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きみの隣で、今日も考えてる  作者: マリセリソウ


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第32話 そしていつもの山神家

 教室でジャージから制服に着替え終えたとき、ようやく一日が終わったという実感がじわじわと湧いてきた。体は相変わらず重いままだが、とりあえず走らなくていいという事実だけでだいぶ救われる。あとは帰るだけだと席に座ったままぼんやりしていると、後ろから肩を軽く叩かれた。


「おい山神!」


 振り返ると三浦がいた。まだテンションが高いままなのか、さっきまでグラウンドにいたときとあまり変わらない顔をしている。


「最後のラストパス、最高だった!」


 身振り手振りを交えて力説してくる。


「マジで鳥肌立ったわ!またサッカーしようぜ!遊びでもいいからよ!」


 満面の笑みで言われるが、俺の返事は決まっている。


「やらねーよ。疲れるから」


 三浦は一瞬きょとんとしたあと、すぐに「だよな!」とでも言いたげにニカッと笑った。


「まあでも、また誘うからな!」


 聞いてない。

 そう言い残して、ひらひらと手を振りながら教室を出ていく。その背中を見送りながら、あいつは体力どうなってんだと内心で呆れる。

 俺も席を立って教室を出ると、廊下の壁にもたれるようにして夏樹が待っていた。すでに制服に着替えていて、さっきまでの試合の余韻を感じさせないいつもの姿に戻っている。


「お待たせ」

「ううん、今来たとこ」


 どこかで聞いたことのあるようなやり取りをしてから、並んで歩き出す。


「山本さんは?」

「直美と一緒に病院行くって」


 ああ、さっきの捻挫か。


「店長からも連絡来てて、今日はバイト休んでいいって」

「助かるな」


 正直、今の状態で働けと言われたら泣く自信がある。


「あとね、また話聞かせてほしいって」

「……あー」


 あのマーケティングの話か。正直今は考えたくないが、提案した手前そういう訳にもいかない。頭の片隅には置いておくことにする。


「とりあえず、帰るか」

「うん」


 二人でそのまま昇降口へ向かう。途中、廊下や階段ですれ違うクラスメイトたちから声をかけられる。


「山神!お疲れ!」

「めっちゃかっこよかったぞ!」

「ナイス守備!」


 次々と飛んでくる言葉に、どう返していいのか一瞬迷う。褒められるのは慣れていないし、正直むず痒い。

 結局、何を言うでもなく、軽く手を上げて振るだけにとどめる。それでも相手は満足そうに笑って去っていくから、それでいいのかもしれない。そんなやり取りを繰り返しながら、俺たちはゆっくりと校舎の外へと向かった。



 校門を出ると、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かで、夕方に差し掛かる柔らかい光が道路を少しだけオレンジ色に染めていた。春の風はまだ少しひんやりしているが、汗をかいた体にはちょうどよくて、歩いているうちにじんわりと心地よさに変わっていく。


「ねえ創ちゃん、今日ほんとすごかったよね!」


 隣を歩く夏樹が、まだ興奮が冷めていない様子で話し始める。


「伊谷くんも加藤くんもめちゃくちゃ走ってたし、後藤くんなんて壁みたいだったし、池上くんもすごい声出してて!」

「ああ」


 適当に相槌を打つ。正直、試合中のことは断片的にしか覚えていない。


「あとね、山田くん!あの最後のセーブすごくなかった!?」

「やっぱり風の妖精ってシルフなのかな?」

「何で突然妖精の話!?」

「なんとなくだ」


 山田が時々見せていたスーパーセーブは妖精の仕業なんだ。実際見えていたみたいだし。夏樹は楽しそうに笑っている。

 通学路は、帰宅する生徒や部活帰りの連中でそれなりに賑わっていて、その中を二人でゆっくり歩く。遠くで自転車のベルが鳴ったり、誰かの笑い声が聞こえたりして、いつもの放課後の景色が広がっていた。


