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硝煙の王子と棘城の赤ずきん

硝煙の王子と棘城の赤ずきんⅡ

作者: さき

 

 ホルトレイス家の令嬢アネット・ホルトレイスは自室の机で頭を抱えていた。

 彼女から漂う深刻な空気と言ったらなく、仮にここに第三者が居れば声をかけることすら躊躇われ、時折漏らされる溜息に耐えられないとそそくさと部屋を出ていったであろう。美しく輝く赤い髪も今だけは空気を重くさせるのに一役買っているような、そんな風に思えるほどである。

 そんなアネットの足下ではフカフカの毛玉……もとい愛猫ロッテが宿敵であるネズミのぬいぐるみ相手に見事な蹴り技を披露していた。ンナンナと猫らしいのからしくないのか分からない鳴き声をあげ、ゴロンゴロンと左右に転がる。そうして熱中するあまり、ついにはコテンとアネットの足にぶつかった。

 足を広げてフカフカの股もお尻も丸見えな状態で目を丸くさせる、そんなはしたない姿に足下を覗き込んだアネットが溜息をついた。


「ロッテ、あなたもう少し落ち着きをもったらどうなの?」

「その言葉、そっくりそのまま返されると思うぞ」

「……むっ」


 聞き覚えのある声にアネットが眉をしかめて声のする方を振り返れば、部屋の扉にもたれかかるのは……もちろん、ヴィクトール・デルギッド。

 デルギッド家の嫡男であり将来有望な優れた騎士。藍色の髪と同色の瞳、誰もが焦がれる甘く精悍な顔つき、そんな見目の良さも合わさって社交界の王子様とまで言われている……アネットの婚約者。もっとも、アネットだけは「政略結婚断固反対!」と書いた幕を窓から垂らして未だ認めていないのだが。


「レディーの部屋に入るのにノックもしないなんて、デルギッド家も落ちたものね」

「俺が何度ノックしたと思ってる。蹴破られなかったのを感謝してほしいくらいだ」


 そう不満げに返して、ヴィクトールが上着の胸ポケットからクッキーを一枚取り出す。

 それを見たロッテが「ウニャーン」と甘えた声で駆け寄るのだから、思わずアネットが「そんなにクッキーが欲しいならデルギッド家の子になってしまいなさい!」と言い捨てた。


「おいおい妬くなよ。おまえもロッテのおまけで俺に嫁いでくるんだから仲良くしろ。そう遠くない話だしな」

「なに勝手に言ってるのよ! 私はあんたと政略結婚なんてしないんだから! そのためには……」


 机の上に広げていた本を手に取り、一面をヴィクトールに突きつける。

 そこに大々的に書かれているのは、正体不明の義賊の名前……。


『硝煙の王子』


 先日発売されたばかりのこの本には、バットソン家でのパーティー以降いまだ彼の足取りを一つとして追えていないことと、そして彼が暴いた不正についてが特集を組んで書かれている。

 あの事件からしばらく経っているというのに、いまだ硝煙の王子は紙面を賑わせているのだ。どんな些細な情報であれ彼の名を書書けば本は飛ぶように売れ、号外に至っては配るより先に人が押し掛けてものの数秒で無くなってしまう。最近では騎士より記者の方が血眼になって硝煙の王子を追っているという。

 そんな硝煙の王子に対し、アネットは忌々しいと言わんばかりに印字を睨みつけた。


 彼を捕まえることこそ、アネットが親から課された政略結婚破棄の条件である。それも一年以内という期限付き。出来なければ今目の前で愛猫にクッキーを与えつつ尻尾のふかふかを堪能している猫馬鹿騎士に嫁がされてしまうのだ。

 だというのに、先日の一件では惜しくも硝煙の王子を逃がしてしまった。姿を見ることこそ出来たのに、仮面を着けていて正体を暴くことも叶わなかったのだ。

 なんと中途半端な結末だろうか。それを思えば自分への不甲斐無さと逃げていった硝煙の王子への恨みが募る。

 ……いや、今はその恨みより勝るのが。


「私が部屋に監禁されてるのも硝煙の王子のせいよ!」


 そう喚くアネットに、クッキーを食べさせつつロッテの背中をフカフカと撫でていたヴィクトールが待ったをかけた。


「なにを言ってるんだ、お前が部屋に閉じこめられたのは自業自得だろ」

「硝煙の王子のせいよ! あいつが気球に乗って逃げたから、それを真似したら怒られて部屋に閉じこめられたのよ!」


 声を荒らげて訴えるアネットにヴィクトールが盛大に溜息をつき、ロッテまでもが呆れたと言わんばかりにフンと鼻を鳴らした。



 話は数日前に遡る。

 その日、知人が主催するパーティーに出席していたアネットは普段通りエスコート役であるヴィクトールにダンスに誘われ……逃げた。

 バルコニーから、用意しておいた気球に乗って逃げたのだ。

 そうして戻ってきたところを母であるアンナに捕まりこれでもかと怒られ、一ヶ月間の外出禁止を言い渡されて今に至る。


「しかもお母様ってば罰として私の食事を半分に減らしたのよ……おやつも禁止なんて酷すぎるわ……」

「俺は寛大な処置だと思うけど」

「お腹が空きすぎて、あんたの持ってるロッテ用のクッキーさえも美味しそうに見えてきたわ……むしろロッテが……」


 そう不穏なことを呟きつつアネットがチラとロッテを見れば、ヴィクトールが慌てて庇うように抱き上げた。上質の上着に毛が付くことも厭わないその献身的な可愛がりように、アネットが肩を竦めて「冗談よ」と返す。

 ――ロッテを風呂に入れたことのないヴィクトールは知らないかもしれないが、フカフカしていても案外に身は少ないのだ。と、それを説明すればよりいっそう強くヴィクトールがロッテを抱きしめた――


「つまりそれだけお腹が空いてるってこと。硝煙の王子を捕まえる前に餓死しそう……」

「大袈裟だな……仕方ない、アネット食事に行くぞ」

「だからお母様に外出禁止を命じられてるのよ。外食なんかしたら一生この部屋に幽閉されるわ」

「婚約者様のお誘いを断るのか? そっちの方がアンナ婦人の怒りを買いそうだがな」


 ヴィクトールがニヤリと悪戯気に笑えば、アネットが一瞬目を丸くさせ、次いで勢いよく立ち上がった。

「そうね!」と思わず声が弾み瞳が輝くのは、ヴィクトールの話が尤もだからである。つまり今から彼と出かけて美味しいものをたらふく食べたとしても「将来の話をしていたの」とでも言えばお咎め無しなのだ。むしろ婚約に前向きと見直されて外出禁止にも恩情が与えられるかもしれない。


「さすがヴィクトール! 悪知恵であんたに勝る者はいないわ!」

「まさか誉めてるつもりじゃないよな」

「最高の賛辞よ! 特別に、ロッテに二枚目のクッキーをあげていいわよ!」


 なにを食べに行こうかしら!と嬉しそうに洋服選びに精を出すアネットに、ヴィクトールが肩を竦める。そうしてチョイチョイと腕を突っつくように伸びてくるフカフカの手に応えるべく二枚目のクッキーを取り出した。




「お肉食べたい!」というアネットの要望通り、馴染みのレストランへと向かう。

 貴族の子息と令嬢でありながらのんびりと歩いて向かうのは、馬車を用意しようとしたところ出会したアンナに

「朝帰りしても良いけど馬車は今夜中に帰してちょうだい」

 と、とんでもないことを言われ二人揃って逃げるようにホルトレイス家の屋敷を飛び出したからだ。穏やかに笑っていたがあの目は本気だった……むしろ馬車の運転手にアネットをデルギッド家に置いて帰るよう命じていてもおかしくない瞳だった。


「さすがアンナ婦人だ……」

「私と結婚するともれなく親族になるわよ」

「……覚悟しておく」


 そんな会話を交わしながら目当てのレストランへと向かう。が、その途中なにやら騒々しい集団を見つけてアネットが足を止めた。

 長閑な賑やかさに包まれたこの街中で、その一角だけが妙なざわつき方をしている。

 横目で窺いつつそそくさと足早に通り過ぎる者もいれば、怪訝そうに眉をしかめている者、中には助けでも求めるように困惑し周囲を見回す者……と、明らかに異常事態を訴えるその空気に、それでも誰も声を荒らげることなく輪を作っている。


「なにあれ、なんか嫌な感じがするわね」

「見てみ……おいアネット、せめて返事を聞け」


 颯爽と歩き出すアネットに、ヴィクトールが文句を言いつつ後を追う。

 そうして輪に加わり中央へと進めば、三人の男達が立っているのが見えた。その前には跪く女性と傍らで泣いている幼い少女、年齢から見て母子だろうか。

 向かい合う両者の立場は明確で、仕立ての良い服を纏いふんぞり返る男達に対して、母子は質朴な服を纏い母親は謝罪するように地に膝を付けている。火がついたように泣きわめく少女は小さな手でこめかみを押さえ、指の隙間からは血が流れて腕にまで伝っている。


「やだ、あの子怪我してるじゃない!」


 と、それを見て取ったアネットが慌てて輪の中央に躍り出て、スカーフを取り出すや少女の前にしゃがみこんだ。


「大丈夫? ほら、これで押さえなさい」


 そっと少女の手を取り、代わりにとスカーフをこめかみに当てる。

 真っ白なスカーフは直ぐに赤い血を染み込ませ、少女の傷が軽傷でないことを訴えてくる。


「ヴィクトール、この子を抱えてあげて。早く医者に」

「ちょっと待てよ、まだ話はついてないんだ」


 遮るように告げられた言葉にアネットが振り返る。

 男は三人、今の発言は中央に立つ男だろうか。見せびらかすように上着を整えれば金の糸であしらわれた刺繍が揺れる。

 これを見ろとでも言いたいのか、しかしそれがいったい何だと言うのか。そうアネットが睨みつけることで返すが、隣に立っていたヴィクトールが小さく「アズドア家」と呟いた。

 その言葉に男が嫌みたらしい笑みを浮かべる。見目は良いのにその張り付いた笑みは薄ら寒く、見ればゴテゴテと重苦しいほどに装飾品をつけたいかにも成金といった風貌ではないか。爽やかな外観ではあるが、あいにくと笑みも状況もアネットの趣味ではない。


