(二)
暁光に連れられ、雅は彼の屋敷にやってきた。立派な部屋を宛がわれた雅は今、その部屋の前にある縁側に腰掛けていた。屋敷に着いてから間もなくして降り始めた雨が地面を叩いている。その雨粒を眺めながら、雅は吐息を落とす。
あの肩より短い髪の長さをした男は名を、斎賀智重と言った。あの後も少しばかり話をしたが、やはり声音も口調も表情もやさしげで物腰のやわらかな人物だった。短髪の男――藤脩仁は別れ際、雅の耳に届くかどうか程度の鋭い舌打ちを残し、姿を消した。どうやら自分は彼に嫌われているらしいが原因が分からない以上、何も対応などできない。
柱に寄りかかった雅の頭を過っていく光景。
(私は、)
女に襲われた時、雅は袂から短刀を取り出した。
だが。
(何もできなかった)
武術は心得ている。何度も兄の誠士郎に教え込まれた。自分の身は、自分で護れるように、と。きっとお前の血を求めてやってくる輩がいるだろうから、と。
しかし実際に襲われた時、雅の中に躊躇いが生まれた。あの時の自分が握っていたのは、短刀だった。凶器は人の命を奪うことができる。それを自覚した時、雅の四肢はただの飾りと化した。動くことを拒み、奪うことを拒み、ただ恐怖に体躯を硬直させるしかなかった。
(彼を、殺せるのだろうか)
雅は何度も自分の中で同じ言葉を繰り返している。
彼を、殺せるだろうか。
暁光を、殺せるだろうか。
そのために、ここへ来たのに。
雅の目的は、暁光の嫁になることではない。彼の逆鱗を消し去り、彼の護るこの領土を相田のものにすることだ。目的は、それ以上でも以下でもない。
噂通り、暁光の瞳は紅かった。炎の色をそのまま映したような、橙と赤が混じり合ったような色をした瞳。それが忌龍の、証。古くから災いを呼ぶと言われる、龍神の異種。
髪の色は、雅と同じ黒だった。ただ、違うのは瞳の色。人と同じ黒の瞳を持つ雅は龍神と呼ばれ、紅の瞳を持つ暁光は忌龍と呼ばれる。そこに不平等だとも理不尽だとも、今の雅は思わない。
(私だって……)
雅は自分の左腕を見る。そこには一枚だけ、生えている鱗がある。逆鱗と呼ばれる、その鱗。
何度怪我を負っても、傷跡一つ残らぬ能力。それが龍の力だと言う。龍神の血を一口嚥下すれば、どのような病も治ると言う。
雅は過去を追い払うように頭を振ると、大きく息を吐き出した。
どれほど無理だとしても、やり遂げなければならないことがある。そのために、自分はここへやって来たのだ。
いつもは騒がしく感じる雨粒の音が、この時ばかりは心地好く感じた。暗い空には星も月もなく、きっと海は空との境目も分からなくなっているだろう。
瞼を伏せ、ひたすらに雨音に耳を澄ます。その雅の鼓膜に、雨音以外のものが触れた。微かな、衣擦れの音。床が軋む音に目を開くと、雅は音の聞こえた左側へと視線を滑らせた。
そこには寝間着用の襦袢を纏った暁光の姿があった。やはり暗闇の中でも、自ら光を放つような瞳が際立っている。彼は雅の存在に気付くと、彼女の傍らで足を止めた。
「起きていたのか」
「はい」
返す声には、きっと感情など孕んではいなかった。感情を込めることよりも、雅の頭は計算高く彼の懐に入る術を探す。
そうだ。まず自分がするべきは、できるかできぬか思案することではない。どのようにして彼に隙を見せさせるか。彼の逆鱗の位置を知ること、だ。
暁光は不躾に自分を見る雅の視線を気にする様子もなかった。それどころか、断りを入れることなく雅の隣に腰を下ろした。
その彼の意図が分からず、雅は困惑する。
静かな空間。雨音ばかりが、耳を打つ。
雨粒が土の匂いを空気に散らせる、その中にふと違う匂いを雅は感じ取った。水のように澄んだ甘い匂い。睡蓮の匂いに、似ている。初対面の時に被せられた羽織から感じたものと同じ匂いだった。
暁光の視線は真っ直ぐに空に伸びている。何かあるのだろうか、と雅も目を向けてみたが何もなかった。あるのは、色を変えることのなく雨を落とし続ける夜空だけだ。
その空に視線を向けたまま、他愛のないことのように彼が言った。
「貴女は、何のためにここに?」
雨粒が土を叩いている。そのたびに、甘ったるい土の匂いが辺りに一際濃く舞った。唇の隙間から零れ落ちた吐息には色などなかった。そうだと言うのに、息を吐き出していくにつれ、視界を翳り、世界を不明瞭へと導く。
「何のために、とは?」
問い返す雅の声は、震えていた。だがそれはほんのわずかなことだったから、きっと彼の耳に届く時には震えなど消え失せていただろう。
「俺の嫁に来る利益などないだろう」
彼の吐く台詞に、裏などないのだろう。
声音と、彼から感じる空気で雅は悟った。そっと盗み見た彼の横顔。そこにあった感情には気付かぬふりをして、雅は空に視線を戻す。
「これは、わたくしの務めですから」
「……そうか」
返ってきた彼の声は、少し。
笑っていた。