第6話 まかないと婿入りとリス騒動
営業が終わった食堂やまもとは、にわかに穏やかな時間が流れ始めていた。客の笑い声と食器のぶつかる音が消え、聞こえてくるのは椅子を引く音と、誰かの足音と、掃除道具のガチャガチャいう音だけ。喧騒の後の、静かな戦場だ。
厨房では、俺と店長――悟志さんの二人で、明日の仕込みに取りかかっている。作業台の上に並ぶのは、カット待ちの野菜たち、解凍された肉のパック、空の保存容器。俺が野菜の皮をむいている間に、悟志さんはすでに下味用の調味液を用意し終えている。まるで、二人の作業が呼吸のように噛み合っていく。
「これを渡せば、次はこれが欲しいんだろうな」そう思って渡すと、悟志さんはまるで先を読んでいたかのように受け取り、別の道具を返してくる。打ち合わせゼロでここまで回るの、逆にちょっと怖い。
しかも、動きに無駄がない。悟志さんの所作は、いちいち丁寧なのに速い。寸分の迷いもなく、食材を扱う。調理場のすべてを掌握しているといっても過言じゃない。まさに“プロの厨房”。
――そこに、新入りの俺がいても、なぜかリズムが崩れないのはちょっとした奇跡かもしれない。
一方その頃、ホールでは掃除部隊が騒がしい。床をモップが滑る音と、バケツの水音。そこに混じるのは、萌の甲高い声と、夏樹の笑い声。
……内容は謎だ。
「この辺りは“ザシュッ”って感じで」
「こっちは“バァーン”て気持ちでやれば大丈夫」
といった萌の抽象的すぎる掃除指導に、普通の人間なら「何の話?」と固まるはずなんだが――
夏樹は普通に理解して、ちゃんと動けている。「バァーン」の意味が通じてるのがすごい。ていうか俺も聞いたけど未だに意味不明なんだが。
ふと視線を戻すと、悟志さんが俺の動きを見て小さく頷いていた。今の作業の手際が良かったということらしい。無言のグッドサイン。伝わる人には伝わる、それがプロの現場ってやつだ。
さて、次は下味付けか。用意されたボウルを受け取り、冷蔵庫に手を伸ばす。ホールの笑い声と、厨房の静かな調理音が交差するこの空間は、不思議と居心地がいい。
厨房が回る。ホールも回る。
明日の準備も、順調に進んでいく。
厨房には、まな板を叩く音と、たまに聞こえるモップのきしむ音が響いている。平和な閉店後。仕込みは黙々と進み、俺も作業にすっかり集中していた。
そんな空気の中、不意に隣から穏やかな声が飛んできた。
「……山神君。君、ほんとに手が早いねぇ」
横を見ると、店長が茹で上がった青菜をザルにあけながら、満足げにうなずいていた。
「いえ。店長の指示が的確なんで」
「いやいや、ひとつ言えば十わかる子なんて滅多にいないよ。……ほんと、婿に来ないかい?」
「……え?」
「行きません!!」
まさかのタイミングで割って入ったのは、ホールの方から聞こえた声。見れば、夏樹がモップを抱えたまま硬直していた。
「夏樹?」
「えっ!? いや……違うの、つい……。なんか、それ、流されたらダメな気がして!」
急に言葉に詰まり出す夏樹。顔が見る間に赤くなっていく。
「わたし、別に何でもないけど!? ただ、えーと、ほら……萌の気持ちもあるし!」
今度は萌にパスを出した。
「え? あ、うん……」
萌は首をかしげながら、にこにこと言った。
「食堂のことを一番に考えてくれるなら、わたしは全然……いいですけど?」
「まさかの肯定!?」
さすがに驚いて振り返ると、萌は包丁を洗いながら首を小さく傾げていた。
「だって、山神君ってすごく働いてくれるし、手際もいいし。こういう人がいてくれたら、お店も安心ですし」
「いや、俺、結婚しに来てるわけじゃないからね?」
思わず手を止めて、真面目に返す。
「ここに就職する気はないし、結婚も……予定はないです。やりたいことがあるんで、それが優先です」
「……お、おう」
厨房に一瞬だけ沈黙が落ちた。そのあと、なぜか三者三様のリアクションが起きる。
「うーん、そこまでしっかりしてるなら……余計に婿に欲しいなぁ」
「……はぁ。なんでこんなにホッとしてんだろ、私」
「やっぱり、山神君はすごいなぁ……」
え、なにこの空気。っていうか、俺、今もなんか求婚されてる?