「何の話だか知らないけど、今この場においてこの子より優先する事なんてないわ」

「このガキが俺の剣の柄に当たったんだ。騎士の誇りである剣にだぞ。文句を言って当然だろ」


 なぁ、と男が左右の連れに同意を求めれば「えぇ本当に」だの「「もっともです」だのといった寒気すら感じかねないおべっかが返される。

 いかにも親玉と手下と言ったこのやりとり。なんてチープ、なんて馬鹿らしい。それでも男の誇示欲は満たされないようで、改めてアネットに向き直った。


「そのうえこのガキは俺の靴を汚したんだ。弁償させて当然だろ」


 得意げに語る男に、跪いていた女性が頭を下げる。

 真っ青な顔色を見るに男の履いている靴の値段を聞いたのか。確かに質の良さそうな皮で作られ金の金具や刺繍の施された、いかにも高価そうな靴だ。もしもアネットの見立てた通りの代物だったなら、大人が数年遊んで暮らせるほどかもしれない。

 それを弁償しろと言われ、女性がさらに顔色を青ざめさせる。繰り返される謝罪の言葉にヴィクトールが小さく舌打ちするとアネットと男の間に割って入ってきた。


「いい加減にしろ、騎士として恥ずかしくないのか」

「デルギッド家か」


 ヴィクトールの上着に描かれている刺繍を見て男がさらに笑みを強める。

 ヴィクトールがデルギッド家と知ってこの態度なのだから、男はそれ以上の家柄なのだろう。


 だけど、アズドア家なんて聞いたことがあったかしら……。


 と、そこまで考え、はたとアネットが我に返った。

 今は男の家なんてどうでもいい、目の前で泣いている少女を助けるのが最優先だ。どうやらヴィクトールも同じ事を考えたようで、冷ややかな瞳できつく男達を睨みつけると

「この話は俺が預かる」

 と告げて少女の元へと戻った。泣きじゃくる少女の傷を覗き込み、ひょいと抱き抱える。


「アネット、その女性を」

「分かった」


 ヴィクトールの言葉にアネットが頷いて返し、女性へと近付いてその肩に触れる。

 よっぽどの恐怖だったのかそれとも長い時間跪かされていたのか、立ち上がった女性の足取りは随分と危うげで、アネットが肩を貸そうと彼女の腕へと手を伸ばす。だが次の瞬間、男がグイと手を伸ばしてアネットの肩を掴んできた。


「デルギッド家がしゃしゃりでるな!」

「誰がデルギッド婦人よ! 政略結婚なんてしないんだから!」

「アネット、今はそういう話じゃない」


 突っかかろうとするアネットの首根っこをヴィクトールが掴む。

 その強引な制止の仕方に、それでも頭に血が上りかけていたアネットが冷静を取り戻した。そうだ、今はこんな男の相手をしている場合ではない。

 だが男の方はまだ話を終える気はないようで、今度はアネットの髪を掴んできた。真っ赤に輝く自慢の髪……男の手に無造作に捕まれたその髪を見た瞬間、アネットがカッと目を見開き、次いで己の首元に手を寄せると下げていたペンダントの鎖をブチと豪快に引きちぎった。

 衝撃を受け、解けた鎖や壊れた留め具の破片が軽い音を立てて地面に落ちていく。だがそんなもの気にとめず、ホルトレイス家の家紋が記されたペンダントトップを見せつけるように男に突きつけた。


「デルギッド家で不満ならホルトレイス家が預かるわ! 文句があるならいつでもいらっしゃい!」


 ペンダントを投げるように押しつけ、啖呵を切って踵を返す。

 そうして女性を連れて歩き出せば、残された男達が舌打ちをしてきたのが背後に聞こえてきた。




「で、あの男は何なのよ!」


 と、そうアネットが怒鳴り声をあげたのは、先程の騒動から数時間後。母娘を病院に連れて行き、あらかたの事情を医師達に説明し、そうして二人揃って腹を鳴らしながら目的の店にたどり着いたのだ。本来の予定から大きくずれた時間だけあり客は少なく、店内はゆったりとした空気を漂わせていた。

 昼食と夕食の境目、落ち着いた空気とそれを楽しむ常連客の長閑な一時。


 ……アネットとヴィクトールの通された個室を除いては。


 上質の肉に男の顔を見ているのか、華麗な手つきながら豪快にナイフを通し、令嬢には些か大きすぎる一口大に切って口に運ぶ。肉厚なステーキはズッシリとした重みを舌に伝え、噛めば肉汁が溢れ出す。絡められたソースがまた肉の旨味を引き立たせ、噛めば噛むほど味わいを増していく旨味を堪能しつつ、最大限に味わったところで飲み込む。

 後を追うようにパンを頬張れば濃厚な肉とはまた違った香ばしい香りと柔らかさが口の中に広がり、最後にスープを一口すすれば野菜をベースにしたサッパリとした味わいとアクセントにつけられたとろみが舌の上に残っていた味を改めてくれる。

 筆舌に尽くしがたい味わい。アネットが料理の評論家だったなら、星を三つどころか満月をあげたいくらいである。


 だが今のアネットの思考をしめるのは、そんな絶品の料理ではなく先程の一件。

 向かいに座るヴィクトールもそれが分かっていてか、難しい顔で銀食器を操っている。紳士的で令嬢の王子様であるヴィクトールが女性と二人で過ごしているのにこの顔なのだから、世間が知ればさぞや驚くだろう。もっとも、彼の目の前にいる令嬢が憤怒を露わに二皿目を注文しているのだから、ここに第三者が居ればヴィクトールどころではなくそちらに視線が行きそうなものだが。

 ――「だって最近お肉食べれてなかったんだもの!」とは、ウエストを緩めながらのアネットの発言――

 片や怒りを露わに、片やしかめ面で、貴族の令嬢子息とは言い難いその重苦しいムードにいったいどうして二人が婚約中だなどと思えるだろうか。個室でなければ、なにか不備があったのかと店長が平謝りしてきそうなほどだ。


「アネット、あの男はカークス、アズドア家のカークスだ」

「アズドア家? あぁ、なんか聞いたことがあるかも」

「去年までは地方で細々とやってきたようだが、最近住まいを王都に移して台頭してきた」

「地方の一貴族が飛躍したってわけね。それにしたって数年で大きくなったなら私だって顔ぐらい」

「一年だ」

「一年? 何が?」

「……アズドア家が王都に移りデルギッド家を追い抜くまで」


 そう忌々しげに、上質な肉ではなく苦虫を噛み潰したような表情で告げるヴィクトールに、アネットが言われたことが理解できないと言いたげに目を丸くさせた。

 銀のフォークが指の間をすり抜けてカチャンと音を響かせて落ちる。ホルトレイス家の令嬢としていただけない失敗だが、今はそれを恥じんでいる場合でも、ましてや「失礼」と詫びている場合でもない。

 なにせ一年。田舎出の貴族が、たった一年でデルギッド家を抜いたのだ。


「……そんな、デルギッド家が」


 信じられない、とアネットが視線を向ければ、デルギッド家嫡男が悔しそうに下唇を噛む。

 社交界の頂点に君臨するホルトレイス家程ではないが、デルギッド家も権威と歴史を持つ上位の名家。田舎での家がたった一年で追い抜けるわけがない。

 ――もっとも、あくまで社交界の中での上下である。明確な数値で競うものでもましてや勝敗のあるものでもないのだが、だからこそ追い抜かされた家はそれを貴族としての感覚やプライドで感じ取るのだ。ヴィクトールも同様に、己の家がアズドア家に抜かされたことを感覚で察してしまった――


「驚いたなアネット、それも知らないのか?」


 悔しそうな表情をながら気丈に振る舞おうとするヴィクトールに、アネットが意図を汲んで肩を竦める。

 店員を呼び寄せ新しいフォークを手配させるのは彼に同様を悟られないようにするためだ。それに、まだ食べ終えてないし。


「ホルトレイス家は昔付き合いが濃い家だから、新規参入の家には疎いのよ」

「そうだな。とりわけお前はパーティーの途中で抜け出すから、カークスの顔を知らなくても仕方ない。あれは決まって遅刻してくる男だ」

「まぁ、パーティーに遅刻だなんて信じられない」

「気球に乗って脱走する方が信じられないけどな」


 ピシャリと言い返してくるヴィクトールに、アネットが小さく舌を出して返す。

 そんなやりとりでも幾分気が晴れたようで、「まったく」と言いたげに溜息をつく彼の表情は普段通りのものに戻りつつあった。


 悪戯気な笑みは様になっているけど、しかめっ面はいただけないわ。


 そうスープの最後の一口を堪能しながらアネットが心の中で呟く。せっかくの見目の良さが勿体ないじゃない、と、そんなことを思うぐらいにはヴィクトールの格好良さは認めているのだ。


「ホルトレイス家も他人事じゃないぞ。あの早さだ、あと数ヶ月すればカークス家が社交界の頂点に手をかけてくるかもしれない」

「あら怖い」


 そうアネットがスカーフで口を押さえつつ笑う。

 店員がチラと覗きこんできたのは、そろそろデザートを持ってきてくれるのだろうか。料理がこのレベルなのだからデザートも期待できそうね、とアネットが頬を緩めれば、ヴィクトールが「暢気なものだ」と肩を竦めた。


「そもそも、そんなに飛躍するのはおかしいと思わない? 絶対に何かしてるに決まってるわ!」

「まぁ確かに尋常じゃないな。だが調べようにも四方に手を広げてて、おまけに権力を誇示して逆らう家は容赦なく潰しにかかる。おっかなくてどの家も口を挟めず媚びを売るだけなのが現状だ」

「ふぅん……でも、そういうのに臆さず戦う人がいるじゃない」


 ニンマリと笑うアネットに、ヴィクトールが頷いて返す。

 アズドア家がどれだけ権威を手にしようと、カークスが横暴に振る舞おうと、そんなものとは無関係の場所に立つ者が一人いる。むしろアズドア家が飛躍のために不正を働いているのだとしたら、それこそ彼の出番ではないか。


 そう、硝煙の王子である。




「絶対に硝煙の王子は次にアズドア家を狙うはずよ! 間違いないわ!」

 そう意気込みながらアネットがホルトレイス家の屋敷に帰ってくれば、出迎えたのは母であるアンナと、彼女の腕の中にいる愛猫ロッテ。


「あら、もう帰ってきたの? 朝帰りくらいしてくれるかと思ったのに」

「……帰ってきた娘への第一声がそれ?」

「そうね失礼だったわ、おかえりアネット。まったくヴィクトールは送り狼にすらならなかったのね」

「お母様やめて……!」


 生々しい話は嫌! とアネットが悲鳴をあげ、アンナからロッテを受け取る。

 ふかふかの栗色の毛に色とりどりの小さなリボンが巻かれているあたり、随分とアンナに遊ばれたようだ。とりわけ、頭の上にチョコンと乗せられた帽子とそれを止めるレースの顎紐が見ていて哀愁を感じさせる。

