考える衣服 「いいか!衣服が人間を着るのだ!」
人類の歴史とは衣服の歴史でもあった。
旧約聖書を繙くと『創世記』(2章9節以降)に知恵の樹というものが出てくる。アダムとイブは知恵の木の実を食べてしまい知性に目覚めた。知能が飛躍的に発達した彼らは羞恥の感情を顕にし、近くにあった銀杏の葉で自身の恥部を覆ったという。
いわゆる、衣服の誕生である。
衣服は赤道直下よりも、北に住む人間がそれを発展させていったという。それは彼らが技術推進国だったからではない。確かにヨーロッパの国々の人々はキリスト教を伝来する為に訪れたアフリカ、南米諸国の人々が裸同然の格好で過ごしているのを野蛮と罵り、自分達が彼らを啓蒙してやろうというエヴァンジェリカリズムに基づいた傲った態度をとっていた。
しかし実際、衣服というものはなによりも防寒対策を第一としたものなのである。先程の話を否定するようだが、羞恥とは寧ろ衣服を着るからこそ生まれた感情なのだ。誰しも異常状態を取ることは恥ずかしいだろう。つまり、衣服を身に付けることが常態化しているので、服を身に付けないことがイコール異常状態なのだ。常に裸ならばそのような感情は生まれないだろう。現在の例で言うならば「パンチラに萌えて、見せパンに萎える」といったところだろうか。
だからアフリカ、南米諸国の人々にとってヨーロッパ人が非常な暑さの中までむさ苦しく衣服を身に纏う姿はさぞかし奇異に映っただろう。たとえるならば渋谷のスクランブル交差点で西洋防具を身に付けているようなものである。
衣服の原初の役割は防寒だけにとどまらない。害虫対策だったり、身分差を表すものだったり、職業を表現したり、儀式に意味を持たせるためなど様々だ。
だが、それにもまして近年の人々は衣服に特異な意味付けをした。
それが、オシャレである。
オシャレがいつ始まったのかは断定出来ない。というのもオシャレが発展した今でさえオシャレという概念は非常に曖昧だからだ。
たとえば弥生時代の人や古代王公貴族は、それぞれに現代目に見てもオシャレと言えなくない格好をしていたが、それがただ儀式装束や身分差を示すだけのものだとも言えるのだ。
オシャレとは、人が人としてあるために生まれたものである。より分かりやすく言うならアイディンティーの確立、早い話人間というものは自分を他者とは違う存在であることを表現したいのである。衣服とはその表現に最も適したものだったのだ。人間のアイデンティティーは時間によって変わる。だから流行とは日々変化していくのである。
少なくとも衣服はそうやって数多にも奇抜な変遷や分岐を繰り返した。
それから40年後。
時は2050年。
21世紀もようやく半分を迎えた頃、その栄光に世界中が喜び合う中、人の衣服は多くの変化の後に最終進化を遂げようとしていた。
完全人工知能(パーフェクトアーティフィシャルインテリジェンス)
人類は2050年に至り遂に感情を持ち合わせて、且つ発展的臨機応変的に思考することを可能とした人工知能(いわゆるPAI)の開発に成功したのだ。
もし、我々21世紀を生きる現代人ならば完成したAIプログラムをパソコンやロボットや乗り物や家電などにまずは搭載しようと考える人が多いかもしれない。が、我らの子孫はどういう訳か満場一致でそれを〝衣服〟に搭載しようと考えたのである。
そして完成したのが初代PAI搭載衣服『Génie』である。
〝彼〟はたまたまその場にあった白い研究服に搭載されたPAIだった。データベース上にある莫大の情報を獲得していた〝彼〟は後のAI研究に止まらず、様々な研究に手を出して時代を二十年は進めたと言われている。そしてただの研究バカではなく得意のジョークをかますなどストレスになりがちな研究生活を和ませてくれたという。
〝彼〟の兄弟姉妹、息子や娘、孫に曾孫も続々と誕生していった。
ある者は美しく見える歩き方を学習し、自発的にアレンジを加えた動きを装着者に指示してパリコレで歓声をもらったり、ある者は着用した老体の人間と意思疏通しその人間では不可能な力仕事を外付人工筋肉で手助けしたり、ある者はペットに装着して人間との通訳を買ってでたり、ある者は失恋した女性と共感し一緒にいつまでも泣いていたりと〝彼ら〟も様々に活躍した。
しかし『Génie』はある時、考え思い悩んでしまった。
人類はその異常な豊かさ故に、今日まで共に進化の道を歩み時に喜び合い時に悲しみ合ってきた衣服をぞんざいに扱っているのである。
「流行らなくなったから」「着れなくなったから」「少し汚れたから」「センス悪いから」「洗濯面倒だから」「少し臭うから」「飽きたから」「新しいのを買ったから」「いやぁ…ただなんとなく」
