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第一章(一)

 屋敷の縁側に影が、一つ。そこに腰掛けた暁光(ぎょうこう)は手元の文へ視線を落としていた。


 珍しく父親から届いた文を開けば、随分と素っ気ない文章で随分と重要な内容が書かれていた。


 陽が傾き、空は紅く燃えている。もう少しで陽が暮れるだろう。空を見上げた暁光の視界に海猫が横切っていく。



「暁光?」



 呼び声に振り返ると、一人の青年が立っている。年の頃は暁光と同じくらいだろうかその青年はこの国の民にしては色素の薄い。この島の者は皆一様にそうであった。青年は暁光の後ろに回ると、彼の手許を覗き込んだ。



「親父さんから文か?」


「ああ」



 頷きながら暁光は文を見詰める目を細める。



「……嫁などいらないんのだがな」



 そう呟いた彼は呆れたように笑い、薄く嘆息を零した。



「暁光」



 友の呼び声に暁光は振り返る。そこには赤い夕陽を眺める友の横顔があった。



「あの日の誓いを、覚えているか?」


「……ああ」



 頷きながら、忘れてなどいない、と暁光は思う。初めて出会ったあの日、友と交わした誓いは約束と呼ぶには深すぎた。今でも暁光の胸に刻まれ、覚悟など疾うにできている。



「その時は俺が、お前を……」



 呟きながら、見上げた空。


 夕空を見詰める暁光の瞳は同じように、紅く燃えていた。




 ――――……




 鬼の島。


 小舟に乗った雅は海上から徐々に近づく島を見詰めていた。鬼の島は月光に照らされていても尚、黒い物体にしか見えなかった。あの島には幾人も住んでいると父に聞いてはいたが、海からは島の灯りが一切見受けられなかった。


 舟に乗っているのは雅と船頭である中年の男が一人だ。彼は相田家の家臣だったように記憶しているが、政に関わることのなかった雅の記憶は不確かだった。彼の漕ぐ舟で、鬼の島へ向かっている。それは三途の川を渡っていくような感覚だった。


 雅はそっと己の左腕に触れる。これから会う男には絶対に自分の逆鱗の場所を知られてはならない。そのことを心の中で繰り返して、雅は再び顔を上げる。


 舟が黒い波に煽られ、揺れる。海の底は見えない。波に揺れるたびに黒い穴の上に放り出されたような浮足立つ感覚が濃くなっていく。雅はその恐怖を追い払うように、閉じた瞼の裏でひと月前のことを思い出す。


 今からひと月前。矢代大寛(やしろ・だいかん)という男から、息子の妻に雅を、という申し込みがあった。だがその申し込みは、文で済まされるわけでも使者を送るでもなく、大寛本人が相田の城へ人目を忍んでやってきたのだった。通常ならば考えられない行動だった。自分の首が刎ねられてしまえば、彼の領土の民は路頭に迷うこととなる。だが例えそれを犠牲にしてでも、彼は早雲に頼み込みたい願いがあった。


 大寛は言った。領土の三分の一を引き渡すことと引き換えに、頼みを聞いてほしい、と。その頼みを遂行させるために、雅を息子の嫁にほしい、と言った。


 早雲はその頼みを一蹴することなどできなかった。なぜなら領土の広さは力の強さに比例する。


 そして、矢代領の三分の一を任されている人物が矢代大寛の第一子である矢代暁光――雅が嫁いでほしいと切願されている相手だった。



 ――聞きましょう。



 そう口にしたのは、父の隣で黙って大寛が頭を下げる姿を眺めていた雅だった。額を床にこすり付けるまでに懇願する、彼の姿を哀れに思ったのかもしれない。何より自分にしかできぬというのならば、せめて話だけでも聞きたいと思った。


 そうして大寛が滔々と話し出した。その話に耳を傾けているうち、雅はなぜ自分にしかできぬことなのかを知った。


 雅が驚くほど頭の中が冴え、冷静になっていく一方で彼女の隣に座っていた早雲は違った。



 ――大事な娘にそのようなことはさせられぬ!



