(二)
翌早朝のこと。
雅はこの島に来る時に持ってきた短刀を引き出しから取り出した。だがこれは人を殺めるためではない。自分の身を護るために、共に持って行くと決めた。
暁光には言わなかった。
雅は屋敷の者に気付かれないように玄関へ向かう。音を立てないように草履を履き、屋敷を出ようとした、その時だった。
「奥方様」
背後からかけられた声に、雅の肝が冷える。恐る恐る目を向けると志乃の姿があった。
「どうして……」
「脩仁が」
「脩仁さんが?」
「奥方様ならこの状況を知れば智重と話をしたがるだろう、と」
やはり脩仁を襲ったのは智重だったのだ。
胸に込み上げる感情が哀しみなのか悔しさなのか、雅には分からない。だが胸が押し潰されそうなほどの苦しみで声が詰まった。それでもどうにか雅は問う。
「暁光さまは……」
「申しておりません。今は道場に」
そう口にした志乃は手に持つ物を雅に差し出した。
「これを持って行ってください」
「これは……」
「きっと智重もお腹が空いていますから」
竹皮に包まれた握り飯だった。それを受け取り、雅は込み上げる涙を奥歯を噛み締めて耐える。
智重はこれほど大切に思われている。それなのにどうしてこんな事態に陥ってしまうのだろう。
「志乃は、良いのですか」
雅の言葉が唇から零れ落ちた。
それに志乃は笑う。覆うように、隠すように、苦く笑った。
「覚悟はできています。それが智重の願いならば」
「……」
雅はその言葉に何も返せず、黙って背を向けると屋敷を出た。
(大丈夫)
きっと、どこかに智重はいる。そう屋敷から遠くない場所にいるはずだ。
彼は暁光に約束を果たしてもらおうと思っているのだ。そうなれば遠くに行くことはないだろう。近くで、けれど意識を失った時に周りに人のいない場所に身を隠すはず。
雅は森の中を行く。獣道を歩く雅の肌は背の高い雑草で薄く切れる。そのたびに走る痛みに顔を顰めながらも雅は足を止めなかった。
そうしてどれほど歩いただろう。森が随分と深くなった頃、雅は大木の下で蹲っている智重を見付けた。抱えた両膝に顔を埋めている彼の傍にそっと近づいて、雅は腰を折った。
「智重」
顔を覗き込むようにしながらそっと呼びかけると、智重がゆっくりと顔を上げた。寝ていたのだろう、眩しげに雅を見ている。その瞳がいつものやさしげなものであることを確かめて、雅は微笑んだ。
「よかった。具合は平気ですか?」
「はい、今は」
今は、の言葉が無慈悲なほどに胸に突き刺さる。だがそれを顔に出さないように雅は笑顔を崩さないように努めた。
「あ、そうです。志乃が握り飯を持たせてくれました」
「志乃が……?」
「はい。お腹空いていませんか?」
雅は竹皮を剥くと智重の前に持って行く。
「食べてください」
「……ありがとうございます」
いただきます、と告げた智重は微かに笑う。握り飯を手に取った彼はぱくりと一口齧った。
「雅様も召し上がっては如何ですか?」
「私は大丈夫です。どうぞ、智重が召し上がって」
こんな時まで気遣う彼に雅は胸が苦しくなる。
「……美味いな」
零した智重が目を細める。その安堵に似た表情に雅も微笑む。
握り飯の具は漬物のようだった。
「智重はお漬物が好きなのですか?」
「はい」
「ふふ。景時とは反対ですね」
「そうですね」
普段から何かとじゃれ合っている二人を思い、雅は笑ってしまう。笑いながら口元を右手で覆うと智重の手が伸びてきた。彼は雅の手を掴むと、痛んだように目を細める。
「雅様、怪我を……」
「大丈夫です。これくらい、直ぐに治ります」
返して、雅は流れるように告白した。
「私も龍神なんです」
「知ってますよ」
「え?」
驚く雅に智重はいつものやわらかな笑顔を浮かべて言った。
「恐れながら、貴女が暁光の許に嫁いでくると知って、お調べ致しました」
「そうだったんですね……」
「ですが誰にも言ってませんから安心してください」
その智重の言葉に雅は首を傾げる。
「でもどうして……」
「調べたことですか? それとも言わなかったこと?」
「……言わなかったことです」
だってそれは重要なことだろう。
龍神の血は龍神の逆鱗を滅ぼす。皆でその情報を共有した方が暁光の身は安全だ。
智重は雅のその疑問に気付いたようだった。彼は言う。
「景時や志乃はさて置き、脩仁が知れば問答無用で貴女を襲ったでしょう。私たちが求めていたのは『暁光を愛してくれる花嫁』で『龍神』じゃない。鱗を剥いでも死なぬなら、危険なものを少しでも排除したいと考えるのが元蛮人である彼の考え方ですから」
「……」
「暁光には……なぜですかね。言えませんでした」
どうして、と思った。
智重は哀しそうに、笑う。何かを思い出すように笑って、困ったように言った。
