第4話 食堂やまもと、始動準備完了
山本悟志さんに案内されたのは、店舗の厨房ではなく、住居側のキッチンだった。なるほど、いきなり実戦投入というわけにはいかないらしい。客に出す料理を、どこの馬の骨がいきなり作るかって話だ。そりゃそうだ。
「じゃあ、この野菜を頼むよ」
と渡されたのは、皮付きの人参、じゃがいも、大根、それからなす。どれもそこまで珍しいものじゃない。包丁とまな板はすでに準備されていた。あとは、俺がやるだけ。
エプロンを借りて袖をまくると、まずはじゃがいもから取りかかった。皮むき器ではなく、包丁で、いつもの手順。
スッ――スッ――
皮を薄く削ぐように剥いていく。丸みのある形状を崩さないように、手の動きは一定。水にさらすタイミングも、迷わない。必要最小限で、次の作業にすぐ入れるように下処理を済ませておく。
次は人参。これは皮を薄く削ってから、小さめの乱切り。火の通りを意識して、切り口の面積を増やしておく。大根は短冊。煮物用としてちょうどいい厚さと長さに、手を止めずに切り分ける。なすはアクを抜くために切ったらすぐに水へ。こいつは油を吸いやすいから、使う段階でちゃんと下準備しておかないと味がブレる。
一つひとつ、俺にとっては見慣れた手順だった。手が自然と動いてくれる。この程度の作業は、今までのバイトでも何度もやってきたし、家でも料理は毎日作ってる。練習じゃなく、生活の一部だった。
「レシピ、これ」
悟志さんが一枚のレシピカードを渡してくる。ちらっと目を通して、ふむ、と軽くうなずく。味付けや火加減はたぶん悟志さんがやる。俺がやるべきは、その手前の段階。材料を揃え、切り分け、仕込みを整えること。
分量を計って、器に並べる。使う調味料の確認。砂糖、醤油、みりん、酒。順番と量。火を通す時間。レシピの字面を頭に叩き込む。
動きは静かだけど、手は止まらない。水加減、下味用の調味料を混ぜる順番、切り終えた材料の置き場所まで、全部整っている。一度でも調理の現場を経験したことがある人なら、きっとわかるだろう。「あ、こいつできるな」って。
悟志さんと萌が、いつの間にか並んで俺の様子を見ていた。何も言わないけど、視線の温度がちょっとだけ変わった気がする。
慌てることも、迷うこともない。誰の指示もなく、作業の合間にまな板と包丁を洗っておくことも忘れない。そういう“ちょっとした気配り”が、厨房では重要だってことも、ちゃんと知ってる。
一通りの準備が整ったところで、手を止めて、振り返る。
「……以上です。ご確認、お願いします」
そう言って、一礼。あとは、判断を待つだけだった。
悟志さんの「じゃあ、やってみようか」の一言で始まった、仮想試験調理。
俺は渡されたレシピを確認し、食材を見て、次に必要になる器具や調味料の位置を把握した。無駄のない動線。包丁を手に取り、野菜の皮をすっと剥き、続けざまに下処理。迷いはない。俺にとってはこれが「いつも通り」だった。
切った野菜は種類ごとにボウルへ分けて並べ、火を使う下準備はそこまでに留めた。おそらくこの先は、味付けや焼き加減を店主の悟志さんがやることになる。ならば、下ごしらえで変なクセを出すのは邪魔になるだけ。そう判断して、俺は必要なところまでを確実にこなすことに集中していた。
手を止めた頃には、用意された野菜はすべて処理を終えていて、まな板の上には乱れのない並びで食材たちが待機していた。
「……これは、正直、想像以上だったな」
ぽつりと、低く落ち着いた声で悟志さんが呟く。
「段取りの良さもそうだけど、食材の扱いが丁寧だ。刃の入れ方に迷いがない。経験の深さだけじゃない、料理への姿勢が出てる」
俺は何も言わず、軽く頭を下げた。
「下処理をここで止めたのも……見てる側に委ねた判断、だな?」
「はい。味付けや火入れは、お店の味があるだろうと思いまして」
「それができる高校生、なかなかいないぞ」
悟志さんは、静かに腕を組んで少し天井を見上げた。まるで、自分の中にあった不安がすっと解けていくような仕草だった。
「山神君」
「はい」
「正式にお願いしたい。今日から、厨房に入ってもらえるか?」
その言葉に、俺は姿勢を正して、はっきりと頷いた。
「ありがとうございます。よろしければ、今夜からすぐにでも」
「もちろんだ。……いや、本当に助かるよ」
その声には、重ねてきた苦労がにじんでいた。厨房を一人で守りながら家族を支え、ようやく得た戦力。それが、こんな形でやって来た。安堵と喜びが入り混じったその表情に、俺は少しだけ、背筋が伸びる思いだった。
「創ちゃん、すごい……」
ぽつりと漏らした萌の声に、俺は気恥ずかしくなって視線をそらした。
「家で見てるときとは、全然違うんだね」
後ろで見ていた夏樹が、少し感慨深げに言った。
「え?」
「いつもふざけながら卵焼き巻いてるくせに、今日はすごく真面目で、ちょっとカッコよかったかも」
「“かも”って何だよ、“かも”って」
つい口を突いて出た言葉に、夏樹がふふっと笑った。
「でもほんと、安心した。これなら、おじさんも萌も、ちょっとは楽になるね」
「いやいや、“ちょっと”どころじゃないよ! 山神君、うちの救世主だよ!」
まるでアイドルでも見たかのようなテンションで、萌が両手を握りしめて言う。
……救世主、って。ちょっと言いすぎじゃないか?