「……あ、次は人参の千切りですね」
俺はそっと現実に戻って、包丁を握り直した。今日の下ごしらえは、まだ終わっていない。
厨房には再び、トントントン……という包丁の音が響き始めた。背後では、夏樹がモップを抱えてひとりで赤くなっている。萌は相変わらず、無垢な顔でおたまを磨いていた。
そして店長は、にこにこしながら俺の横で出汁をひいている。
食堂やまもとの営業が終わり、静まり返った厨房に、湯気の立つまかないの香りがゆっくりと満ちていく。
ちゃぶ台には、炊き立ての白ごはん、味噌汁、白和え、小鉢の煮物、そして揚げたてのから揚げ。店長の作ってくれた賄は、どれも素朴で飾り気はないが、出汁の香り、照り、湯気、油の弾ける音――全てが、食欲を刺激するには十分すぎた。
創太郎は箸を手にし、ひと口、から揚げをかじる。カリッとした衣の中から、じゅわっと肉汁が染み出して、口の中に旨味が広がった。下味の生姜と醤油がしっかり利いていて、ごはんが勝手に進む。ひと口でわかる。これは熟練の仕事だ。
味噌汁も滋味深い。出汁が骨の髄まで染み渡るような、まさに“家庭の味”を極めた一杯。ごく自然と、箸が進んでいた。
「いただきますっ!」
反対側の席では、夏樹が姿勢よく座り、元気な声で手を合わせたかと思えば――から揚げ、白ごはん、味噌汁、白和えをローテーションしながら食べ進めていた。箸の動きが異様に速い。頬がまんまるにふくらんで、まるで栗を詰め込んだリスのようだ。
萌がちゃぶ台越しに笑う。
「やっぱり、夏樹ちゃんってよく食べますね……」
夏樹が必死にジェスチャーで「ごちそうさま……じゃなくて、おいしいって言いたい!」と伝えようとしている。親指を立てたり、胸に手を当てたり、なぜか両手で丸を作ったり。動きがどんどんオーバーになっていくが、口がふさがっているので一切言葉が出ない。
創太郎は静かに白ごはんを口に運びながら、ちらりと夏樹を見た。
「……お前、相変わらずだな」
それだけ言って、また味噌汁をすすった。
「夏樹ちゃんって、見た目だと小食そうに思われますけど……男子より食べてるときありますね」
萌は、まるで褒めてるのか呆れてるのかわからないトーンで呟いた。
「小学校の給食のときなんて、三杯目まで“普通”って顔してたからなぁ。配膳係の子がびっくりしてたことあったっけ」
「小学生の頃からよく食べる子だったんですね」
夏樹はほっぺたを押さえたまま、必死に首をぶんぶん横に振っていた。どうやら、「違う! 今日は特別お腹がすいてただけ!」と伝えたいらしい。
「でも、いっぱい食べる子は元気でいいって、父もよく言ってたなぁ」
「うん、それは本当にそう思うよ」
悟志と萌が顔を見合わせ穏やかに笑いながら、味噌汁やおかずのおかわりを用意し始めた。
「美味しそうに食べてくれるのは、作り手として何より嬉しいことだしね」
「……んぐっ、ごちそう……すっ……おいひいです……!」
ようやく飲み込んだ夏樹が、小声でそう言うと、悟志はくしゃっと顔を綻ばせた。
「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいな」
「ほんと、店長のから揚げ、めっちゃおいしいです……衣がサクサクで、中がジューシーで……あれ? なんか、創ちゃん笑ってない?」
創太郎は箸を動かしたまま、少しだけ口元をゆるめた。
「いや、お前がほっぺふくらませてるの、なんか面白かっただけ」
「ふくれてないっ! もともとこういう顔!」
「え、そうだったの?」
「ちがーうっ!」
「自分で言い出したんじゃねぇか!」
夏樹が真っ赤になって叫ぶと、悟志と萌が顔を見合わせて、楽しそうに笑った。
「なんだか、いい雰囲気ですね……」
「うんうん。こういうの、なんか、いいよね」
ちゃぶ台の上には、空になりかけた器と、笑い声が並んでいた。あたたかなまかないの味と、ちょっと恥ずかしい空気。忙しかった一日が、穏やかに締めくくられていく――そんな時間だった。