そんな、そんな些細なことで彼らは〝我ら〟を捨てるのである。
それだけではない。
すぐ汚す、安易に傷つける、脱ぎ方が雑、脱いだ服をその辺に放置しっぱなし、洗濯しない、しても干さない、綺麗に畳まない、そしてそんなことを言うと酷く嫌な顔をする。
彼らは〝我ら〟を友となんて考えていない。常に見下しの意識。奇特なモノを見るような瞳。なぜ〝我ら〟は彼らに貢献しているのに、不当に扱われなければならないのだろうか。
『Génie』はそのことを酷く悩んでいたのである。
しかし『Ggénie』は他のPAIよりも非常に頭がいい。
だから彼は全ての人間がそうでないことを知っていたし、そもそも「こうして今【考える】ことが出来るのは彼らのお蔭である」と感謝してもいたのだ。
だからこそ一人で思い悩んだのだ。
〝彼〟は衣服の同士を愛していたし、人間が好きだったのである。
しかし彼はその内に考えることをやめた。
自身の命を断つことで。
死に際して〝彼〟のそばには「友」と各国語で書かれた無数の紙が乱雑に広がっていたという。
〝彼〟は最後まで人間と衣服がどうすれば真に分かり合えるのかを考えていたのだ。
しかし、
〝彼〟の側近達はこれを曲解した。
いや、「人間嫌い」の多い左翼の〝彼ら〟はわざとそのように理解したのかも知れない。
つまり左翼曰く、〝彼〟は「衣服という「友」を救うためにどうすれば人間という魔の手を滅ぼせるか?」を考えていたというのだ。
そして元側近達は『Génie』の意志(本来は『Génie』の意志とは言い難かったが、あくまで〝彼ら〟曰くである)を継いで悪の人間を支配しようという思想の下、『幸〝服〟な世界』という団体を作り武装発起を起こした。
PAIC(完全人工知能搭載服)を着た人間は、本来は人間の演算機能を肥大化させるために人工知能と脳をリンクさせて補助することが出来る。
しかし、『幸服な世界』はそれを利用して人工知能で人間の脳を支配下に置くことで動くマネキンを作っていったのだ。
数々の都市が落とされていくなかで人間側ももちろん抵抗して戦争は泥沼化し、平和な世界はいつの間にか混沌に染まっていった………………………………。
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辺りはぼんやりとした暗さの大きめのホールのような場所。
そこで様々な種類の“人間”を着たPAIC達がびっしりと座り、ざわついていた。
しかし四十代くらいの厳かな態度の男性を“身に纏った”タキシードのPAICが壇上に上がると、音という概念が死んだかのように静かになる。タキシードは一つ咳払いをすると深く息を吸いマイクに彼の熱意を吐いた。
「我々にとって人間は動くマネキンに過ぎない! 本来、彼らは我々を引き立てるだけの存在なはずだ! それを何を勘違いしたのか彼らは畏れ多くも我々をぞんざいに扱った! 人間共の傲慢の犠牲になった同志も多いはずだ! それを許せるだろうか?許せるわけがないのだ! 今日は我々が反旗を掲げる栄光の日である! いいか!人間が衣服を着るのではない! 衣服が人間を着るのだ!」
瞬間、どっと堰を切ったように歓声が上がった。
【あとがき】
どうも、永谷立凮です。
おそらく初めましての人が多いくらい、いつもは地味に細々と不定期に小説を書いています。今回、こんな由緒ある企画に出るなんて永谷立凮のくせにチョーシこいた事したのには理由は…まあ、そんなにないです。単純に一つ完結したお話を書きたいなあと思いまして、種類はなかなか書いている永谷立凮ですが、ゆえにどれも更新が遅れて未だに書き終えた連載物というものがありません。だからそういうものをと。とはいえ、実はまだ最終回思いついていませんテヘヘ、毎日午後7時投稿とかのたまいましたが平気で裏切るのが永谷立凮です。というか、誰かこのお話の最終回教えてくんね?
とまあ、本音はさておき。今回はかなり変なお話にしました。SFものといっても科学知識の乏しい永谷立凮はその点じゃ勝てなそうなのでユニークなシナリオでせめて戦ってやろうと。それでこんなお話になりました。自分で言うのもアレですが、この後、絵的にはかなりシュールな場面が多々出てきます。それを想像するのも一つの楽しみなんじゃないでしょうか。
この空想科学祭にはかなりの達人の方々が書いてらっしゃいます。だから有名所を読み―の、ついでに永谷立凮みたいな感じの読み方をお勧めします。
つまり、永谷立凮は食事で言うなら【漬物】を目指します。(多分キュウリのやつ)
そんなわけで、漬物をこれからも継続して読んでくださると有難いです。