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(四)

 魚の煮付けというのは、我慢が大事なのだと雅は知った。魚の煮え具合が気になって菜箸で突こうとしたら、志乃に叱られた。煮崩れてしまいます、と目を三角にした彼女に謝って雅は大人しく魚の煮付けが出来上がるのを待っていた。その間に、志乃は一人で小鉢を三つも作り上げていたのだから、雅は驚きのあまり目を何度も瞬いた。


 出来上がった煮付けを暁光は終始無言で黙々と口に運んでいたので、雅は不安に思って自分の分の煮付けを食べてみたが、別段おかしな味はしなかった。もしかしたら、彼の口には合わないのだろうか。ちらちらと彼の顔色を窺っても一切の変化は見られず、そんな雅の様子を見兼ねたように智重が、美味しいですよ、と一言言葉をくれた。


 もやもやとした気持ちを抱えたまま、湯浴みを終えた雅は自室に向かうために縁側を歩いていた。ふと立ち止まり、縁側から空を見上げると白い光を放つ満月が見えた。輪郭がはっきりとした満月は美しく、うっとりと見惚れてしまう。


 風が吹き、濡れた髪が張り付いた首元を通り抜けていく。ぞくりと走った寒気に、雅は深い吐息を落とした。だが風は既に夏の気配を微かに孕んでいる程度には、暖かかった。今の寒気は、風の所為ではないのかもしれない。そんなことを考えていたら、縁側に自分以外の足音が響いていることに気付いた。その足音に立ち止ると、背後の足音も止まった。



「雅殿」



 振り向くのと、ほぼ同時に名を呼ばれる。


 雅の後ろで足を止めていたのは、暁光だった。月明かりを左頬に受けた彼の姿は、どこか神秘的で。反射的に、雅の中に、綺麗だ、なんて言葉が浮かぶ。


 暁光は雅との距離を、一歩詰めると、口を開いた。



「煮付け、美味かった」



 唐突に告げられたその言葉を、雅は自分の中で反芻する。すると自然と顔が微笑に弛緩した。胸の奥に湧き上がる嬉しさを、どうにか抑えて、穏やかな声で返す。



「また作ります」


「ああ」



 楽しみにしている、と告げた暁光は一度だけ雅に伸ばした右手で、彼女の髪を撫でた。さり気ないその仕草に雅が鼓動を一際大きく跳ねさせている間に、彼は彼女の横をすり抜けて寝室に向ってしまう。


 雅は彼に触れられた髪。まだ半乾きのその部分に触れながら、彼の背をただ見送る。



 ――美味かった。



 彼の声が耳の奥で、心地好く繰り返される。くすぐったさに、心が躍った。



(また作ろう。絶対に)



 その思いはあまりにも自然に自分の心の中に浮かんだものだから、雅は驚きに呼吸を止めた。


 雅は、大寛の依頼を受けて、暁光の許に嫁いできた。その目的が果たせない今、いつ父から城へ戻って来いと遣いを送られてもおかしくないというのに。雅は自分から帰ろうとなど微塵も思っていないのだ。


 誰も雅に、屋敷を出て行け、とは言わない。それは主である暁光が雅を引きとめたからだろう。雅は彼の想いが素直に嬉しかった。雅もここに残りたいと思ってしまった。だが、それが許されることなのかと誰かに問われれば、許される、と断言することなどできない。どうして誰かの傍にいたいと、ただそれだけのことが難しいのだろう。


 深いため息を落とし、雅は自分の部屋に向かっていた身体を反転させた。喉の渇きを感じ、喉を潤すために台所へ向かう。雅の耳にはひたひたと響く自分の足音が聞こえていた。その音に、砂利を踏みしめる音が混じったことに気付いて、雅は音の先に目を向ける。そこにあったのは、智重の姿だった。


 雅の位置からは、彼の背しか見えないため、彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。彼の身体が向けられているのは、屋敷の門の方角だ。こんな夜分遅くに、どうしてそんな場所へ向かって足を進めているのだろう。



「智重?」



 呼びかけた雅の声は、確かに彼に聞こえていたはずだ。だが智重は足を止めることも振り返ることもない。夜風が流れ、彼の髪がなびく。



「智重」



 その様を眺めながら、もう一度声をかけてみたが、彼は振り返ることなく、門の方へと歩いていく。そのまま彼の姿は雅の視界から外れた。


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