 そう叫んだ父の声は、今でも雅の鼓膜にこびり付いて離れない。彼が誠に雅の身を案じてくれたのかは、彼女には分からない。


 だが、雅は答えたのだ。



 ――その頼み、引き受けましょう。



 代わりに領土をくださるのならば。


 この時代。領土の広さは力の強さだ。広い領土には多くの優秀な兵が集まり、例え領土を狙った輩が現れたとしても、奪われる可能性は低くなる。だからこそ、領土は金よりも命よりも、雅にとっては大切なものだった。



 ――わたくしが、必ず。



 雅は心を決めた。


 父のために、家臣のために、民のために。ほんの少し、心を殺すだけだから。


 大寛は鋭い双眸に涙を溜めて喜んだ。その時、人の上に立つ男の涙を、雅は生まれて初めて見た。


 彼の頼みは、たった一つ。



 ――息子を、殺してくれ。



 忌むべき紅い瞳を持った龍の血を宿す、息子を殺してほしい。


 大寛の願いは龍神でなければ叶えられない、切実なものだった。


 龍神は、幸福を齎すという。だからこそ、愛でられ、崇められ、育てられる。だが稀に通常とは違う瞳を持った龍神が生まれることがある。それが、【忌龍(いみりゅう)】と呼ばれる龍神だ。忌龍は、幸福ではなく、不幸を呼び寄せると言われている。


 それがただの迷信なのか、真実なのかは、雅には分からない。今、彼女にとって大切なのは彼の首を取ることで自分を慕ってくれていた民の生活がより楽になるということだ。必ずや、逆鱗を見付けなくてはならない。さすれば、暁光が任されている領土は、相田のものとなる。


 島が、近付いている。


 誰も近付けぬ、という島。周りを外壁のように囲んだ木々の所為で、夜になると灯りを放つことのない黒い塊と化す。そのためか、その広さに反して侵略を試みる者は未だ現れなかった。だが海の中心に立つこの島を手に入れれば、塩の入手が昔よりも楽なる、と雅は考えている。そうなれば民の生活もきっと、もっと楽になる。


 小舟が砂浜に上陸すると、雅は船頭の手を借りて舟から降りた。小粒の砂で構成された砂浜では、草履はむしろ邪魔に感じられ、雅は脱いだ草履を持つと白い足袋を纏った足で砂を踏む。


 木々が、島への侵入を拒むように立っている。黒々とした木々は揺れるだけで、胸の内に燻る恐怖を増殖させる。思わず生唾を飲み込むと、背後に立っていた船頭に声をかけられた。



「雅様、お気をつけて」


「ええ。貴方も」



 唇に乗せただけの言葉に込められた感情は薄い。船頭が小舟に乗り去っていく姿を最後まで見送ることなく、雅は島の中へと歩み始めた。


 雅が島に来るのは今晩だと、暁光の許へと文が送られているはずだ。迎えが来るはずだが、こんな暗闇で来るか分からない人物を待っていられるほど、雅は大人しくしていられなかった。城で政に参加させられずとも、武術の心得は二番目の兄である誠士郎(せいしろう)に教わっている。袂に隠した短刀は、人を殺めるためではなく自分の身を護るためだ。


 雅は胸の内で、何度も自分の目的を反芻する。そのたびに込み上げる恐怖は、未だ見えぬ相手に向けたものなのか、生き物を殺生することに対してなのか、定かではなかった。


 大きく吐息を落とし、雅は自分の足元に視線を落とす。そこにある影は闇に溶けては、光の中に浮かび上がった。先ほどから月に薄く雲がかかっては晴れることを繰り返している。四方を海に囲まれている島の所為か、空気も湿っているようだった。



(雨が、降るのかもしれない)



 その前に屋敷に着かなければならない。ずぶ濡れで嫁ぎ先に現れた花嫁など、雅は聞いたこともない。そうなればいくら父親の命とは言え、敷居を跨ぐ前に追い帰される可能性だってある。



