(二)
頬に温かさ感じて、雅は目を覚ました。薄く開いた目に白い光が差し込む。その鋭さに反射的に強く瞼を閉じ、再びゆっくりと瞼を持ち上げる。部屋と縁側を隔てる障子が一寸ほど開いていた。軒先の奥に青空が見える。鳥の囀りを聞きながら空をぼーっと眺め、雅は自分の隣に視線を移した。
右手が、繋がれている。指に絡められた相手の手と自分の手の大きさの違いに、思わずくすりと笑いが零れた。
雅の右側で、暁光が眠っていた。陽射しの眩しさから、太陽が顔を出してから随分と時間が経っていることを知った。いつも早起きをしている暁光にしては、珍しいことだった。昨晩は、それほど遅くまで起きていたのだろうか。
屋敷に連れ戻された雅は暁光と共に自分の部屋に入った。だがその後、暁光はなかなか部屋を出て行こうとしなかった。ただ雅の手を握って、傍にいた。その彼の行動が何から来ているものなのか、雅には明確に分からなかった。だが彼の手を払い、無理やり部屋から追い出すことも憚れて、繋がれた手をそのままに褥に入った。
彼のいる静かな空間で、雅は彼の指の感覚を感じていた。自分よりも太く、けれど長い指。雅の手に絡まる彼の指は彼女に穏やかな安心感を与えた。その心地に溺れるようにして、昨晩は気付けば眠りに就いていた。意識を失う直前、髪に温かな指先を感じた気がしたが、それが夢の中の出来事なのか現実だったのか、雅には分からない。
目前にいる暁光はすやすやと穏やかな寝息を立てている。その寝顔はどこか子供のようで、雅は思わず笑ってしまう。するとその笑い声が聞こえたのだろう、暁光がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「おはようございます」
「……ああ」
彼はくぐもった声で雅に返してから、ゆっくりと上体を起こす。それから彼は欠伸を噛み殺した。その無防備な姿にまた雅は笑って、起き上がる。
「暁光さま」
「何だ」
「着替えるので、外に出て頂けますか」
「なぜ」
「なぜって……」
暁光はふざけているわけではないようだった。無垢に近い、澄んだ紅い瞳が雅を見詰めている。
「と、とにかく暁光さまはここから出て行ってください!」
雅は立ち上がって暁光の手を引いた。だが、彼はぴくりとも動かない。押して引いてを繰り返す雅を暁光は訝しげに眺めるばかりで、やはり動こうとしない。そんな彼に雅がむっとした、その時。
障子の向こう側に人影が現れた。
「何をしているんですか、二人とも」
「智重……」
障子が開き、現れたのは智重だった。彼は苦笑して雅と暁光を見ている。その彼を、暁光は腕を組んで見上げた。
「雅殿の機嫌が悪いようだ」
「わ、私は機嫌が悪いわけではなくて……その……」
どう説明しようかと雅が唸れば、状況を理解したらしい智重が数度首を縦に振った。智重は畳の上に座ったまま動こうとしない暁光へ視線を移す。
「暁光、行くよ。脩仁がずっと道場で待ってる」
「ああ、分かった」
智重の話を聞いた暁光は漸く腰を上げる。部屋を出て行く暁光の背を眺めていると、暁光に続こうとしていた智重が雅に言った。
「雅様、朝餉は居間でどうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
閉められた障子。雅は身支度を整えると、智重が教えてくれた通り居間に移動した。開け放たれたままの居間を覗くと、そこには今食事を始めたばかりらしい景時の姿があった。
「景時?」
「……ああ。あんたか」
「おはようございます」
「おはよう」
景時から普通に挨拶が返ってくることに雅は少し驚いた。脩仁までとはいかなくとも、無愛想な人だと思っていたのだ。彼の向かいに置かれている膳の前に腰掛けた時にやって来た志乃が今から食事を持ってくると告げて、景時と雅の湯呑に茶を注ぐと慌ただしく居間を出て行った。
「景時は、今朝餉なのですか?」
「ああ。今日は最も遠くの村の視察だったからな。夜明け前に行って、今帰って来た」
「お疲れ様です」
景時は眠そうな顔一つしていない。どうやらこの屋敷の人々は皆揃って朝に強いらしい。自分もその生活に慣れなくてはならない、と思いながら志乃が今し方入れてくれた茶を啜る。
(でも……)
ここに来たのは、暁光を殺すためだった。だがその目的を果たすことをやめた今、ここにいてもいいのだろうか。
そんなことを考えながら湯呑の中の茶をながめていると、ぽつりと呟くような景時の声が耳に入った。
「あんた、ここに残ることにしたんだな」
「え?」
「昨夜、出て行っただろ」
その台詞に雅は目を見開く。その彼女の表情をちらりと見遣って、景時は言った。