「きっと……傷付くだろうから」
「智重……」
智重が握り飯を頬張る。その姿を雅は見ていた。
色素の薄い髪や目。元々華奢だと感じていた身体が、さらに細く見えてしまう。
彼が食事を終えた頃、雅は彼の手を取った。そのことに驚き目を瞠る彼の双眸を見詰めて、雅は言った。
「一緒に帰りましょう。きっと、大丈夫です。暁光さまも分かってくれます」
「私は帰れません」
智重ははっきりと答えた。その瞳に迷いはない。だから雅は彼を掴む手に力を込めてしまう。
「嫌です。一緒に屋敷に帰りましょう」
「雅様……」
「だって……」
雅は思い出す。
この島に来てから、智重は雅に良くしてくれた。あの屋敷で彼がどんな存在だったか、知っている。彼は皆の中心で、いつも笑っていてくれた。その存在があったからこそ、あの屋敷はいつも温かかったのではないだろうか。
「あの屋敷で笑っていられたのも、暁光さまのことを知ろうと思ったのも、全て智重がいたからです」
だから、と雅は彼の手を両手で包む。
「智重がいなければ、私は暁光さまを殺していたかもしれない。貴方がいてくれたから。私は、暁光さまと今、共にいられるのに」
それだけは間違いなかった。
智重がいなければ雅は暁光のことを何一つ知らなかっただろう。知らなければ、きっと彼を殺していた。殺し、今頃瀬和の城の中にいるに違いないのだ。
「帰りましょう、智重? 私も暁光さまを説得するお手伝いをしますから」
そう口にした雅の手に、智重の手が重なった。
「雅様」
静かな呼びかけ。
彼はやさしく微笑んでいる。いつものやわらかな空気と表情で。だが己の手を包む雅の手を、そっと離させた。
息を止めた雅の目をじっと見詰めて、彼は幼子に告げるように言う。
「誰かを救うことは時に、誰かを殺めることよりも残酷なのです。――暁光はそれを分かっている」
けれど、と思う。しかし雅が口を開く前に、彼の台詞が滑り込んだ。
「初めて暁光と出会ったあの日。彼は私と約束をしてくれました」
「約束……?」
「私が、両親と同じようになったときには殺してくれる、と」
鳥が羽ばたく音がした。
黒い影が、雅と智重の間を遮っていった。
「意識はあっても、身体は自分の意思に反して動くのです。目の前で自分が大切な者を傷付ける様を黙って見ていることしかできない。この苦しみは、想像を絶します」
その言葉に雅は何も言えなくなってしまう。
何か言葉をかけなければいけないのに。きっと何か術があるはずなのに。
どうすれば彼が救えるのだろう。
思考を巡らし、自分の足元に視線を落とす。その雅の耳に智重の声が流れてきた。
「――あの時」
「……あの時?」
「……私が雅様を襲った時です」
顔を上げると、智重は微笑していた。泣き出しそうな、切ない表情。彼はその表情のまま、いつもの相手を慮るような声音で言った。
「あの時、雅様は叫ぼうとして、おやめになられましたね」
「……」
それは真実だったから、雅は黙ったままでいた。そしてあの時、智重の意識があったことにも気付いて、泣き出したくなる。
意識があっても身体は自分の意思に反して動く。そのつらさが急にありありと伝わってきたのだ。自分がもし智重と同じ状態になって暁光を襲っていたら――考えるだけで、胸が軋んだ。
智重はふっと息を吐く。笑うように、慈しむように。そして続けた。
「叫んだら、暁光が駆けつける。駆けつけたらどうなるか……だから叫ばないことを選んだんですね」
「……脩仁さんが言ってました」
傷付いた彼は智重を庇い、そして言った。
「『俺たちは誰一人欠けてもいけない』って。私もそう思います。暁光さまだって、本当はそれを望んでいる」
「できないんです」
智重の声は酷薄に雅の希望を打ち消す。
唇を噛んで俯いた雅に智重が声を落とした。
「雅様。これを暁光に渡してください」
「これは……?」
俯いた視界に差し出されたのは、一枚の文。
智重は言った。
「約束を果たす時が来たのです。私は誰も傷つけたくない。あの日、涙を流しながら私に襲いかかってきた父や母のようにはなりたくないのです」
雅は顔を上げる。智重と目が合った。
智重はいつものように笑う。けれどその笑顔には翳る儚さがあった。
彼は立ち上がると、その表情のまま告げた。
「雅様。どうか、暁光をお願い致します」
「智重……」
「彼には、貴女が必要です。どうか、彼を見捨てないでください。――何があっても」
何があっても。
それはこれから起こる未来を全て受け入れているよう。
雅も立ち上がる。その彼女に智重は笑う。
「私と雅様の、二人だけの秘密の約束ですよ」
そう言って、智重はいつものようにやさしく笑った。