「後で取ってあげるから」と腕の中に話しかければ、縋るように見つめてくる丸い瞳のなんと切なげなことか。


 そうしてロッテを連れて自室へと戻ろうとし……


「アネット、さっきアズドア家のカークスが貴女を訪ねてきたわよ」


 というアンナの言葉に足を止めた。まずい、と思わず表情をしかめてしまう。

 これはもしや啖呵を切ってペンダントを叩きつけたことを知られ、なんてはしたないと咎められるのではないか……。と、そう考えてアネットがゆっくりとアンナを振り返る。


「ち、違うのよお母様、あれはあっちが悪くてね。ヴィクトールに聞いてくれれば私が悪くないって分かるはずよ」

「アネット、さすがは私の娘ね」

「えぇそうね、我ながらこの性格はお母様譲りだと思うわ。でも……え、私誉められてる?」


 嬉しげなアンナの声に、思わずアネットが目を丸くさせる。

 てっきりカークスとの一件を怒られるのだとばかり思っていたのだ、だというのにアンナの反応は真逆。誉めちぎってくる。

 いったい何が起こっているのか……と思わずアネットが薄ら寒さすら感じて腕の中のロッテを抱きしめる。アンナの誉め言葉はまったく胸に届かず冷や汗に変わってしまう、それほどまでなのだ。

 そんなアネットの態度を謙遜とでも取ったのか、アンナは上機嫌に娘を誉め尽くすと、


「まさかカークス・アズドアにまで求婚されるなんて、やるじゃない!」


 と、笑って告げた。

 その言葉にアネットが甲高い悲鳴をあげれば、腕の中にいたロッテが無理矢理くわえ取ったピンクのリボンをベッ!と床に吐き出した。



 アネットがホルトレイス家に戻ってくる一時間程前、カークス・アズドアが屋敷を訪れた。

 予定もないこの訪問にホルトレイス家夫婦は訝しげに思ったが、彼の手の中にあるのは間違いなくアネットのペンダント。ホルトレイス家に仕える専属の装飾人に作らせたもので、家紋もしっかりと彫り込まれている。

 それを確認すれば無碍に追い返すこともできず、いったい何の用かと尋ねる夫婦に対し、カークス・アズドアが高らかに告げた。


『アネット・ホルトレイスを妻に貰いたい』


「……って、男二人から求婚されるなんて、たいしたものだわ!」


 その時のことを思い出しているのだろう、興奮気味に話すアンナにアネットの表情が青ざめていく。

 まさかカークスが、よりによって啖呵を切ったあの男が、どういうわけか自分に結婚の申し出をしてきたのだ。想像するだけでフルリと体が震え、掴まれた肩から体中へと寒気が広がる。思わずクラと視界が揺らぎだし、これはもう気絶しかねない緊急事態だ。

 だが気絶する前に確かめなければならないことがある、そう自分に言い聞かせてアネットが震える声で母を呼んだ。


「お、お母様……もしかして、その申し出を受けたんじゃ……」

「まさか。なんだか胡散臭い家だし、そんなところに娘をやるわけないじゃない」


 有り得ないわ、と言い切るアンナにアネットが思わず安堵の溜息をつく。どうやらカークスは門前払いを喰らったらしく、それを誇らしげに語りながらアンナが優しく笑んでアネットを抱き寄せた。優しい包容、ふんわりと漂う暖かな香りはいつまでも変わらぬ母の香り。

 ヴィクトールとの政略結婚こそ強引に進めているアンナだが、それでもアズドア家(カークス)は『娘を嫁がせるに値しない』と判断したのだ。いくら政略結婚が常の貴族の世界においても、母の愛が無いわけではない。

 そんな美しい親子の抱擁に挟まれたロッテが「苦しい!」と言いたげに足を突っ張れば、それを受けたアネットがスゥと息を吸い込み、


「カークス・アズドアとの結婚なんて絶対に嫌なんだから!」


 と声高に意思表示をした。




「もう何なのよあの男!」


 と、部屋に戻るなり声を荒らげてベッドに寝転がる。上質の布団はバフッと豪快な音をたててアネットを受け止め、それに合わせてロッテが転がる。次いで転がりざまに枕に喧嘩を売ってウナウナと鳴きながら蹴り技を披露するのだから、さすがはホルトレイス家の猫といえる喧嘩早さである。

 そんなロッテを眺めつつ時折は腹を擽るように撫で、アネットが盛大に溜息をついた。

 どうして私の周りには癖のある男しかいないのかしら……と。そうアネットが――自分をだいぶ高い棚にあげて――嘆けば、窓がコンコンと叩かれた。


「癖のある男の代表が来たわ」


 思わずアネットが呟きつつ窓辺に近付いて鍵を開ければ、涼しい風が一瞬にして入り込みアネットの赤い髪を揺らす。

 その心地よさに瞳を細めれば、窓から風だけではなくスルリと男の腕が入り込み窓の縁を掴む。グイと身を寄せて半身乗り込んでくるのは……もちろん、ヴィクトールである。


「ヴィクトール、只でさえ失礼な夜の訪問におまけに窓からなんてデルギッド家の名が泣くわよ」

「聞きたいか?」

「……やめておく」

「俺もちゃんと玄関から入ろうとしたんだが、そうしたらアンナ婦人がいてな」

「やめてっ! 聞きたくない!」


『あらヴィクトールどうしたの……もしかしてカークス・アズドアの話を聞いてアネットに迫りに来たの!?  そうね!そうなのね!いいわ、男はそれぐらい強引じゃなきゃ! 人払いをして、なんだったらアネットの部屋の灯りを消して上げる。合図をくれれば、部屋の灯りをムードある色合いに切り替えることも出来るのよ! まぁ、それやると屋敷中の灯りが消えるけど!』


「……って、捲くし立ててきたから思わず逃げた」

「違うの、お母様は普段は冷静で落ちつきのある方なのよ。とても素敵で、私の憧れなの……待って、私の部屋にそんな仕掛けがあるの!?」


 どこに仕掛けが! と慌てて部屋中を見回すアネットに、ヴィクトールが窓辺に腰掛けつつ溜息をついた。


 アンナ・ホルトレイスがいかに貴族として優れているかは社交界に顔を出したことのある者なら誰だって知っているはず。なにせ社交界の主とまで呼ばれる人物、その才知と高貴さには爵位に関わらず誰もが敬意を表するほどである。

 そんな人物も、流石に娘の婚約話となれば浮かれてしまうらしい。――多少……どころではなくだいぶ迷惑な浮かれ具合ではあるが――

 もっとも、フカフカの毛にピンクやらオレンジのリボンをつけているロッカを見るに、元からそんな性格だったのではないかという可能性も無きにしもあらず。

 そしてそんなアンナの血を色濃く受け継いでいるのが、ほかの誰でもなくアネットである。お転婆で常識外れで、それでいて時にホルトレイス家の令嬢らしい高貴な面を見せる。

 もっとも、今のアネットには高貴さもなにもなく、部屋の仕掛けを探し回り今まさに床に寝そべってベッドの下を覗き込んでいる。だがそれも無理だと諦めたのか、ハタハタとスカートの汚れを手で払うと改めてヴィクトールに向き直った。

 そうして彼女が口を開くも、それより先にヴィクトールがアネットを呼んだ。


「アネット、カークスから縁談の申し出があったんだってな」

「えぇ、勝手に来て勝手に申し込んで勝手に帰って行ったみたいだけど」

「……どうするんだ?」


 チラと横目で見てくるヴィクトールに、アネットが眉間に皺を寄せた。


 どうするか、ですって?

 そんなの決まってるじゃない!馬鹿なこと聞かないで!


 と、そう怒鳴りつけようとするも、ピョンと窓辺に飛び乗ったロッテがガブリとヴィクトールの手を噛んだ。おまけに豪快なネコキックまで仕掛ける荒々しさ。

 まるで「女心の分からないやつめ!」とでも言いたげなその猛攻撃に、慌てたヴィクトールが胸ポケットからクッキーを取り出して示談に持ち込む。


「ホルトレイス家の猫はデリカシーのない男が嫌いなのよ」

「そうか。悪かった」


 ロッテの頭を撫でながら、ロッテに(・・・)向けてヴィクトールが謝罪の言葉を口にする。

 だがチラとアネットを一瞥するあたり、はたして誰に謝っているのやら。昔から素直に謝れずロッテ経由の謝罪をしてくる幼馴染みの意地っ張りな性格に、思わずアネットが苦笑を漏らした。

 外観はまるで王子様のように育ったのに、中身はまったく子供のままではないか。

 だからこそ彼にも分かるようにハッキリと「あんな男と結婚なんて絶対に嫌!」と宣言してやれば、それを聞いたヴィクトールが「カークスに聞かせてやりたいな」と笑う。


「それで、まさか私がカークス・アズドアに(なび)いたと思って確認に来たわけ? もしそうならロッテの最新技『三角飛び引っ掻き』をお見舞いしてあげるわよ」

「まさかそんなわけないだろ、ちゃんと用事があって……だからそんなわけないから、ロッテやめろ、獲物を狙う目で俺を見るな」


 尻尾を高らかに掲げお尻を振って狩の姿勢を見せるロッテに、ヴィクトールが身の危険を感じてそのピンクの鼻先を撫でて宥める。そうしてコホンと一度咳払いをすると改めて本題を話し出した。

 もちろん、カークス・アズドアのことである。


「少し調べてみたんだが、案の定真っ黒だな。ガラの悪い連中を雇って、力のある家を脅して色々とやらかしている。調べれば調べるほど出てきて、よくぞここまで悪知恵が働くもんだと尊敬するよ」

「やっぱりね、胡散臭いと思ってたのよ」


 所詮そのレベルの男よ、とアネットが鼻で笑う。

 おおかた、上流階級の保身さを逆手にとって上り詰めたのだろう。十年に一度ぐらいの頻度で、こういう「力さえあれば」と馬鹿な考えを持つ家が出てくるのだ。力で脅せば保身的な家を従えることができる、名をあげられる……と。

 そうして浅はかな行動で潰れていった家を考えれば、デルギッド家を追い抜きホルトレイス家の地位にまで手を伸ばしているアズドア家はまだ上手いことやった方なのかもしれない。まぁ、馬鹿の中では、という程度だが。


「やっぱり硝煙の王子が次に狙うのはアズドア家よね」

「あぁ、多分間違いないな」

「そうとなったら情報収集ね! 硝煙の王子も捕まえて、カークスにペンダントの仇もとって、一石二鳥よ!」

「ペンダントの仇って……」

「あれ、お気に入りだったの」


 渡したのは間違いだったわ、とアネットがしゅんと項垂(うなだ)れる。

 あの時カークスに突きつけたのは、ホルトレイス家令嬢としてアクセサリーを多々持つアネットのそれでも一番のお気に入りの品物だったのだ。白濁色の珍しい石に家紋を彫り込み、周囲の囲いにもデザイナーと話しあって拘りを見せた。