「悪いな。智重が暁光に話しているのが聞こえた」
「……そうなんですか」
驚くほどに暁光に見付かるのが早かったと思っていたのだ。智重は何気ない顔で見送っていてくれたが、あの後直ぐに暁光に報せに行ったのだろう。きっと彼は暁光が知れば引きとめに行くだろうと思っていたのだ。
そして引きとめられた雅は、この屋敷に戻ってきた。
引きとめられるほどの何かをした記憶は、雅にはない。だが先日智重は、本物の好意というのは自覚なく起こるもの、だと言っていた。それならば自分が気付かないのも仕方ないことだろうか。
「暁光が忌龍だと言うことは知っているのか」
ふと耳に入ってきた景時の声。
「はい。知っています」
雅はこくりと首を縦に振った。
「白河のことは?」
「……志乃に、聞きました」
雅は、あくまで微笑みながら話していた彼女を思い出す。
「忌龍は本来白河家の血筋に出る、と。でも今回は本家である矢代の息子である暁光さまが忌龍になってしまった、と聞きました」
「ああ」
景時は茶を一口喉へ流す。他の何かも一緒に飲み込んでいるような、その仕草。雅が声をかけるよりも早く、彼は言った。
「本当なら、俺が忌龍になるはずだったんだろうな」
「え?」
「……意味が分からないのか?」
「……」
意味が分からないわけではなかった。志乃の話を聞いている時から、雅はある可能性を考えていた。
忌龍は、代々矢代の分家である白河家に現れていたと言う。それならば、なぜ今になって矢代の子に忌龍が現れたのか。決して有り得ないことではないはずだが。雅はある考えに至ってしまった。
「暁光さまは、……大寛様の子ではないのですか」
「……多分な」
景時はすんなりと頷いた。だが視線は手元の湯呑に注がれている。その所為で、彼の白い髪が彼の表情を隠してしまった。
「はっきりとしたことは分からない。暁光の母――香藍様は最期まで否定していた」
「そうですか……」
その時、雅は障子の向こう側にちらりと見えた影に気付いた。暁光のものでも、智重のものでもない。随分と戻りが遅いと思っていたのだ。彼女はどこから雅と景時の話を聞いていたのだろう。
景時は彼女の存在に気付いていないようだった。手許に目を落としたままの彼を雅は眺めている。
「……景時は、」
名を呼ぶと、彼は顔を上げた。彼の黒い瞳と目が合う。その目から視線を逸らさず、雅は問う。
「罪悪感を抱いているのですか?」
「……分からん」
景時は顔を上げた。彼は湯呑を置きながら、障子へと目を向ける。
「理屈でどうにかなる問題じゃないからな」
その視線は障子の向こうにある影に向けられている。どうやら彼は彼女の存在に気付いていたらしい。
彼は茶を飲み干すと口を開いた。
「志乃、早く朝餉を食わせてやれ」
そう告げると彼は立ち上がる。障子の向こうに留まっていた志乃は立ち上がると、にこにこと笑顔を浮かべながら居間に入ってきた。それと入れ替わるように景時が出て行く。その背を目で追っていると、志乃が雅の前に座った。
「直ぐに用意しますね」
「……志乃」
目の前に食事を並べていく志乃が、雅の声でぴくりと指先を震わした。その手を見詰めて、雅は口を開く。
「私には詳しい事情は分からないのですが、何と言いますか……」
「大丈夫です」
志乃は雅の顔を覗き込むように見て、やはりその顔に浮かべたのは笑顔だった。
「暁光も、気にする必要はない、と言ってくれましたから」
「……そうですか」
それよりも、と志乃は言った。
「奥方様が、ここにいてくださることが嬉しいです」
「ありがとうございます」
そう言った雅も志乃に吊られるようにして微笑んだ。並べられた料理はどれも美味しそうだった。小鉢の中にはさまざまな和え物が入っていて、濃すぎない味付けが腹の空腹をやさしく満たしていく。それに幸福を感じていると、雅は思い出す。
「あの、志乃」
「何ですか?」
新しい茶を淹れてくれていた彼女に雅は頼む。
「今度、料理の方法を教えてください」
「料理ですか? 何の?」
「魚の煮付けを作りたいのです」
それを聞いた志乃は小さく、どこか嬉しそうに笑った。
「暁光の好物ですね」
「はい」
わかりました、と志乃は言った。
「今日の夕餉にしましょう。魚は兄に捕ってきてもらって」
「はい。ありがとうございます」
これで暁光との約束を守ることができる。そう思いながら笑顔を浮かべていると、ふと視界の隅に影が映った。
「ああ、ここにいたな」
その声で縁側に目を向けると、脩仁が立っていた。脩仁は相変わらず目付きの悪い双眸で雅を見下ろし、ずかずかと近付いてくる。
「ちょっと付き合え」
「……え?」
唖然とする雅に、早くしろ、と告げて彼は雅の腕を引いた。




