第三章(一)
髪が、潮風に流されて踊った。その髪を抑え、雅は皆と釣りをした日を思い出す。
月明かりで白く照らされた砂浜は波の音で満ちていた。海は黒く、本能的な恐怖を感じる。だが引き返すという選択肢が、雅にはなかった。
(帰るんだ)
瀬和へ、帰るのだ。それは雅が自分で決めたこと。
大寛に騙されていたと言えば、誰も雅を責めることはないだろう。むしろ龍神が無傷で帰って来たことに喜ぶかもしれない。そして再び雅は部屋の中で大人しく過ごす日々が始まるだろう。それを思うと、歩む足が重くなった。
少なくとも、ここで過ごす日々は自由だった。誰も雅を龍神として扱うことなく、一人の人として見ていてくれた。気兼ねなく喋り掛けてくれていた。いつも気遣ってくれた暁光のことを思い出して、不意に泣きたい衝動に駆られる。
きっと、この場所は居心地が良かった。自分の立場を忘れて、ここで過ごすことができたら。どれほど楽しいだろう。だがそれは許されないことを、雅は知っている。
雅が国へ帰ると言った時、智重は止めなかった。お気をつけて、と添えて雅を見送ってくれた。だからあの屋敷から雅は去ることを決めた。
雅は砂浜の途中で足を止めた。海を挟んで広がる本島を眺める。今は夜の闇の中で黒い塊と化しているその場所に、雅は帰るのだ。
草履を脱ぎ捨てると雅は波打ち際まで近づいた。ぎりぎり海水に浸らない場所で立ち止り、雅は足元を見下ろす。右耳に髪をかけて、その場にしゃがんだ。触れた海水は冷たく、まだ夏が遠いことを知らせる。名残惜しさからなのか、その場から離れたくないと思った。そんな自分が情けなくて、思わず小さく笑い声が零れてしまう。だがその声も小さすぎて波の音に打ち消された。
見上げた空。無数の星が散らばり、瞬いている。それを眺めていた時だった。
「どこへ行く」
聞き慣れた声が、耳を打った。
驚いた。
ハッとして振り返る。月光を背にしている所為で、顔は分からなかった。だがそれでもそこに立つ人影が誰のものか、雅は見間違えるはずがない。
「なぜ屋敷を出た?」
「暁光さま……」
彼の声は静かだった。凪ぐような声をした彼を雅は見詰めて、立ち上がる。
暁光は何も言わない。問い掛けた言葉の返答を急かすようなことはしなかった。ただ静かに佇み、雅が答えるのを待っていてくれる。
そのやさしさが、苦しかった。
どれほど冷たくされるよりも酷いことだと、雅は思う。だが黙り続けることもできず、雅は唇を開いた。そこから絞り出すような声が漏れた。
「わたくしは、もうここにはいられません……」
「餓鬼がいるからか」
「違います」
「それなら、なぜ」
「なぜって……」
雅は彼を見ていられず、彼から顔を背けた。そこには月光を浴びて煌めく白い砂がある。それに向けた目を細めて、雅はどうにか言葉を紡いだ。
「わたくしがやろうとしていたこと……お気付きでしょう」
「……」
暁光は、何も言わなかった。
やはり気付いていた。気付いていて、何も言わなかったのだ。問うことも責めることもせず、雅を傍に置いてくれた。
「誰から依頼されたのかは言いません、ですが――」
「父だろう」
遮った彼の声は、淡々としていた。
「父に、頼まれたのだろう」
「暁光さま……」
雅は胸の前でぎゅっと自分の手を握り締める。
彼の言葉で、刺客は雅が初めてではないのだと確信した。そして何の感情もなく首謀者が父であると口に出来てしまう彼に、なぜだろう。雅は胸が痛んだ。
「……私は、貴方を殺しに来ました。ですが、できません」
できなかった。できると、思っていたのに。
彼を知れば知るほど、できない、と思った。
「できないので、もうここにはいられません」
「なぜ」
「だって――ッ」
「俺が、構わない、と言っているのに?」
雅の異論は、暁光の言葉に攫われてしまう。
「許すと言っているのに?」
その声の近さに驚いて、ハッと顔を上げた。直ぐ近くに彼の姿があった。
あと数歩で、触れてしまう距離。
「貴女のしたことの、しようとしたことの、すべてを許す」
それに雅は首を左右に振る。それは、駄目だと思った。彼は雅が何をしようとしていたのか、知っていた。初めから、きっと。嫁を送ると父からの手紙を受け取った時から、きっと気付いていた。それでも追求しようともせず、追い帰すこともせず、雅を傍に置いていてくれた。