 世界に二つと無いからこそあの場で突きつける意味があったのだが、だからこそ惜しまれる。

 かといってカークスから返されても一度あの男の手に渡ったものを身につけるのは気分が悪く、同じ物を作らせたらそれこそお揃いなどという寒気のする事態になってしまう。

 それらを考えれば、ハァ……と思わず溜息が漏れる。硝煙の王子を捕まえようと躍起になっても、パーティー会場から気球に乗って逃げ出そうとも、アネットは年頃の少女。お気に入りのペンダント喪失はかなりの損失と言え、おおいに胸を痛めさせるのだ。

 そんなアネットに対しヴィクトールは「ペンダントねぇ」と小さく呟き、その興味のなさそうな声色に再びロッテにガブリとやられた。



 ◆◆◆◆◆◆



 そうして数日後、アネットはカークスと仲良く談笑していた。

 それはそれは見目の良い二人が優雅に公園を歩く姿は様になっており、通りかかる者達が見惚れてしまう程である。もっとも、見惚れる者の中からチラホラと「カークスがついにホルトレイス家を……」という不穏な声も聞こえてくるのだが。


「アネット嬢、先日はお恥ずかしいところをお見せして申しわけありません」

「あら気になさらないで」

「あまりにも失礼な者がいたので指導してやろうと思ったのですが、どうにも熱が入りすぎてしまったようです」


 やりすぎでしたね、と笑うカークスにアネットもまた微笑んで返す。

 ……といっても微笑んでいるのは表面だけ。アネットの胸の内は怒りに満ちあふれ、ホルトレイス家の屋敷程に巨大化したロッテをけしかける妄想までしていた。「行きなさい、ロッテ!」とアネットが命じれば、巨大猫ロッテが「ンニャーン!」と炎を吹いてアズドア家を踏み潰し、カークスをパクリと飲み込んでしまうのだ。「やったわロッテ!大勝利よ!」と、心の中で飛び上がって鬱憤を晴らす。

 子供のような妄想と言うなかれ、優雅な微笑みを維持するのに必要なのだ。


 そうして――表面上は――穏やかに歩き、時にテラスでお茶を楽しみ、まさに清らかな男女のデートを装おう。

 その間も巨大猫ロッテは何度も炎を吹いてアズドア家を踏み潰し、時には屋敷の横にゴロンと転がって見事なキックを披露し……と脳内で憂さ晴らしをしていたのだが、アネットの表情には欠片も反映されなかった。

 今の彼女は優雅で淑やかで、先日の非礼を詫びる淑女なのだ。


「しかし、まさか貴女が応じてくれるなんて思いもしませんでした」

「まぁ、貴方のお誘いを断れる令嬢なんておりませんわ」


 コロコロとアネットが笑えば、カークスが誉め言葉と取ったのか苦笑を漏らして「そんなことは」とまったく心のない謙遜を口にした。

 もっとも、アネットとしては誉め言葉などではなく「どんな家の貴族でも、あんたに脅されれば泣く泣く娘を差し出すのよ!」という嫌みだったのだが、どうやら伝わらなかったようである。

 そんな不発ぶりに心の中で舌打ちをした瞬間、カークスがグイと腕を取ってきた。エスコートする紳士的な動作ではなく共に歩くための優しさでもない、痛みすら感じかねないその強引さに流石のアネットも小さく躊躇いの声を漏らした。


「カークス様、なにをっ……!」


 そうアネットが抗議の声をあげ、はじめて周囲に人気が無いこと、そして背後に大木があることに気付いた。

 しまった、と己の迂闊さを悔やむも遅い。目の前には体躯の良いカークス、彼に腕を取られて退路も無く、まさにピンチと言えるこの状況にアネットの背に冷たいものが伝う。


「あの、カークス様……」

「気位の高い貴女もいいが、そうやって怯えている様もまたそそられる」


 ニヤリとカークスが笑い瞳を細めて近付いてくれば、アネットの脳内で緊急警報が鳴り響き退路を探せと訴えだす。

 だが腕を取られている状況では逃げ道など無いに等しく、助けを呼ぼうにも不自然に人気がないところを見るに人払いをされた可能性も考えられる。退路も助けも望みは薄い。

 それでもとアネットが片腕でカークスの体を押した。だが男らしく厚い胸板はビクともせず、細腕ではろくな抵抗にもならない。

 そんな無力さを感じてアネットが顔色を青ざめさせれば、対してカークスが勝利を確信して笑みを強める。そうしてゆっくりと彼の顔が近付いてくれば、嫌悪と恐怖でアネットの頭の中は真っ白になり、せめてと顔を背けるも顎に手を添えられて強引に向き直させられてしまう。

 吐息がかかる距離。あと僅かで唇が触れる……。


「ヴィクトールなんてやめて、俺にしろ」

「いやっ……」


「俺のアネットに触るな」


 突如割って入ってきた冷ややかな声。それと同時にカークスの体がビクリと固まる。

 彼の首筋に見えるのは銀色の刃。あと少しでも動けば首筋を切らんと添えられる刃の先を視線で辿れば、カークスの背後に見慣れた藍色の騎士の姿があった。


「……ヴィクトール」


 ポツリとアネットがその名を呼ぶ。

 だが彼の瞳はカークスを睨みつけたままだ。今まで見たことのないほど鋭いその瞳に、アネットがフルリと体を震わせた。怒りと憎悪を感じさせ、それでいて凍てつくほどに冷ややかにカークスを捉える。彼のこんな表情を今まで一度たりとも見たことがない。

 その空気にカークスも当てられたか、慌てて振り返ると表情を強張らせた。


「デ、デルギッド家の嫡男が、この俺に無礼を働いて」

「関係ない」

「……は?」

「デルギッド家も何も関係ない。アネットに触れてみろ、後悔じゃ済まなくなるぞ」


 冷ややかな空気を纏い、抑揚も迷いもなくヴィクトールが告げる。

 その言葉に嘘偽りはなく、脅しですらないことを察してかカークスが気圧されるように身じろいだ。それでも彼の首筋に添えられた剣の刃は動かず、逃げるようにカークスが後ずさった。

 そうして「デルギッド家ごときが」と捨て台詞を吐いて去っていく、その背中のなんと情けないことか。

 だが今のアネットにはそれを嘲笑う余裕も、ましてや追いかけて一発ひっぱたいてやる余裕もない。掴まれた腕が震えて、それを押さえるのに精一杯なのだ。いや、震えているのは腕だけではない。

 逃げるカークスを睨みつけて見送ったヴィクトールがそれに気付き、小さく溜息をついてアネットの顔を覗き込んだ。


「おいアネット、大丈夫だったか」


 そう声をかけてくるヴィクトールは既に普段通りで、それどころか呆れたと言わんばかりである。

 先程までの凍てつくように冷ややかで、それでいて焦がしつくしそうなほどの憎悪を感じさせる気迫はない。


「まったく、お前の危なっかしさは昔からで治しようが無いのは分かるが、だからって何か企んでる男にホイホイとついて行く奴があるが」

「…………そうね」

「あのまま俺が間に合わなかったどうなってたか。既成事実なんて作られてみろ、硝煙の王子どころか……ん、なんだ随分と素直に認めたな」

「……ねぇ、ヴィクトール」

「ん?」

「……ごめんなさい」


 しゅんと項垂れて謝罪の言葉を口にするアネットに、言われたヴィクトールが先程の眼光もどこへやら目を丸くさせた。


「ア、アネットどうした……」

「何かあったらカークスの横っ腹に一撃喰らわせて逃げようと思ってたの。でもいざとなったら怖くて動けなくって……」


 掴まれた腕をさすりながらアネットが呟くように語る。

 白い肌がほんの少し赤くなっており、それほど強く掴まれたのだと思う反面、きっとカークスからしてみれば力など入れていないに等しかったのだろうとも思う。

 根本的な力の差。押しのけようとしたがビクともせず、腹に一撃どころか身じろぐことも出来なかったのだ。抗うことすら許さぬその差をハッキリと見せつけられ、嫌悪や怒りよりも恐怖が勝って悲鳴もあげられなかった。


「来てくれてありがとう、ヴィクトール」


 アネットが素直に感謝を告げれば、ヴィクトールが調子が狂うと言いたげに頭を掻いた。


「……まぁ、反省してるみたいだし。間に合って良かったよ」


 小さく溜息をつきつつヴィクトールがそっと手を伸ばし、アネットの腕を掴んだ。

 強引なカークスとは違う、まるで宝物を扱うかのような丁寧さ。もちろん痛みなどなく、むしろ赤くなった部分をさすられれば擽ったさが伝う。

 痛めていないかと診てくれているのだろう、最後に「念のために帰ったら冷やしておけよ」と忠告し、ヴィクトールが手を離した。

 腕に残っていたカークスの締め付けるような握力の名残が消え、ヴィクトールの擽るような指の動きに上書きされる。それを撫でて確認し、アネットがパッと顔をあげた。

 もう大丈夫。そう自分に言い聞かせて歩き出せば、立ち直ったことを察してかヴィクトールも苦笑を浮かべて隣に並ぶ。


「ヴィクトール、お礼に何かご馳走してあげるわ」

「そうか。だが礼ならロッテにも言っておけよ」

「ロッテに?」

「俺が部屋で本を読んでたらロッテが飛び込んできてな、あまりに騒ぐもんだから何かあったに違いないとホルトレイス家に行ったんだ。そうしたらお前がカークスと出かけたって言うじゃないか、何か嫌な予感がして慌ててここまで来たんだ」

「そうだったのね。とびっきりのクッキーを買って帰らなくちゃ」

「それなら良い店がある。行きつけの店だ」


 美味しいクッキーに歓喜するロッテを思い描いたか、「さぁ行くぞ」と足早に歩き出すヴィクトールに、アネットが先程の感謝もどこへやら

「あんたへのお礼もクッキーで良さそうね」

 と呟いた。




 ヴィクトールと接していれば恐怖も薄れ、代わりにカークスへの怒りが募っていく。ホルトレイス家の屋敷に戻る頃にはその怒りは優に頂点を越えていた。

 だというのに玄関に居合わせたアンナが「あら、カークスは?」と尋ねてくるのだ。彼女は何も知らず悪気がないと分かっていても今はその名前すら忌々しく、耳に届いただけで怒りが上乗せされる。


