばれた。


 志乃は笑顔で、それからゆっくりと頭を下げた。



「どうか、末永く暁光のことをお願い致します」


「……はい」



 雅は微笑む。顔を上げた志乃と目が合うと、雅は腰を屈めて言った。



「それでは志乃の祝言の時には私が着つけて差し上げます」


「えっ」



 ぽっと志乃の顔が赤く染まる。その顔を見て、雅は小さく笑い声を立ててしまう。



「志乃もお慕いする方がいらっしゃるのですか?」


「それは……!」



 そこで口籠った志乃は、声を潜めると首を傾げた。



「気付いていらっしゃるんですか?」


「何のことでしょう?」


「……奥方様は時折智重に似ている気がします」



 少し膨れた志乃を笑って、雅は屈めていた腰を元に戻す。志乃も立ち上がる、その彼女に手を貸していた時だった。



「もう入って良いか」



 その声と同時に部屋に入って来たのは暁光だった。


 懲りずにまたやってきたらしい彼は雅を見付けると、動きを止めた。だが次の瞬間には雅との距離を一気に詰めていた。驚く雅を余所に、彼の手が彼女の頬に触れる。その手が不意に雅の肩に触れた。


 引き寄せられる。


 抱き締められたのだと気付いたのは、背に回った熱い彼の腕と鼻先から感じた彼の香りで。


 硬直して瞬きばかりを繰り返す雅の耳に志乃が大きくため息をつく声が聞こえた。



「何してるんですか。そんなことをしたら着崩れて――」


「志乃」



 その声は智重のもの。


 暁光に抱き締められたまま、雅は障子の傍に立った智重を見遣る。彼は一度だけ雅に微笑むと、志乃へ目を向けた。



「料理の盛り付け、頼むよ」


「でも智重……」


「ほら、行こう」



 そう誘う智重は志乃の手を引くと部屋から出て行った。


 鳥の囀る声さえはっきりと聞こえるほどの静寂の中で、雅はそっと暁光の胸に手を当てた。そうしてわずかに離れた距離で彼の羽織袴に白粉がついていないことを確かめる。


 一方の暁光は距離を取られたことに不満のようで、わずかに顔を顰めていた。そんな彼を見上げて、雅は微笑む。



「ふたりきりですね」


「ああ」



 頷いた彼が再び雅の肩口に顔を埋める。その彼に愛しさが募り、雅はそっと彼の髪に手を伸ばした。いつか触れた、さらさらとした感触。あの時とは違う温かな思いが、胸に満ちていく。


 彼の吐息を首筋に感じて、雅は身体を捩った。だが逃れることなどできず、むしろ抱き締める腕に力を込められてしまう。


 暁光が言った。



「……良い香りがする」


「白粉の匂いですかね」


「……違う」



 否定する彼の声が、甘く響く。



「……貴女の、香りだ」



 そう口にした彼の声が、随分と安らいでいる。


 その声に募る想いがあった。慈しむような愛しさが胸に満ちていく。



「暁光さま」



 呼びかけに彼の腕の力が緩み、瞳が合う。


 絡ませた視線。雅は彼の瞳から目を逸らさない。


 紅の瞳。


 実父にすら疎まれ、人を不幸にすると言う忌龍。その血を持つ彼の瞳を見て、綺麗だと思ったのはいつからだろう。暁と同じ色をした瞳。


 雅はその瞳に誓う。



「私はずっと貴方の傍にいます」


「ああ」



 龍の命は長い。


 これから永久に共に、彼と生きていくのだろう。


 そう思って、雅は彼の身体を抱き締める。その彼女の耳元で、ふっと暁光が笑う吐息が聞こえた。


 そっと彼の顔を盗み見る。そこにあったのは、いつもの仏頂面だったけれど。


 その顔が随分と幸せそうに、雅には見えた。





 了

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