(出立する前に聞いた話だと、島の東側に屋敷があるはずだけれど)



 小舟を東側に着けさせたのもそのためだ。岸からさほど離れていないはずだが、一向に見えてくる気配がない。森とも思える木々の間を雅は進んでいく。不安を通り過ぎ、苛立ちが腹に沸いてきた、その時だった。


 がさ、と傍らの草が音を立てた。目を向けたが、草の背丈が高く、何が潜んでいるのか確かめることはできない。数歩後ろへ下がりながら、雅はそこを注視した。猪か、兎か。それともなかなか現れなかった迎えの者だろうか。


 着物の上から、胸元の短刀を確認する。硬い感触を掌越しに感じ、それは束の間の安堵へと変わった。


 草が揺れる。そしてそこからぬっと現れたのは、人間だった。朧月は曖昧に現世を照らしているが、色など確認しなくとも形から人だと分かった。だが、それにしては息遣いが可笑しい。動きも、ゆらりゆらりと身体を左右に動かしながら歩いている。


 戦闘意欲があるわけではないようだ。だが襲われないと言い切れるほどの確信もなかった。半開きの唇からは、低い呻き声が吐息と共に零れている。人間というよりも、獣のように雅には感じた。草の裏から出てきたのは、三人。全て成人の、男が二人と女が一人だった。


 彼らを見ているうちに、雅は先ほどまで苛立っていた心が急速に冷めていくのを感じた。脳は妙に冴え冴えとしている。



「……言葉は話せますか」


 問いかけた声は、冷淡だった。嘲笑でも軽蔑でもない問いかけは、相手の耳には届かなかったのかもしれない。相も変わらず、興奮した馬のような荒々しい呼吸を繰り返している。瞳の色までは定かではないが、焦点の合わない眼球がそれでも獣の如く雅を捉えていた。



(発狂している……?)



 それにしては、動きに緩慢さが目立っていた。左右に身体を揺らしながら歩く、無駄な動きがある。


 雅は袂に右手を突っ込むと、中から短刀を取り出す。護衛はいない。自分の身は、自分で守るしかないのだ。ここで死ぬわけには、いかないのだから。


 鞘から刀身を引き出す直前に耳を打った絶叫。


 咆哮は、獣のそれ。


 鳥の慌ただしい羽ばたきに雅の注意力を散漫とさせられた隙に、それまで緩慢な動きをしていた女が跳躍した。



(飛び掛かられる!)



 そう思うよりも早く、雅は身体を背後へ引いた。後ろへ傾いた身体。でこぼことした土に足を取られ、足の裏が地面から離れる。衝撃は、腰に。受け身を取るために地面に着いた右腕。その反動で、短刀が掌から零れ落ちた。



「っ……!」



 痛みを堪え、迫る気配に顔を上げた。相手の目を見て、知る。そこに濃厚に映った、殺意。獲物を見付けた、狩人の眼。恐怖に身体が硬直し、指先が動かなかった。幾ら武術を倣っていても、戦場に出たことのない雅には意味がない。


 雅は反射に目を閉じ、死を覚悟した。だが。


 衝撃も、痛覚も、何一つなかった。


 ただ五感が感じ取ったのは、複数の、砂を踏む音。そして。



「生きているな」



 声は、頭上から。


 はっと勢いよく顔を上げれば、広く大きな背が見えた。そこに流れる黒い髪は一つに結われている。その髪の長さから、初めは女かとも過ったが、その後ろ姿でさえ分かる逞しさと高身で、男だと直ぐに理解した。


 周りを見回せば、他にも二人ほど男の姿がある。無造作に肩より短く切られた髪をした男と、短髪の男。どちらもやはり雅に背を向けている所為で、髪型で人物を認識するしかなかった。