「知らない!」


 と怒りを隠しきれずに返せば、アンナが目を丸くさせた。

 彼女の腕の中では花飾りをつけられたロッテがぐんなりとしているが、憎き男の名を耳にしたアネットにロッテを助けてやる余裕はなく、鼻息荒くアンナに詰め寄った。


「次カークスが来ても絶対に追い返してちょうだい!」

「あら、いいの?」

「いいのよ! なんだったら水をぶっかけてやっても問題ないわ!」


 手加減無用とアネットが喚けば、さすがのアンナも気圧されてコクコクと頷く。

 よっぽどの事があったのは一目瞭然。ロッテも察したのか花飾りをあしらわれた尻尾を揺らしながら「ニャーン」とアネットに話しかけた。そこでようやく愛猫の悲惨な姿に気付き、アネットが慌ててロッテを受け取る。

 スンスンと鼻を擦り寄せてくるのはロッテなりの心配の仕方である。


「ロッテ、あなたがヴィクトールを呼んできてくれたのね」

「そういえばヴィクトールが屋敷に来たって侍女が言ってたわね。あら、もしかして三角関係?」


 恋愛のごたごたを嗅ぎ付けたとアンナが口元を緩ませる。

 その楽しげな表情はまるで玩具を与えられた子供のようでいて、ゴシップ好きの婦人らしくもある。だがアネットは今更そんな母親の野次馬精神に文句を言う気にもならず、それどころか彼女が発した『三角関係』という言葉に「冗談じゃない!」と声を荒らげた。


「三角関係になんてなるわけないじゃない!」

「そうなの?」

「そうよ! ヴィクトールとの政略結婚も嫌だけど、カークスとの結婚は有り得ないレベルよ!」


 そう怒りを込めて宣言し、ロッテを抱き抱えて自室へと向かう。

 アネットの脇からロッテが顔を覗かせ「ンナー」とアンナに鳴きかけるのは、もちろん「あとは任せて」ということである。貴族の猫たるもの、令嬢を宥めるのも仕事のうちなのだ。

 そんな一人と一匹を見送り、アンナが肩を竦めて「三角にはなり得ないわね」と苦笑を漏らした。


 そうしてフゥと深く息を吐き、夫の元へと向かうべく踵を返す。

 先程までの楽しげな表情がゆっくりと落ち着きを取り戻し、それどころか冷ややかなものへと変われば自然と歩く速度も速まっていく。


「最初のデートだから手出しはしないと思ってたけど甘かったようね。まぁ、アネットが泣いて帰って来なかっただけ温情の余地はあるかしら」


 そう心にもない――彼女の発する『温情』が欠片もないことなど、口調に反してまったく笑みの色を見せない瞳を見れば誰だってわかる――ことを呟きアンナが廊下を進む。

 運の悪い侍女が一人そこに通りかかり、彼女の纏う空気を感じ取るやフルリと体を震わせて逃げるように足を早めた。



 ◆◆◆◆◆◆



 そんなことがあって数週間後、アネットは不貞腐れながらとある屋敷の一室でソファーに腰掛けていた。

 これでもかと豪華さをアピールする造りに、あちこちに置かれた飾り。窓枠には四方を囲むよう細工が施され、金の刺繍があしらわれたカーテンが風を受けてはためく。座るソファーも質が良く、置かれたクッションは珍しい布でも使っているのかキラキラと光っている。

 一級品で埋め尽くされたその部屋。一つ一つが高価で洗練されたものだと分かる、だがどうにも品がない。

 見境無く金をかけそして金をかけたことをアピールするこの屋敷は、権威と歴史あるホルトレイス家の令嬢であるアネットにとっては鼻で笑いたくなる代物なのだ。たとえ金をつぎ込んで家屋を絢爛豪華に取り繕っても、品格と威厳までは宿らない。


「悪趣味ね」


 とは勿論この屋敷に向けての言葉でもあるのだが、なによりアネットの横でツンとすました顔をする猫に向けての言葉である。

 真っ白の毛には宝石のついた首輪が飾られ、手入れのされた尻尾には上質のスカーフが巻き付きお尻を隠している。


「なによそれ、気取っちゃって」


 アネットがヒョイと手を伸ばして尻尾のスカーフをめくってやれば、随分と冷たい視線が返ってきた。「野蛮人め」とでも言いたげなその瞳に、アネットが猫語で返せない代わりに尻尾を揉む。


「猫っていうのはお尻が見えているのが可愛いのよ」


 まったく分かってないわね、と溜息をつけば尻尾がブンと揺れて手元から逃げていった。

 そうしてサッサと歩きだしてしまうのだからまったく可愛げがない。外国から取り寄せた希少な猫で由緒ある血筋だと案内してくれた侍女が教えてくれたが、それにしたってあの態度はない。ホルトレイス家であの態度なら食いっぱぐれること間違いなしだ。

 そうフカフカの背中を睨みつければ、それと入れ替わるようにカークスが部屋に入ってきた。さすがあの猫の主人である、煌びやかな服装でその華美さを恥じることもなく堂々としている。


「ごきげんよう、アネット嬢」

「ごきげんようカークス様、お招きいただきありがとうございます」


 アネットが立ち上がり、スカートの裾を摘んで軽く腰を落とす。

 それをみたカークスが柔らかく微笑み会釈で返してきた。爽やかで見目がよく、それでいてどこか作り物めいたその微笑み。もっとも、笑顔が作り物なのはアネットも同じ事である。



 カークスからパーティーの誘いが来たのがつい先日。

 最初こそ「あんなことしでかして、どの面下げて!」と招待状を破こうとしたアネットだが、中身を読んでふむと小さく呟いた。パーティーといえど友人達と集まるだけと書かれた文面、更に「楽しい余興もご用意しておりますので」と念を押すような誘いに引っかかりを覚えたのだ。

 そのうえ時を同じくしてヴィクトールからアズドア家が違法の薬物を売買していると情報が入ってきた。それを貴族の子息令嬢に提供し、良いように利用している可能性が高いらしい。

 なるほど、これで社交界を駆け上がったのかと納得してしまう。薬物に手を出すような子息令嬢が中毒性に抗えるわけがなく、湯水のように金をアズドア家に落としたのだろう。親はそんなことが世間に公表されたら堪らないと更にアズドア家に金を渡し、その傘下につく……と。

 それらを考えればアネットの胸の内に嫌悪が沸き上がりやはり招待状を破きたくなるが、そこはグッと堪えて返事をしたためる。この『友人達のパーティー』こそ、悪循環の入り口なのかもしれないのだ。

 もちろん、このパーティーに硝煙の王子が来るかもしれないと考えてのこと。ヴィクトールにも話をし、いざとなれば彼が助けに来てくれるよう手はずも整えている。


「もしアズドア家が潰れれば、あの生意気な子も野良になるのね。可愛く鳴いてすり寄ってくれば餌をあげないこともないわ……」


 そうブツブツと呟くアネットに、隣を歩くカークスが不思議そうに首を傾げる。

 だがそのまま歩き続け、たどり着いたのは離れ。といってもさすがカークス家といえる造りで、とうてい『離れ』等という表現ですまされる建物ではない。これが離れだと言うのなら、社交界の半分近くの貴族が離れを本邸にしていることになる。


「……ここは?」

「俺の部屋みたいなものです。気心の知れる者しか立ち寄らせないから自由に過ごせる。貴女もここでは羽を伸ばして下さい」


 微笑んで説明するカークスに、苦笑を浮かべるアネットが促されるまま一歩足を踏み入れた。

 羽を伸ばす事と羽目を外す事の違いも分からないのね……と、そう心の中で呟くがもちろん口には出さないでおく。

 そうして離れを案内されるままに進み、漂う香りに眉をしかめた。


 甘く、鼻にまとわりつく不思議な匂い。


 人工的なその匂いにアネットが周囲を窺えば、カークスがそっと肩に手を置いてきた。

 優しげで紳士的な触り方、それでいて逃がすまいとしているようにも思える。


「みんな貴女が来ると知って喜んでいましたよ」

「そうなの、私も楽しみだわ……」


 そうニッコリと微笑んでアネットが目の前の扉に視線を向ける。

 ――脳内では巨大猫ロッテがブンブンと尻尾を振り回してこの甘ったるい匂いを掻き消し、代わりにマタタビの香水を振りまいているのだが、もちろんこれも顔には出さない――

 どうやらこの部屋がパーティー会場のようで、思わずアネットがゴクリと生唾を飲んだ。僅かに開かれれば隙間から煙が流れ込み、甘い匂いがいっそう強まる。


「みんな、ホルトレイス家のアネット嬢だ」


 カークスがアネットを紹介しながら部屋に入っていく。

「おぉ」だの「ようこそ」だのと言った歓迎の言葉が聞こえてくる。その声にアネットが「もしかして普通のパーティーなのかも」と扉から中を覗き込み……。


 その光景に目を丸くさせた。


 数人の男女がだらしなくソファーやイスにもたれ掛かっている。いや、それだけならばまだ気心の知れる仲間に見せるだらしなさで理解できるのだが、その顔は誰もがアネットを歓迎するようにこちらを向き、それでいて誰一人としてアネットを見ていない。

 焦点が合っていないのだ。視点がフラフラと定まっていない者もいる。

 服装こそ質が良く煌びやかでそれなりの身分だと分かるが、しまりなく空を見るその表情はとうてい地位のある者とは思えない。酔いとも違う、見ているこちらの不安を駆り立てる虚ろさ。

 その言いようのない光景にアネットの背にゾクリと冷たいものが伝った。思わず後ずされば、まるでそれを制止するようにカークスが扉を閉める。ガチャン……と部屋に響く音が「逃がさない」と訴えているように思えてならない。思わずスカーフを取り出し、キュっと強く握った。


「みんな気のいい奴らですから、貴女もすぐに打ち解けられますよ」


 そう笑うカークスの笑みの薄ら寒さといったらない。形の良い唇は緩やかな弧を描いているが瞳が笑っていないのだ。


「なんだか不思議な香りがして……少し外の空気を吸ってきてもいいかしら」


 取り出したスカーフで口元を覆い、わざとらしくケホンと咳込んでみせる。だが返ってきたのは「この香りも直ぐに気に入りますよ」というアネットの心境をまったく考えていないものだった。

 ……いや、もしかしたらアネットの言いたいことを察した上での発言なのかもしれない。


「さ、こちらに座ってください。紅茶を用意いたしました」


 そう微笑みながら、それでも肩を掴んでカークスが促してくる。

 肩に乗るズシリとした重みが男の手だと訴えているようで、アネットが促されるまま椅子に腰を下ろした。小さめのテーブルを挟んで向かいにカークスが座る。

 間に置かれている対のティーカップの中で琥珀色の液体が揺れるが、中身が同じものかどうか怪しいところだ。交換しましょうなんて言ったらどうなるかしら、と、そんなことを心の中で呟きつつティーカップに手を伸ばす。

