(四)
道場は想像以上に立派だった。その隅に雅は景時と脩仁と共に座っている。道場の中央に立つ智重と暁光の手には木刀が握られていた。その二人を眺めていた雅はぽつりと呟く。
「でもどうして急に手合せなんて……」
「いつものことだ」
雅の独白に景時から淡々とした声が返ってきた。彼の目は真っ直ぐに道場の中央にいる暁光に向いている。白い髪に黒い瞳は、妙な違和感を覚えた。だが、小窓から差し込んだ光を浴びた彼の髪は銀色にも見え、綺麗という言葉が自然と胸に落ちてくる。
景時は、続けた。
「暁光は何でも溜め込む癖がある。それも本人が気付いていないから性質が悪い」
「性質が悪い……?」
「暁光は様々な思いを抱え込んで倒れたことがある」
心とは目に見えないが、きっと抱えられるものの重さは限られているのだろう。
雅は暁光を見遣る。一つに結われた黒い髪が広い背中に流れていた。智重が暁光と何か話しているが、小声の所為で雅の耳には届かない。
「そうならないために、智重がああしてよく自分から暁光を刺激している。そうすれば、手加減なしで手合せできるだろう。思いっ切り身体を動かすことは必要だからな」
景時の話を聞きながら、雅は暁光を見ている。彼の様子がいつもと少し違うことには気付いていたが、やはり分からない。
「何が刺激になったのでしょうか……」
「……あんたは暁光に気に入られたようだからな」
「……智重にも言われました。ですが、一体なぜ気に入られたのか……」
「……暁光は、目の色の所為で様々な目に遭って来たからな」
紅の、瞳。
忌龍と呼ばれる彼の過去を雅は知らない。彼は話そうとしないし、雅も直接そのことに触れていなかった。
「あんたが自分と目を合わせてくれるだけで、充分だったんだろ」
「……そういうものですか」
雅は、無意識だった。無意識にしていたことが、何か他の効果を持つだなんて雅は思ったことがなかった。
脩仁が立ち上がり、中央にいる二人に近付いていく。その姿を目で追っていると景時が呟くほどの声音で言った。
「初め、大寛様から『嫁を送る』と言われた時、暁光は『必要ない』とぼやいていた」
「……はい」
「きっと、また嫌な思いをするだけだと思っていたんだろう。目のことで、相手にも嫌な思いをさせるとも。……だが、それも杞憂に終わった」
そこまで話した景時の顔に薄く微笑が広がった。可笑しそうな、その顔をした彼はちらりと横目で雅を見遣る。
「目を合わせようとしなかったのは、暁光の方だっただろう?」
「あ、はい」
「暁光はそれに戸惑っていた。……自分から目を合わせようとする人など珍しいからな。『どうして良いか、分からない』と話していた」
「……」
脩仁の合図で、暁光と智重の手合せが始まる。
初めに動いたのは、智重だった。振り上げることすらなく、彼の切っ先は突き刺し掬うような軌道を描く。それを無駄のない動きで暁光が避ける。きゅっと彼の足の裏と道場の床が摩擦する音が響いた。
「あの、景時?」
「何だ」
雅は暁光から目を逸らさず、景時に尋ねた。
「わたくし、気になっていることがあるのですが」
「……」
「暁光さまと智重はどのように出会ったのでしょう。貴方のお話を聞いたところ、とても仲が良いようですが……智重にははぐらかされてしまって」
暁光と木刀を交える智重の顔には笑顔が浮かんでいる。暁光の顔にも、ほんのわずかに楽しそうな表情があるのが、雅には分かった。
木刀がぶつかり合う、乾いた音が鼓膜を叩く。その時雅の脳裏に、二人の兄の姿が浮かんだ。縁側に腰掛けた幼い雅の前で、二人の兄は剣の稽古をしていた。誠士郎が生きていた頃の話だ。その数ヶ月後、戦に出た彼は死んだ。死体は連れ帰されることすら、なかった。
「俺も詳しいことは知らないな」
記憶の中で意識をたゆたわせていると、景時の声で現実に戻される。
「初めて暁光が智重をこの屋敷に連れて来た時、あいつらは血塗れだった」
「え?」
訊き返した直後、木刀のぶつかる小気味の良い音が響いた。その残響の中、雅は景時を見詰めていた。
「血塗れって……?」
「そのままの意味だ」
景時の目は、暁光と智重の方へ向いている。彼の瞳が二人のうちのどちらを映しているのか、雅には分からなかった。その彼の双眸がすっと細くなる。過去を思い出しているのだろう。
「暁光は腕に深い傷を負っていた。智重もまた、誰かの返り血を頭から被っていた」
雅は、先ほどの智重の台詞を思い出す。二人の出会いを知れば雅は卒倒する、と彼は言っていた。あれは冗談ではなく、真実だったのではないだろうか。疑問ばかりが雅の中で増殖していく。
頭の中で様々な憶測を考えている間に、気付けば木刀の音は止んでいた。暁光と智重に目を向けると、智重の木刀が床に落ちている。どうやら手合せは終わったようだった。
「それ以上のことは知らない。訊いても、暁光は何も答えなかったからな」
「そうですか……」
景時は落ちている木刀を拾いに行く。その背を眺めていると、脩仁に木刀を渡した暁光が雅の方へ歩み寄ってくるのが見えた。雅は傍で立ち止った彼を見上げて微笑んだ。
「お疲れ様です、暁光さま」
「ああ」
暁光は腕で汗を拭っている。その彼を見た雅は取り出した手拭いで彼の頬を流れる汗を拭った。途端に暁光は瞠目して固まった。それから困ったように苦笑する。普段表情のあまりない彼にしては豊かな変化に、雅の心臓が大きく波打った。
「あ。わたくし、お冷を持ってきますね」
誤魔化すように告げて、雅は道場を出た。
(またやってしまった……)
数日前に、暁光に言われたばかりだ。貴女は躊躇なく俺に触れる、と。あれは注意されたのかもしれない。それならば、なぜ。彼はあんな表情をしたのだろう。
急いで向かった台所で雅はギヤマンのコップに水を注ぐ。深い呼吸を繰り返しながら雅は道場へ戻った。すると出入り口に腰掛けている暁光の姿を見付ける。その彼の周りに智重や景時、脩仁の姿はない。
「皆さんは?」
「湯浴びに行った」
どうやら彼を一人で待たせることになってしまっていたらしい。彼だって汗をかいているのだ。早く汗を流してしまいたいだろう。
「申し訳ございません。わたくし、余計なことを……」
「いや、良いんだ」
そう言った彼が右手を差し出す。雅はその手にコップを渡した。
「ありがとう」
「いえ。これくらいのこと、大したことではありません」
「……そうか」
曖昧に頷いた暁光はコップに口をつける。一口飲み込むと、ぽつりと呟いた。
「……美味い」
「運動された後ですものね」
「いや、そうじゃない」
「え?」
首を傾げた雅の前で彼は彼女から顔を背けた。その目が静かに細められていく。何かを耐えているような表情に見えて、雅は腰を屈めると彼の顔を見上げた。
「暁光さま?」
「……」
「あの、どこか具合が悪いのですか?」
そう訊けば、彼が目を見開く。だがそれも一瞬。
次の瞬間には、ふっと彼は吐息を零した。
「雅殿は、やさしいな」
そう口にした暁光は、なぜか嬉しそうに笑っていた。