――面接の場が終わった後、俺たちはすぐに「食堂やまもと」へと降りた。
今はちょうど昼営業を終えて、夜の仕込みに入る前のインターバル。店の空気もどこか落ち着いていて、調理場の中にも焦りの気配はない。厨房の奥にはまだ使い終わった鍋やら食器やらが山積みになっていたけど、それすらも今の俺には新鮮に見えた。
「……そういえば、朝の仕込みも手伝えるけど、大丈夫ですか?」
準備用のエプロンをつけながら、俺は悟志さんにそう告げた。朝型の生活には慣れている。バイトも勉強も全部、時間を工夫してなんとかしてきた。
「朝の仕込み?」
「はい。学校に行く前に少しでも入れたらと思って」
悟志さんは一瞬だけ目を見開いた。けど、すぐに口元を緩めてうなずいてくれる。
「……ありがたいよ。本当に。無理のない範囲で構わないから、よろしく頼むね」
ほんとにぎりぎりだったんだろうな。少しでも負担が取れるなら、思いついたことは何でも提案しよう。提案して「いらない」って言われたらそれはそれで別にいいし。
すると、隣にいた夏樹が手をあげた。
「私も! ホール手伝わせてください!」
「えっ、今日から?」
「もちろんです。お客さん相手は、萌と二人でやります!」
「そうです! 夏樹ちゃんが一緒なら、百人力ですから!」
にこにこしながら胸を張る萌。悟志さんも、苦笑しながら「参ったなぁ」と言わんばかりに頭をかいていたが――
「……まあ、うん。君たちなら任せられるかな。夏樹ちゃんは元々手伝ってくれてたしね。これからの混み具合にもよるけど、今日は無理しないようにね」
「はーい!」
「はい!」
返事がやたら元気だ。こっちは調理で気を抜けないってのに……。
とはいえ、厨房もまったく余裕があるわけじゃない。昼と夜の営業の間、悟志さんは基本一人で黙々と下ごしらえをしていたらしい。少しでも効率よく動ければ、多少なりとも助けになるはずだ。
「じゃあ山神君、これ夜用の食材。小鉢のやつ!こっちは常連さん用の特別メニューね。これもいける?」
萌が次々と指示を飛ばしてくる。いや、ちょっと待て、俺はまだ厨房正式稼働前の新人だぞ? でも気づけば、俺も「はいはい」と返事して包丁を取っていた。
カウンターの上には、夜の仕込み用の食材が並べられている。見たことのあるレシピばかりだ。食堂やまもとのメニュー表もざっと目を通しただけで、だいたいの構成と方向性は把握できた。
――なるほど、和定食系が中心。しかも、王道の味付け。
これならいける。むしろ得意分野だ。
それにしても、悟志さんの調理スタイルは実に丁寧だった。下ごしらえひとつとっても手順に妥協がない。俺はその動きを注意深く目で追い、調理器具の位置、調味料の分量、火加減のクセ……一つひとつを記憶していく。
基本の味付けはレシピ通りでも、現場では“いつもの味”がある。それに近づけるには観察あるのみ。俺は指示を仰ぎながら、レシピに忠実に、でも悟志さんの手元に寄せるよう意識して切ったり、和えたり、仕込んだり。
「創ちゃん、やっぱ仕事してる時、雰囲気違うねぇ」
と、隣のホールから声が聞こえてくる。夏樹だ。萌と二人でテーブルを拭いたり、メニューを並べたり、ガラス戸を磨いたり――いかにも青春的な光景だった。
「へー、どんな感じですか?」
「なんていうか……無言で黙々と動いてて、職人っぽい」
「もともとそういう子じゃなかったっけ?」
おい、山本さんよ?どういう子ってどういう子だ?
「いやー、家だと“雑に料理してる人”って印象だったから」
雑だと??
料理中にお前が「腹減った」だの「今日は疲れた」だの「味付けはこうしてほしい」だの色々言うくせに「お腹と背中がくっ付きそうだ~」とか言って急かすからじゃねぇか!
「それはお前が急かすからだろ? しかも雑だと? お前にはもう二度と飯は作ってやらん!」
「あーん! 創ちゃんが怒ったー! ごめーん! でも、創ちゃんの仕事人バージョンでの夕飯も食べたい」
俺にあぶない裏家業はありません。
「何だよ?「仕事人バージョン」って」
「今みたいに、丁寧に食材と向き合って黙々と料理している感じ?」
「家でも、お前が黙ってたら俺は黙々と料理するぞ?」
「それは無理。 だって創ちゃんと私しかいないんだよ? 創ちゃん放っておいたら誰ともしゃべらないじゃん? 声の出し方忘れちゃうよ?」
「忘れねぇよ!」
悟志さんが「二人の関係って大丈夫なの?」と萌に確認している。萌から俺たちが幼馴染で家が隣同士。お互いの両親が理解した上で今の生活があることを説明してくれている。「なんだか漫画みたいだねぇ」と萌と同じことを言っている。
親子だねぇ・・・。