 カークスは頭の回る男だと聞く。他でもなくホルトレイス家の娘を相手に一気に詰めるような真似はしないだろう。とりわけ、先日邪魔が入ったのだから次は慎重に動くはず……。


『万が一に中毒になったら、俺が責任もって毎日遊んで暮らせる最高の軟禁生活で治療してやる』


 そう皮肉混じりに告げてくるヴィクトールの言葉を思い出し、アネットが無防備を装ってティーカップに口をつけた。

 ……紅茶だ。ほんのりとオレンジの香りが漂い、甘さが口に広がる。普通の紅茶。

 てっきりクスリの味や舌が痺れるような違和感がするものだと身構えていたアネットが、その香りよい味わいに拍子抜けしたとカップの中を覗きこんだ。――幸い、アネットが飲んだ紅茶には本当に何も混入されてなかった。アネットはクスリの味も何も分からないので、仮に入れられていても紅茶の味を壊す程ものでなければ気付けなかっただろう――


「それで、今日はどういうパーティーなのかしら」


 アネットがスカーフで口を拭いながら尋ねれば、カークスがそっと手を伸ばしてきた。テーブルの上をゆっくりと彼の手が伝い、ティーカップに添えていたアネットの細い手をキュっと握る。

 その瞬間ゾワと寒気が伝い、脳内で巨大猫ロッテが尻尾を膨らませる。ブワっと嵩を増した尻尾を建物の上で揺らすのは、アネットが出てきたらすぐさまビタンとお見舞いしてやるからだ。

 だが表面ではそんな嫌悪を露わに出来るわけがなく、振り解きたい気持ちをグッと堪えて「あら」とわざとらしく小さく声をあげた。

 ちなみに、この「あら」は「あらまぁ大胆ね」という意味である。けして「あらまぁお死になさい」という意味ではない。アネットとしては今すぐに後者の意味で言ってやりたいぐらいだが。


「アネット嬢、今の生活にひとつまみのスパイスはいかがですか?」

「スパイス……どういうことかしら?」

「ほんの少し、刺激を加えるだけですよ」


 カークスが握った手を優しく撫でてくる。『刺激』その言葉はきっと違法の薬物を示しているのだろう。果たしてそれは薬物を使う側か、もしくは売買する側への特別招待か、どちらにせよ不穏なお誘いにアネットが僅かに眉を揺らした。


 貴族の家に生まれマナーや勉強を強いられ、それでいて必死に働く必要や生活の基盤を失うような危機は訪れない。ぬるま湯で退屈しかない子息や令嬢の人生。そこにほんの少しの背徳的なスパイス……となれば、なるほどこの甘言に惑わされて手を出した者は多いかも知れない。

 そう考えつつ、アネットがカークスから逃れるように僅かに手を引いた。「とっとと離しなさいよ、このスケベ!」という罵倒を押し隠して、「なんだか怖い……」と控えめに呟く。

 そうして、スゥ……と息を深く吸い込み、スカーフで口元を覆ったまま無音の合図をかき鳴らした。


 その直後、何かが弾けたような音が遠くに響き、陰鬱とした空気と甘い匂いで満ちていた部屋の扉が叩かれる。ずいぶんと荒々しいノック音だが、それほど急用ということなのだろう。

 カークスが訝しげに近付き、アネットがそれを追うように視線を向ける。

 そうしてカークスが扉を開ければ、緊迫した様子の侍女が怖々と身を縮ませながら立っていた。


「あの、坊ちゃま……お楽しみのところ申し訳ございません」

「俺が呼ぶまで来るなと言っていただろ」

「あ、あの、ですが本邸の方に……」


 威圧的な主人の態度に哀れ侍女は体を震わせ、それでもとカークスに耳打ちをしだした。言い難いことなのだろう彼女の声は小さく、殆どがカークスの耳に吸い込まれていく。だがたった一言『硝煙の王子』という単語だけはしっかりとアネットの耳に届いた。

 それを聞いた瞬間「やっぱり来たわね!」と跳ねるように立ち上がる。

 だが次いで響く「銃を用意しろ!」という荒々しい声に今度はビクリと体を震わせた。見ればカークスが見目の良い顔を酷く歪ませている。男らしくいかにも高貴といった美形の面影はなく、瞳が燃えるようにギラついている。

 殺気にも似たそのオーラに侍女が小さく息を呑む。だがそんな侍女の怯えさえも燃料でしかないのか、カークスは獰猛な瞳のまま「早くしろ! 逃がしたらお前のせいだぞ!」と怒鳴るや走りだした。

 涙目の侍女が「直ぐにお持ちいたします!」と悲鳴じみた声をあげて走り出す。


 銃を取りに。

 その銃で撃たれるのは……硝煙の王子。


「私の獲物よ!」


 我に返ったアネットが遅れてなるものかと走り出した。




 アズドア家の本邸はまさに混乱状態であった。

 成り上がりの家だけあり侍女や使いがこの緊急事態に対応出来ていないのだ。

『いくら大金を積んで敏腕の侍女を雇っても、その家で臨機応変に動けるとは限りません。猫は家に着くと言いますが、私達は家主の人柄に着くんですよ』

 とは、幼い頃に侍女長に教えられた言葉だ。彼女は老いてその職から離れてしまったが、未だにホルトレイス家で大規模なパーティーや催しがあると顔を出して若い侍女達に上質の持て成しを伝授してくれる。ホルトレイス家を愛してくれたからこそ、職を全うしてもなお尽くしてくれるのだ。

 成り上がりの横暴なアズドア家では理解できないことだろう。


 現にアズドア家の殆どの者が右往左往し、数人の侍女が青ざめた表情のまま一室へと逃げ込む。まさに阿鼻叫喚絵図である。

 通りかかった厨房ではこの混乱の中それでも「仕事中です」と言いたげに一人のシェフが料理を続けており、離職表を片手に暢気に歩いてきた従者が「次の仕事場どうしようか」とデザートをつまみ食いしながら話しかけている。

 ……この二人に関しては臨機応変とか緊急事態とか人望とかいう話ではない気もするが。


「とりあえず、さっきのシェフと離職表男はうちで雇おう。あの神経の太さはホルトレイス家向きだわ」


 そんなチェックを入れつつ、カークスが走っていったであろう後を追う。

 だがふいにその足を止めたのは、道の先から何かが爆ぜたような音がしたからだ。

 銃声……。

 はたしてどちらがどちらを撃ったのか。

 思わずアネットがゴクリと生唾を飲み込み、

「カークスなんかに捕まったらタダじゃおかないんだから!」

 と再び駆けだした。




 そうして音のした方へと向かえば、辿り着いたのはアズドア家の中庭。

 ここもまた金をかけたのだろう、よく分からないオブジェがあちこちに飾られている。噴水の縁に置かれている壮年男性の石像はアズドア家当主の石像だろうか。いかにも成り上がりといった趣味である。

 人払いをしたのかそれとも騎士達を呼ぶために出払ったのか、もしくは人望の無さから誰もが我関せずを貫いているのか……そのどれが正解かは分からないが周囲に人の気配はなくシンと静まりかえっている。

 そんな静寂の中を足音に気をつけつつ一歩一歩進み、硝煙の王子とカークスの姿を探す。そうしてどれだけ進んだか、前方から声が聞こえ、アネットが用心深くオブジェや木に身を隠しつつそれでも足を早めた。


 ……男がいる。それも数人、何かと対峙するように並んでいる。

 その中央に立っているのはカークスだろう。こちらに背を向けているため顔は分からないが、あの煌びやかな服装は間違いない。彼を挟むように立っているのは所謂取り巻きという奴か。あいにくとアネットが『即刻忘れても差し支えない顔リスト』に乗せてしまったため覚えていないが、カークスと初めて顔を合わせた日に彼にくっついていた男達かもしれない。

 まるで市街地の再現のような光景に、アネットが不快を露わに舌打ちをした。この緊急時でも彼は取り巻きを従えて王様気分なのだ。

 そんな王様と対峙するのは……。


「硝煙の王子」


 ポツリとアネットがその名を口にする。

 黒いコートを羽織り、風に揺らす黒い髪は日の光のもとだと僅かに青みがかって見える。そして顔の半分を覆う銀の仮面。間違えようがない、あれは硝煙の王子だ。

 カークスに撃たれたのかダラリと下げた左腕からは真っ赤な血が伝い、力なく地に腰をおろしているあたり足も痛めているのかもしれない。右腕で守るように仮面を押さえているあたり、負傷した腕を庇うより正体不明を貫きたいのだろう。


「あいつ、なに私以外に捕まってるのよ」


 思わずアネットが悪態をつく。

 散々騎士や記者の手から逃げ回っていたというのに、よりにもよってカークス・アズドアに捕まりそうなのだ。

 だがそんな文句を言っている場合でもない。カークスがしゃがみ込む王子を見下ろしたまま銃を持つ腕を上げ、次の瞬間ガッと忌々しい音を響かせた。その音はアネットの元にまで届き、自分の負傷ではないと分かっていても自然と眉間に皺が寄ってしまう。

 だが次いで細めた瞳を見開かせたのは、カランと高い音がしたからだ。まるで何か堅いものが転がり落ちたような、例えば銃で殴られた衝撃で着けていた仮面が落ちて転がったような音。

 それを聞いた瞬間、アネットが弾かれるように右足の靴を脱ぎ……。


「私の獲物に手を出すんじゃないわよ!」


 と、怒鳴り込むと同時にパッコーン!と威勢のいい音をたてた。

 ……ピンクのハイヒールでカークスの後頭部をひっぱたいたのだ。


 シンと静まっていた中庭がよりいっそうの重苦しさを纏う。

 だが次の瞬間ドザァと音がしたのは、アネットの一撃を受けてカークスが倒れたからである。ピクピクと痙攣こそしているが起きあがってこないあたり打ち所が悪かったのかもしれない。