 雲は、晴れない。


 男達の手に鈍く光るものが見えた。それが刀であることを雅が認識するとほぼ同時。



「そこから動かないでくれ」



 先ほどと同じ、低い声が雅の耳を掠めた。目前に、雅を庇うように立っているこの男のものだと、声の近さから気付く。



「ですが――」


「まだ、」



 雅の反論に声を被せ、彼は告げた。



「死にたくないだろう?」



 茶化すでもない、けれど甘さの香る声に視界が揺れる。それは涙だったのか。羞恥だったのか、安堵だったのか雅自身にも分からなかった。呆然と彼の背を見上げる、その視界が唐突に遮られる。真の闇に落ちた雅の顔と頭上にはやわらかな生地の感触があった。目前にいた男が持っていた羽織だろうか。漠然と考える雅の耳に、聞き慣れぬ音が届く。何かを裂く音。それは兄が狩ってきた兎の肉を裂く音に似ている。続く叫びは、闇を斬り、雅の鼓膜を殴り、暗闇の中で恐怖を煽った。鼻を掠めた臭いに、こめかみが痛んだ。


 静寂の戻った空間で喉を鳴らし、雅は震える指先で己の視界を覆い隠す羽織へ触れる。それを退けようとすると、頭に何かが触れた。布越しに感じる温かさ。重み。



「そのままで」



 止める声は、雅の前に立っていた男のもの。抵抗する間もなく、腕を引かれて立ち上がった。流れるような動作で背に相手の腕を感じる。そのまま何も目に映せぬままに暫く歩かされた。不安よりも疑問ばかりが浮かび、脳内に満ちていく。


 それから、どれほど歩いたのだろう。


 鼻に突く臭いが全く感じられなくなった頃、何の予告も無く視界を覆っていた羽織が取り去られた。現れた景色。それでも尚暗闇だというのに、完全な闇の中にいた雅には少しばかり眩しく感じた。数度繰り返した後、雅は背後を振り返った。その先にいたのは、長髪の男ではなかった。あの肩より短い位置で髪を無造作に切った、男。よく見れば、雅と年齢は十も違わない、若い男だった。その彼の後ろに、短髪の男、そしてこちらに背を向けているあの長髪の男がいる。



「怪我は?」


「ありません」



 背後に立っていた男の気遣う声は、やさしげだった。彼は間髪入れずに答えた雅を小さく笑う。嘲笑ではなく、困ったような笑い方をしていた。何だか凛と構えた自分が妙に間抜けに思え、かっと雅の身体が熱を持つ。


 雅の後ろに立つ男は随分とやわらかな雰囲気を纏っている。それに対して短髪の男は狼のような冷たさの滲む双眸で雅を睥睨していた。自分の行為を顧みてみるが、彼がなぜそれほど不機嫌な目で自分を見ているのか、雅には覚えがなかった。



「あの……」


「何か?」



 にこやかに首を傾げたのは、やはり肩よりも短い髪をした男。雅は彼の背後の二人を一瞥し、彼へ視線を戻すと告げた。



「わたくしは相田雅と申します。矢代暁光様はどちらにおいでかご存じ有りませんか」



 途端に空気が固まったのを雅は感じた。


 もしや彼らは謀反人だろうか。嫌な予感が過り、肝がひやりと冷える。


 厚い雲が月を隠し、木々に覆われたこの場所の闇が深くなる。それが明けぬうちに動いたのは、雅から最も遠くにいた長髪の男。振り向いた彼は迷いのない足取りで雅の目前で立ち止った。



「申し遅れた」



 薄い唇が開かれ、彼が言葉を紡ぐ。やはり、あの低く甘さの滲む声はこの男のものだった。そう判断する雅は目線の高さにある彼の胸元から彼の顔へと視線を上げていく。細い顎。肌の色は、はっきりと分からない。


 雲が晴れていく。


 明度も彩度も低い、夜だった。


 その中で、映した、二つの光。



「俺が、矢代暁光だ」



 朝日に燃える空のような、紅い瞳がそこにあった。


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