「三浦くんもさ、最後決めたときすごかったよね!」

「まあ、あいつは点取るのが仕事だからな」

「でも、その前のパスもすごかったよ?」


 ちらっとこっちを見る。


「……そうか?」

「そうだよ!あのタイミングでああいうパス出せるの、普通じゃないって!」

「たまたまだ」


 納得いかない顔で見られるが、これ以上話を広げるのも面倒なので肩をすくめておく。

 少し歩くと、住宅街に入って人通りも落ち着いてくる。夕飯の準備をしているのか、どこかの家からいい匂いが漂ってきて、空気が少しだけ生活感を帯びる。


「それにさ」


 夏樹が少しだけ声のトーンを落とす。


「創ちゃん、ずっと走ってたよね」

「……そうか?」

「そうだよ」


 はっきりと言い切られる。


「ずっとみんなに指示出して、守って、攻撃もして」


 少しだけ間が空く。


「ほんとかっこよかったよ」

「……あっそ」


 照れ隠しにそっけなく返すが、なぜかそれ以上突っ込んではこない。ただ、満足そうに「うん」と頷いている。しばらく無言で歩く時間が続くが、不思議と気まずさはなくて、ただ足音だけが静かに並んでいた。



 空はすっかり夕焼けに染まり始めていて、長く伸びた影が二つ、並んで揺れている。今日一日、やたらと騒がしかったはずなのに、この時間だけはやけに穏やかで。俺は少しだけ肩の力を抜きながら、そのままのんびりと歩き続けた。

 家に着くと、さっきまでの賑やかさが一気に遠のいて、いつもの静かな空間が広がっていた。玄関で靴を脱ぎながら、ようやく一日が終わったと実感する。


「じゃあ、私一回帰って着替えてくるね」

「ああ」


 夏樹はいつも通りそう言って、当たり前のように自分の家へ戻っていった。その背中を見送りながら、俺も部屋に上がり、重たい体を引きずるようにして自室へ向かう。

 制服を脱いでシャツをめくった瞬間、思わず顔をしかめた。腕、肘、膝、どこを見ても擦り傷だらけで、乾いた血がうっすらとこびりついている場所もあるし、シャツの内側に赤く滲んでいる部分もあって、さっきまで気づかなかったのが不思議なくらいだった。足に至ってはさらにひどく、靴下を脱いだ瞬間にじわっとした痛みが広がり、よく見れば爪がいくつか剥がれていて、今さらになってズキズキと主張を始めてくる。


「……今かよ」


 思わず小さくぼやく。試合中はほとんど気にならなかったのに、体ってやつは都合がいいというかなんというか、アドレナリンってやつの偉大さを他人事みたいに実感する。

 とりあえず風呂に入って流してしまおうと思い、重たい足を引きずって洗面所に向かい、そのまま風呂場の扉に手をかける。先に軽く掃除してから湯を張るか、と考えながら蛇口に手を伸ばそうとしたそのとき、ガチャリと玄関の開く音がした。

 足音がまっすぐこちらに向かってくる。

 嫌な予感しかしない。

 次の瞬間、洗面所の扉が勢いよく開いた。


「あ!やっぱり!」


 振り返ると、私服に着替えた夏樹が立っていて、俺の姿を見た瞬間に眉を寄せる。


「創ちゃん傷だらけじゃない!」

「いや、まあ……」

「“まあ”じゃないでしょ!ちゃんと処置しないと駄目だよ?」


 有無を言わせない口調でそう言うと、そのままくるっと踵を返してリビングへ向かい、迷いなく棚を開けて救急箱を取り出して戻ってくる。その一連の動きがあまりにも自然すぎて、一瞬ここがどっちの家だったか分からなくなる。


「ほら、座って」

「……はいはい」


 言われるままに大人しく座ると、夏樹は慣れた手つきで消毒液やガーゼを並べ始める。その様子をぼんやりと眺めながら、こいつほんとうちの家のこと何でも知ってるなと、またしてもどこか他人事みたいに思っていた。