「カークス様!?」


 取り巻きの片方が慌てて彼の名を呼ぶ。先程までカークスに並んで硝煙の王子を見下していたというのに、途端にあたふたとしだすのだからまったく情けない。

 アズドア家のシェフや離職表男の方がまだ潔い。……あれは潔すぎな気もするが。


「この、何しやがる!」

「チープな台詞ね、いかにも雑魚って感じだわ」


 あぁ嫌だ、とアネットがスカーフで靴を拭き、上品に優雅に、まるで何事も無かったかのように履き直した。どうやらヒールは折れていないようで、思わず安堵してしまう。

 次いでチラと取り巻き二人を見れば、アネットのこの態度に臆したのか一応身構えはしているものの視線は退路を探すように泳ぎ始めている。


「あんた達が何をもってカークスについて回っているか知らないけど」

「……はぁ?」


 おもむろに話し出すアネットに男二人が警戒しつつ眉間に皺を寄せる。

 その品のない相槌にアネットは何を返すでもなく、出来うる限り冷ややかに、最上の雲から地を這う虫を見下すように視線を向けた。


「もしもアズドア家の名に恐れて従っていたというのなら、見逃してあげるからさっさと立ち去りなさい」

「な、なにを言ってるんだお前……」

「『お前』なんて呼ばないでちょうだい。アネット・ホルトレイスよ」

「ホルトレイス……」


「よく聞きなさい! 今この瞬間をもって、ホルトレイス家はアズドア家を敵と見なすわ!」


 そう高らかに言い切るアネットの言葉に、取り巻き二人が顔を見合わせた。

 彼らの中でアズドア家とホルトレイス家が天秤に掛けられたのだろう。

 次いでそそくさと立ち去っていくあたり、どうやら天秤はホルトレイス家に傾いたようだ。もっとも、いくら社交界を駆け上ったアズドア家といえど、社交界の頂点に君臨するホルトレイス家に勝てるわけがない。ましてや、アズドア家は今まさにこの様なのだからなおのこと。

 そのうえ取り巻き二人は気絶したままのカークスを置いて逃げてしまったのだから、上辺だけの付き合いだったことは容易にわかる。


 そんな二人の情けない背中が見えなくなるのを見届け、アネットがフゥと一息つき……先程の風格もどこへやら「硝煙の王子!」と声をあげて彼に駆け寄った。

 が、目の前に突きつけられた銃口にピタと動きを止める。真っ黒な穴、仕組みは知らないが引き金を引けばここから銃弾が放たれるのは分かる。それを鼻先に突きつけられているのだ、もちろん引き金には硝煙の王子の指が掛けられている。

 血で染まった左腕で銃を突きつけ、右手は顔を隠すように覆う。どうやら顔を見せてもくれないらしい。


「助けてもらったお礼が銃弾なんて、社交界じゃ通じないわよ」

「悪いな、捕まるわけにはいかないんだ。後ろを向いて、両手あげろ」

「はいはい」


 小さく溜息をつきつつ、言われるままに背を向ける。

 無抵抗を示すように両手を頭の高さに上げれば「ゆっくりと十数えろ」と彼の声が聞こえてきた。


「一つ、ねぇ、アズドア家が違法の薬物を売買してるって証拠は奪えたの?」

「二つ、いいや失敗した」

「三つ、あら残念ね。ねぇどんな気持ち? 今どんな気持ち!?」

「四つ、煽るな」

「五つ、またアズドア家に忍び込むの?」

「六つ、当然だ。一度狙った獲物は諦めない主義なんでな、警備が落ち着いた頃にまたお邪魔する予定だ」

「七つ、そう。でも無駄な予定になるわよ」

「……どういう意味だ?」

「九つ……数えなさいよ!」


 タイミングを崩されたとアネットが訴える。

 そうしてわざとらしく「さ、次は十よ」と告げれば、背後からフンと不満げに鼻を鳴らすのが聞こえてきた。

 次いで上げていた手に何かが触れる。柔らかく、しなやかな……これは指だろうか。それがそっとアネットの手に触れ、指を絡めて手を開かせると何かを手のひらに落としてきた。

 離れ際に一度手を包んでくるのは「持っていろ」ということなのだろうか。その動きは優しく擽ったく暖かい、包み込まれるほどに大きな男の手だ。


「……なに?」


 手の中に異物を感じつつ、アネットが小さく声をあげた。

 だが返ってくる答えはなく、もちろんカウントも聞こえてこない。もっとも、話しながら数えていたのでとうに十秒は経っているのだが。


「ねぇ、振り返るわよ? もういいの?」


 ねぇ!ねぇってば!とアネットが声をかける。

 だがそれにすらも返事はなく、しびれを切らして振り返れば無人の中庭が広がっていた。硝煙の王子の姿も、逃げた形跡も、空に気球もましてや彼が落とした仮面もない。

 残されたのはいまだ気絶しているカークスと、そしてアネットの手の中に落とされた一つのペンダント。


「あら、可愛い」


 ゆっくりと摘み上げれば、金のネックレスの中央で赤い石が揺れる。

 花の彫り込みが施されたシンプルでいて洒落たデザイン、見惚れてしまいそうなほど深く美しい赤色。そっと首元に飾れば真っ赤な髪と白い肌によく映える。……うん、悪くない。

 硝煙の王子は逃がしたけど、これは良い収穫ね! とペンダントの美しさにご機嫌になり、アネットはいまだ倒れたままのカークスの背中をムギュムギュと二度三度踏みつけてアズドア家の本邸へと戻っていった。



 ◆◆◆◆◆◆



 ヴィクトール・デルギッドが怪我をしたという悲報が流れたのは、そんな事件があった日の翌日。聞けば乗馬中に馬が暴れだし制御がとれなくなって落馬したという。その際に負傷し、数日は病室での安静を余儀なくされたという。

 社交界の王子であるヴィクトールのこの悲報に令嬢達は嘆き、翌日には彼の病室に見舞いの花が溢れ、数日たったいまでは室内に入りきらず廊下にまで飾られているという。

 そんな病室をアネットは訪れていた。()せ返るような花の匂いは想像以上のもので、昼食をコッテリタップリとってしまったことが悔やまれる。


「あぁ、愛しのびくとぉる様」


 とは、そんな匂いに負けず部屋に響くアネットの言葉。

 一枚の紙を掲げ、役者が聞けば頭を抱えてしまいそうなほどの棒読み具合で文面を読み上げていく。

 そんなアネットの目の前にはベッドに横たわるヴィクトールの姿。その表情が呆れたと言わんばかりなのは言うまでもない。


「あなたが怪我をしたと聞き、私の世界は色を失ってしまいました。愛しのびくとぉる様、あなたが痛みに呻いていると思うと、私の小さな胸は……誰が小さな胸よ!」

「アネット、それは実際の大きさを言ってるわけじゃないからな」


 ヴィクトールがフォローを入れれば、アネットが「あら失礼」と取り繕う。

 そうしてコホンと咳払いをして、再び文面を読みあげ始めた。


「あなたが痛みに呻いていると思うと、私の大きく放漫で形の良い胸が張り裂けそうです」

「誇張するな」

「大きい方が張り裂けそうな感じがするじゃない。えぇっと、それで……愛しのびくとぉる様、どうか早く良くなって、太陽のような笑顔で私の名前を呼んでくださいね。あなたのアネットより。以上、代筆アンナ・ホルトレイス」

「アネット、そこは読むところじゃない」

「注意事項、一つ、以上の文面をヴィクトールと二人きりの時に読み上げること」

「どんどん読み進めるな……」

「二つ、時折は切なげに瞳を伏せ、言葉を詰まらせること。こういうことは最後に書かないでほしいわよね、読みあげちゃったじゃない」

「あぁそうだな、さすがのアンナ婦人もそこはうっかりしてたんだろうな」

「三つ、しおらしさを忘れずに、儚げに吐息を漏らせれば尚よし。以上、万が一にここまでの文面を声に出して読みあげた場合、三日間の夕飯抜きに……黙ってて! ヴィクトール、黙っててぇ!」

「こんなこと、いったい誰に話せっていうんだ……」


 呆れたと言いたげに溜息をつきつつ、ヴィクトールが手元の花に視線を落とす。

 アネットが手紙を読みだす前に「はいこれ、私が選んだってことになってるから」と分かりやすく渡してきたのだ。

 花で溢れんばかり――というか溢れた――この病室において、片手に収まるこじんまりとした花束は一見埋もれてしまいそうなものだが、実際に手渡されてみればその小ささから手元で愛でることができる。枕元に飾っても邪魔ではなく、絢爛豪華な花ばかりの中で逆に目立ってついつい眺めてしまう。控えめな愛らしさがいじらしくも思える。


 さすがホルトレイス家の婦人であり社交界の主が選んだだけのことはある。病室に花が溢れていることすらも彼女は利用してしまうのだ。

 ……いや、一応建前上はアネットが選んだことになってはいるのだが。


 そんなことをヴィクトールが考えつつ花を眺めていると、ポスンと布団の上に紙が置かれた。


「なんだ?」

「号外、さっき配ってたから貰ってきたの」


 読むでしょ? と見舞いのタルトに手を伸ばしつつ話すアネットに、ヴィクトールが礼を言ってそれを広げ……目を丸くさせた。

 書かれているのはアズドア家の薬物売買とそれを取り締まったという、まさに号外を出すに値するビッグニュース。哀れアズドア家は悪事をすべて白日の下に晒され、再起不能どころか関与した者達は牢屋行きが確定したという。

 それらを書き記した記事に目を通し、ヴィクトールが驚愕だと言いたげに目を丸くさせた。号外の最後には目立つ文字で『またも硝煙の王子のお手柄か!?』と書かれているのだ。


「なんで……」

「なんでって、また硝煙の王子があらわれたんじゃない?」


 見舞い品のタルトを堪能しつつアネットが返せば、ヴィクトールが歯切れ悪く「そうか……」と呟いた。

 普段の彼らしくないその口調に、アネットが小さく笑みをこぼす。


「そういえば、あの時ヴィクトールは居なかったから聞いてなかったのよね」

「なにをだ?」

「私、カークスの手下共に格好良く言い放ってやったの」


 女らしく、勇ましく、社交界の頂点に君臨するホルトレイス家の令嬢らしく。


『今この瞬間をもって、ホルトレイス家はアズドア家を敵と見なすわ!』


 その時のことを武勇伝のように語るアネットは、まるで子供が手柄を自慢するように得意げである。

 だがその言葉の意味を察したヴィクトールは彼女の笑みに返すことが出来ず、ヒクと頬をひきつらせた。


 ホルトレイス家はアズドア家を敵と見なした。

 娘を誘いだし不埒なことをし、あまつ謝罪もろくにせず今度は悪事に加えようとしたアズドア家を……。

 ホルトレイス家は歴史も権威もすべてにおいて頂点に君臨する家だ、普段こそ夫妻の穏和かつ上品な態度で爵位に拘らぬ付き合いをしているが、一度本気を出せば自分達すら邁進の踏み台にしようとする成り上がりの一族に鉄槌を下すなど造作ないこと。


「……潰したのか」

「あら、硝煙の王子かもって書いてあるじゃない」


 真相を知りたければ硝煙の王子を捕まえる事ね、そう笑うアネットに、ヴィクトールが盛大に溜息をついた。



 そんな見舞いから数時間後、アネットはアズドア家へと向かっていた。

 隣にはいつの間にかロッテの姿。適当なところで馬車を降りて散歩がてら歩いたところ、どこからともなくポテポテと駆け寄ってきたのだ。

 そうしてアズドア家へと辿り着いたのだが、野次馬やら新聞社の記者やらでごった返していた。屋敷の中には捜査のために派遣された騎士達がいるはずなのだが、それすらも見えない程である。さすがは渦中の家だけあって壮絶の一言だ。


