序章
花嫁衣装を纏わないと決めたのは、雅自身だった。
地獄へ嫁に行くというのに、そのようなものは必要などない。鬼の島に純白の衣装など、なんと似合わないのだろう。だから、雅はいつものように真赤な着物に袖を通し、少しばかり花嫁らしく絹の白い羽織を羽織っていくことにした。
この婚姻を受け入れると決めたのは、雅だ。
瀬和の領主である父をもつ雅は婚約によって得られるものに自分の身を捧げる覚悟など幼い頃よりできていた。その婚約相手が、たまたま鬼の島に住まう男だっただけだ。
父との謁見。辺りにはいつもある家臣の姿はなかった。せめても気遣いだろうか、と雅は腰を下ろしながら思う。
明日は、雅の、輿入れだ。
船に乗り、付き人も伴わず、鬼の島と呼ばれる矢代の領の一つである島へと出向く。そこで実の両親にすら忌み嫌われて生きる男の許へ、嫁ぐのだ。
謁見の間は、驚くほど静まり返っている。穏やかな風の音さえも、はっきりと認識することができそうだった。鼓膜に薄く幕が張っているように感じるのは、静寂の所為か。それにしては自分の心音は驚くまでに、聞こえなかった。
父はあとわずかで現れるだろう。今は一人きりの室内で、雅は己の左腕を擦った。先程から、何やら疼いている。痛みでも痒みでもなく、違和感をぼんやりと覚えていた。そっと着物の袖を捲ってみれば、そこに白銀の鱗が見えた。
通常人体にはあるはずのない、それ。
それが、雅の左腕にはあった。決して消えることのない一枚だけ生えているその鱗を人々は、逆鱗、と呼ぶ。身体に鱗が現れる者は希有とされ、昔から【龍神】と呼ばれ崇められてきた。
この国には龍の血を引く者がいるとされている。その血が多く現れた者に逆鱗が現れ、龍神、と呼ばれる。人の倍は生き、怪我や病に強い丈夫な身体をしている。その血を一滴でも飲めば、不治の病も治るとされている。国に数人のみ生存しているというその龍神の一人が、雅だった。
だが、龍神にも弱点がある。――それが、逆鱗、だ。
逆鱗を奪われると、たちまち龍神の力を失う。そして通常の人間よりも長く生きている者はすぐさま身体が灰と化し、死に至ると言う。
雅は城の中で大切に育てられてきた。国に少しの危険でも迫れば真っ先に身の安全を優先されるのは、いつも将軍である父よりも雅だ。だからこそ、瀬和の城で護られてきた雅の命は安全である――はずだった。
謁見の間の襖が開き、袖を戻した雅はこうべを垂れる。足音も微かに上座に腰を下ろした父に促されるまま、雅は頭を上げた。
自分の父であり、彼女の住まう瀬和の領主である相田早雲。厳しく鋭い双眸は雅と似ている。その父の、髭を生やした口元がゆっくりと開いた。
「……後悔は、ないか?」
問いかけた重い声に、笑みを返したのはせめてもの抵抗。
口元に歪みのない微笑を浮かべ、雅は告げる。
「後悔など、ありません」
纏ったのは甲冑ではなく、花嫁衣装ですらなかった。
それでも、雅は思うのだ。
これは私の戦だ、と。