 救急箱を広げながら手際よく準備を進めていた夏樹が、ふと思い出したように顔を上げて俺を見る。


「あ、そうだ。創ちゃん、実は今めっちゃ体痛いでしょ?」

「いや、別にそうでもない」


 反射的にそう答えると、夏樹は一瞬だけじっとこちらを見てから、ふふっと小さく笑った。その笑い方が妙に意味深で、嫌な予感しかしない。


「ほんとに?」

「ほんとだって」


 そう言った次の瞬間、夏樹の指が不意に俺の脇腹をつん、と突いた。


「っ、なにす――」


 驚いて身をよじると、今度は背中や足をつんつんと連続で突かれる。くすぐったさと予想外の接触に反射的に体を逃がそうとして、勢いよく動いたその瞬間、全身に鈍い痛みが一斉に走った。


「――っ!!」


 声にならない声が漏れて、その場にしゃがみ込む。遅れてズキズキと痛みが広がっていき、さっきまで無視していた体のダメージが一気に主張し始めた。


「ほらね」


 夏樹は勝ち誇ったように腕を組んでいる。


「……余計なことすんな」

「だって嘘つくからでしょ」


 けろっとした顔で言い返されて、反論の余地がないのが腹立たしい。


「ということで」


 なぜか区切りをつけるように手を叩くと、夏樹はさらっととんでもないことを言い出した。


「私も一緒に入ってあげるから、先にお風呂入っちゃおう」

「はぁ??」


 思わず間の抜けた声が出る。


「いやいやいや、何言ってんだお前」

「え?だって昔一緒に入ってたじゃん」

「それは子供の頃の話だろ」

「大丈夫大丈夫、減るもんじゃないし」


 そういうことじゃない。

 あまりにもあっけらかんとしているせいで、こっちの方が動揺しているのが馬鹿みたいに思えてくる。


「ていうかさ」


 夏樹は俺の足元を見ながら、ふと首を傾げた。


「傷だらけのときって、お風呂浸かっていいんだっけ?」

「あんまりよくないな」


 さすがにそこは即答する。


「傷口が開いてる状態で長時間浸かると、雑菌入るリスクあるし、血も出やすくなるし、あと単純にめっちゃ痛い」

「へぇー。創ちゃんの本の知識はやっぱりすごいね。勉強になるよ」

「そんなことない」


 そんなやり取りをしながらも、状況は何も解決していない。


「じゃあ今日はシャワーだけでいいね!私もそれでいいから、ちゃっちゃと入っちゃおう!濡れてもいい服取ってくるねー!」

「濡れてもいい服?」


 その声を背中で聞きながら、俺はしばらくその場で固まっていた。


「びしょびしょになっちゃうじゃん。ちょっとだけ待っててね!お風呂の暖房だけ入れておくよ」


 そう言い切ると、くるっと背を向けて軽い足取りで部屋を出ていく。 

 頭の中で状況を整理しようとして、ふと自分が一瞬でも変な方向に考えかけていたことに気づき、軽くため息をつく。


「……何考えてんだ俺」


 誰に言うでもなく小さく呟いて、ほんの少しだけ反省した。



 なんとかシャワーを終えてリビングに戻る頃には、さすがに色々と消耗していた。見られてはいけない部分にはしっかりタオルを巻いて、妙な緊張感の中でどうにかやり過ごしたが、ああいう状況でも冷静に隠し通せるテレビのバラエティ番組ってすごいんだなと、やけにどうでもいいことが頭に浮かぶ。あれは編集の力なのか、それとも人間の技術なのか、今度調べてみてもいいかもしれないと、現実逃避気味に考えながらソファに腰を下ろした。


「さ、創ちゃんの傷の消毒するよ!」


 夏樹はすでに救急箱を広げていて、逃げ場はない。


「はいはい」


 観念して足を出すと、夏樹がそれを見て一瞬固まった。


「うわっ……」


 思わず顔をしかめている。


「そんなにか?」

「そんなにだよ……これ痛くないの?」

「まあ、それなりに」


 本当はそれなりどころじゃないが、今さら弱音を吐くのも癪なので適当にぼかす。


「自分でやろうか?」

「駄目。ちゃんとやらないとだめだから」


 妙に真剣な顔で言われて、結局任せることにする。

 夏樹は消毒液を手に取り、少しぎこちない手つきでガーゼに含ませていく。慣れていないのは明らかだが、それでも慎重に、できるだけ丁寧にやろうとしているのが伝わってくる。