「アネット様、あまり近付くと危ないですよ」


 とは、人混みに踏まれないようロッテを抱き抱える侍女。

 令嬢の身の安全を考えてのこの言葉に、アネットは素直に従うと人混みから数歩下がった。と、その瞬間侍女の腕の中にいたロッテがピンと耳を揺らして軽やかに腕をすり抜けた。そのまま華麗な四つ足着地を決めると、迷うことなく人混みを沿うように走り去っていく。


「あらロッテ、どこに行くの!」

「まったく自由奔放な子ね」

「えぇ、本当。飼い主に似ると言いますものね」


 侍女の手痛い返しにアネットが思わず目を丸くさせた。

 ヴィクトールから手土産に渡された――というより「美味しい、これ美味しい」と繰り返しながら食べていたら袋に入れて持たせてくれた――タルトを半分わけてあげようと考えていたが、これには少し考え直してしまう。

 だがそれをジットリと瞳で訴えても侍女はどこ吹く風で「どうしましょうか」と何事も無かったかのように次の指示を仰いできた。


「屋敷の奥にもう一つ建物があるの。そこも見に行きましょ」

「野次馬ですね」

「えぇ本当。きっと親に似たのよ」


 そんな会話を交わしつつ、ロッテと同じように人混みを沿うように歩き出した。



 そうして訪れたのは、先日カークスに招かれた建物。友人だけのパーティーが開かれていた離れであり、ここもまた人混みで溢れかえっていた。取り締まりの任を負う者達が慌ただしく行き交い、次のネタを仕込むために記者があちこちに目を光らせる…………。

 そんな中、屋敷から出てき一人の男がアネットに気付き真っ直ぐに歩み寄ってきた。


「ホルトレイス家のアネット様でしょうか?」

「えぇ、そうよ」

「ヴィクトールから、以前貴女がカークスにペンダントを渡したと話を聞いております。それだと思われるものが屋敷にありましたよ」


 そう告げて男が見せてくるのは、確かに先日アネットがカークスに突きつけたペンダントだ。

 白濁色の石にはホルトレイス家の家紋が掘ってあり、それを見て彼も気付いたのだろう。

 もっとも、さすがにペンダント一つで関与の疑いを掛けられるわけでもなく、そもそも先日のことは説明済みだ。だからこそ押収もしないと返そうとしてくる騎士に対し、アネットはチラとペンダントを一瞥するだけで「いらないわ」と首を横に振った。


「カークスが触ったものなんて頼まれたって身につけたくないわ。破棄してちょうだい」

「気にっていたのでは?」

「流行と女の趣味は水よりも早く流れていくのよ。それに、もっと良いものを貰ったの」


 そう笑みを浮かべてアネットが胸元に触れる。

 赤い石のついたペンダント。センスの良いこれはまるでアネットの趣味を知っているかのようにどんな服にも合い、最近のアネットは貴族の令嬢らしからずこのペンダントを身につけ続けている。

 それを見た騎士が肩を竦めて、それでも「かしこまりました」と恭しく頭を下げて仕事へと戻っていった。


「よろしいのですか?」

「ホルトレイス家の女なら汚れのついたペンダントの一つや二つ未練なく手放さなきゃ」

「それにしては、今おつけになっているペンダントはそうとう気に入っていらっしゃるようですけど」

「えぇ、大事にしてるわ。汚れなんて絶対に着けないって決めたの、触っていいのは一人だけよ」

「……一人? どなたですか?」


 侍女が問いかけるも、アネットが楽しげに笑って「秘密」とだけ返した。

 そうしておもむろにスカーフを取り出す。花柄の上質なスカーフ、そこに添えられているのは……小指の長さにも満たない小さな笛。


「アネット様、それは?」

「放浪猫を呼び出すのよ」

「……ロッテですか? その笛で?」


 どうやって、と侍女が尋ねるのとほぼ同時に、アネットがスゥと息を吸い込んで笛に口を付けた。

 その瞬間、ヒュッ……と一瞬掠れるような音が小さく漏れる。だがそれだけだ、アネットが吹いている最中も音は鳴らず、侍女が不思議そうに首を傾げる。

 そうしてはたと何かを思い出すや「犬笛ですか」と口にした。物珍しそうにアネットの手元を覗き込んでくるあたり、名前は知っていても現物を見るのは初めてなのだろう。それが少しだけ面白く、アネットが得意げにもう一度吹き鳴らした。もっとも、何度吹いたところで人間には聞こえるわけがないのだが。


「そうよ、でもこの場合は猫笛ね」

「それでロッテを呼んだんですか?」

「時々は猫馬鹿の騎士も呼べるのよ」


 そう自慢げにアネットが告げれば、まるで先程の笛の音に応えるように「ニャーン」と聞き慣れた鳴き声が返ってきた。もちろんロッテである。

 だが一向にこちらに姿を現さないあたり、猫笛の音を聞いて返事こそしているが「こっちに来い」と言っているのだろうか。アネットが忌々しげに「まずは『おいで』から教えるべきだったわね」と呟きつつ呼ばれる方へと歩き出せば、侍女がクツクツと笑ってその後を追う。


 そうして見つけたロッテは、草葉の横に沿うようにチョコンと座っていた。

 アネットの姿を見つけるや「ニャン!」と鳴くもお尻は動かさない、この不貞不貞しさと言ったらない。その横暴さに最初こそ睨みつけてやったアネットだったが、ロッテがしきりに鳴き続け、次いで草葉がガサリと動けば流石に何かあるのかと察して草葉を覗き込んだ。

 そこに居たのは白猫。

 カークスの飼っていた血統書付きの希少な猫だ。

 だがフカフカだった白い毛は随分と薄汚れており、怯えるように草葉の中に身を隠す姿に以前のような傲慢さはない。宝石のついた首輪も失い、見たところお尻隠しのスカーフも取られてしまったようだ。


「あなたは押収されなかったのね」


 とアネットが試しにと手を伸ばす。

 箱入り生活から一転して野良へと突き落とされた恐怖があるのだろうか、白猫は小さく震えながらニャーとヒャーの中間のような情けない声を返してきた。威嚇しているのかどうか情けなさすぎて分からないが、とにかく出てくる気はないようだ。

 だがそれをフォローするようにロッテが白猫に寄り、グルグルとなにかを話しかける。いったいどんな会話が交わされているのか、生憎と猫語を嗜んでいないアネットには分からないが、ロッテの説得を受けた白猫が恐る恐る草葉から出てきた。

 その姿のなんと哀れなことか。毛のあちこちが汚れ、白と灰色のミックス状態とさえ言える。怪我をしたのか左の後ろ足を庇うようにヒョコヒョコと歩き、耳もペタンと伏せてしまっている。全身で「怖い」と訴えているようなものだ。

 アズドア家の崩壊からたった数日だというのにこの有様なのだから、この猫が今後野良でやっていけるわけがない。

 本人――本猫――もそれを自覚しているのか、ヨロヨロとアネットの足下に近寄ると、意を決したと言わんばかりにコツンと額をアネットの足にぶつけてきた。さらにグリと一度強く押しつける。

 人生――猫生――初の媚び売りであろうそのぎこちなさと言ったらなく、次いでアネットを見上げると「ウナンナ」とか細い声をあげた。

 まったくもって下手くそなその交渉に、アネットが小さく肩を竦め、


「ホルトレイス家の慈悲深さに感謝なさい」


 と言い聞かせると、小さく震える白猫をヒョイと抱き抱えた。



 ◆◆◆◆◆◆



「まぁ可愛い!」


 とは、コルベート家婦人コーレルの弾んだ声。

 彼女の膝元でゴロゴロと喉を鳴らしていた黒毛の猫がそれを聞いて顔を上げるも、自分のことではないと知るやフンと不満そうに再びコーレルの膝に顎を落として目を閉じた。黒く艶のある毛が美しく、首には白い首輪、そして四つ足には白い靴下――ガラではなく本物の靴下――が履かれている。尻尾に結ばれた赤いリボンが黒毛に良く映え、お尻を隠す赤いスカーフと併せてワイルドさを表している……らしい。コーレル曰く。

 そんなお洒落な猫を膝に乗せつつそれでもコーレルが「可愛い」と誉めるのは、彼女の目の前にいるフカフカの白猫。小さな花を載せたツバの広い猫用の帽子を被り、胸元には金糸の刺繍が入った首輪。お出かけようのカゴの中でチョコンと座るどこか誇らしげな様は、まさにカゴ入り……もとい、箱入り猫。もちろん、お尻隠しのスカーフもつけている。レースとラメが入った紫のスカーフだ。金ボタンの留め具がワンポイント……らしい。

 そんな白猫をフカフカと撫でながら


「次はお花のスカーフにしましょうね、シャルタン」


 と話しかけているのはホルトレイス家婦人アンナ。

 これはいったい何かと言えば、定期的に――むしろほぼ毎日――行われている愛猫のファッションショーである。


「今度はお揃いのスカーフにしましょう。それに帽子を色違いで」

「わぁ、素敵です!」


 そう会話を弾ませる二人はとても楽しそうで、新しい飾りを貰えると察して白と黒の猫が揃えたように「ニャン」と鳴いた。質のよいスカーフでお尻を隠しながら……。


 そんな光景に、このファッションショーに毎度参加させられているアネットがうんざりだと溜息をついた。

 猫は自由気ままに歩き回り、ユラユラと尻尾を揺らしてお尻を丸見えにしているのが一番愛らしいのだ。それと、時折は猫笛で助けを――はたして騎士が来るか王子が来るかどちらか定かではないが――呼んでくれる献身さを見せてくれれば尚良しである。


「ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」


 そう小声で話しかけつつそっとスカートを揺らせば、「まったくその通り」と言いたげな「ニャン」という声が聞こえてきた。



 …end…


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[良い点] 本当に面白いです!ストーリーが素敵すぎて何度も読み返してしまいます。 [一言] IもIIも本当に面白くて周期的に読みたくなります アネットがどのような結婚を迎えるのか…!すごく気になります…
[良い点] 面白かったです! ロッテかわいい! [一言] さき様の作品は猫が出てくるモノが多い気がします 猫好きなのでしょうか?(´∀`) あ、でも蜘蛛も多いかも…? 続編待ってます(^^)
[一言] とっても面白かったです!さきさんの話が大好きで、鏡よ、鏡を始め、アルバート家も大好きです!たくさんの作品がコメディーになっていて、とても読みやすくて、快活に元気なヒロインに憧れます!とくに硝…
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