月光を背にした彼の眼の色は、紅くなかった。黒い瞳が笹型の、美しい眼窩の中に埋まっている。細い顎も、薄い唇も、筋の通った鼻も。暗闇の中ですら、陰ることのない美しさがあるから。ただ、彼の美しさがその造形だけではないこともまた、雅はもう知っている。
雅は後退った。本能だった。彼の傍に近付けない、と思った。
動かした足は、海水に浸った。足首まで冷たい水に晒される。その距離をまた、暁光が詰めようとするから、雅はまた、後ろへ下がった。そうしているうちに、膝の裏側まで海へ浸かってしまう。
「雅殿、こちらへ」
「嫌です」
「雅殿」
「私、は、」
声が、震えていた。
「ここには、いられない」
声の震えは、胸の苦しさの所為だ。
責められるよりも遥かに、許されることがこれほど苦しいとは思わなかった。知らなかったから、罪悪感と背徳感が痛いほどに雅の心と体を軋ませる。このまま粉々に砕けてしまえば良いのに、そんなに命は脆くなどないから。
暁光が静かに手を上げた。びくりと雅は反射的に肩を震わせる。それを見た暁光の指先が空中で静かに折り曲げられ、再び身体の脇へと戻された。
彼は細めた瞳で水面を見下ろしていた。何かを逡巡するような間があった。そのまま背を向けて去っていってくれればいい。雅はそれを願った。
だが。
再び顔を上げた彼は射抜くように、真っ直ぐと雅を見た。逸らすことのない瞳が、雅を捉えている。だからこそ、雅は動けなくなった。強い意志を宿した彼の瞳には、雅の思考を奪うほどの強さがあった。
立ち尽くす雅との距離を埋めるように、一歩、暁光が足を踏み出す。雅が動かないことを確認すると、また一歩。近付いた。
何か言わなくては――そう思いながらも、雅の唇は震えるばかりで言葉を紡いではくれない。
そうしている間に、暁光は雅の目前に立っていた。それほどの距離に近付けば、月明かりを背にしている彼の瞳の色もはっきりと見えた。その彼を見上げて、なぜだろう。反射的に、指先がぴくりと動いた。その自分の浅ましさに、雅は自分に嫌気が差す。その気持ちのまま、俯こうとした時だった。
「行かないでくれ」
耳朶を撫でた声。
切実に響いたその声に弾かれるように雅は顔を上げた。
そこで見た彼の顔は。
「ここにいてほしい」
泣き出しそうに見えた。
だが、その顔をはっきりと確認する間もなく腕を引かれた。抱き締められる。背中に回った、逞しい腕が雅の身体を強く、強く抱いている。
「出て行きたい、と貴女が思っているわけではないのなら。――ここに、いてほしい」
耳元で囁かれた声は直接脳へ作用するようだった。心を直に撫でられたように、胸が高鳴って。なぜだか、泣き出したくなった。
首筋にかかる、彼の吐息が震えている。恐怖に不安に震えているのを感じて、胸が締め付けられるように苦しい。それなのに、胸に広がっていくのは幸福だった。龍神としてではない、たった一人の女として、今、雅は誰かに求められている。傍にいてほしい、と言う。その言葉が、長く気付かぬふりをしていた心の隙間に染みていく。
雅は龍神として幼い頃から見られてきた。大切にされてきた。父にも、兄にも、誰からも。だが、その目に映るのはいつも一人の龍神で、きっと相田雅という一人の少女でないことを、幼い頃から雅は気付いていた。気付くたびに、心には悲鳴をあげることすらなく鋭い亀裂が走る。いつの間にかその痛みすら忘れて、雅は自分の役目に没頭していた。だから人を殺めることさえも、きっと、はっきりと抵抗などできなかった。麻痺した心には善悪の区別すら曖昧になった。
だが彼は雅を一人の女として見てくれている。雅を雅として、必要だと言う。傍にいてほしい、と言う。
けれど、許されることはないだろう。誰が、誰もが許してくれると言っても、きっと雅は自分自身を許せない。そこにどれほどの理由を重ねても、彼を殺めようとした思いは、きっと嘘ではなかったから。
それでも、と思ってしまう。
暁光は、決して無垢な子供ではなかった。人間よりもずっとたくさんの痛みを知っている人だ。だが、それでも、痛みを抱えながらも、尚、彼は前を向いていたから。そんな姿に、強く、心は惹き寄せられてしまった。
「暁光さま、」
胸を満たす、感情のままに。雅は彼の背に腕を回す。
震える指先で、ぎゅっと、強く、彼の服を握り締めた。
「私は、ここにいたいです」
「……――ああ」
頷いた彼の声は、吐息。
絞り出した声は、多くの言葉よりも彼の想いを表していた。