「いくよ?」

「ああ」


 次の瞬間、じわっとした刺激が傷口に広がる。


「……っ」


 思わず息が止まりそうになるが、なんとか表情は崩さない。


「痛くない?」

「大丈夫だよ」

「ほんと?」

「ほんと」


 完全に強がりだが、夏樹はそれ以上は追及してこなかった。ただ、少しだけ心配そうな顔をしている。

 出血している箇所には、消毒液を直接かけてからガーゼを当てていく。そのたびにじんわりとした痛みが走るが、さっきの試合に比べればどうということはないと自分に言い聞かせる。


「こっちは……うわ、爪……」

「見なくていいぞ」

「見ないと出来ないじゃん」


 軽く言い返されながらも、夏樹は慎重に処置を続ける。


「打ったところ、湿布貼る?」


 腕のあざを見ながら聞いてくる。


「いや、大丈夫だ」

「ほんとに?」

「我慢できる程度だから」


 そう答えると、夏樹は少しだけ迷ったようにしながらも「わかった」と頷いた。

 そのまま黙々と処置が続く。ぎこちないけど丁寧な手つきと、時々「大丈夫?」と確認してくる声が妙に落ち着いて、さっきまでの騒がしい一日が少しずつ遠ざかっていくような気がした。

 ひと通りの手当が終わると、夏樹は「よし」と満足そうに小さく頷き、そのまま立ち上がった。


「じゃあ、私もシャワー浴びてくるね」

「ああ」


 そう言って浴室へ向かう背中を見送りながら、ふと時計を見ると、いい感じに腹が減ってきている時間だった。ソファに座ったままぼんやりしていても仕方がないので、立ち上がってキッチンへ向かう。

 冷蔵庫を開けて中を確認すると、昼にもらった食材がいくつか目に入る。何を作るか少しだけ考えて、あまり重くなく、それでいて満足感もあるものがいいと判断し、オムライスにすることに決めた。

 自分で呟きながら卵や鶏肉、玉ねぎを取り出し、まな板の上で手際よく切っていく。包丁の音が一定のリズムで響き、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かな時間が流れる。フライパンに火を入れて具材を炒め始める頃には、頭の中もだいぶ落ち着いていた。

 しばらく料理に没頭していると、浴室の扉が開く音がして、少し遅れて足音が近づいてくる。


「いい匂いする」


 振り向くと、夏樹が濡れた髪をタオルで巻いたままキッチンの入り口に立っていた。


「オムライス?」

「ああ」

「やった」


 嬉しそうに言ったあと、少しだけ近づいてきてキッチンの中を覗き込む。


「ね、私も手伝う」

「いや、大丈夫だぞ」


 反射的にそう言うと、夏樹は少しだけむっとした顔をする。


「オムライスくらい作れるし」

「そういう問題じゃなくてだな」

「いいからいいから」


 押し切られた。ここで無理に断るのも面倒なので、軽くため息をつきながらフライパンを指さす。


「じゃあ、これ炒めといてくれ」

「任せて」


 そう言って、夏樹はフライパンの前に立つ。ぎこちないながらもちゃんと火加減を見ながら動かしているあたり、本当に最低限はできるらしい。


「ねえ」


 炒めながら、ふとこちらを見る。


「ふわふわのオムライスって作れるの?」

「ああ、まあ」


 何気なく答えると、ぱっと表情が明るくなる。


「ほんと!?作ってほしい!」


 目がキラキラしている。

 卵の消費量が増えるなと一瞬だけ現実的なことを考えるが、その顔を見ていると断る選択肢は最初からなかった。


「……わかったよ」

「やった!」


 嬉しそうにフライパンを振る姿を横目に見ながら、俺は卵をボウルに割り入れて、少しだけ苦笑した。

 フライパンを振っている夏樹に、俺は横から声をかける。


「ソースとか作る時間ないから、ライスの味はちょっと濃いめにしてくれ」

「はーい」


 素直に返事をしながら、ケチャップを少し多めに入れて炒めている。味見をしてうんうんと頷いているあたり、たぶん大丈夫だろう。

 その間に俺は卵をボウルに割り入れて、軽く塩と牛乳を少しだけ加えて混ぜる。特別な材料は何もいらない。要は火加減と手の動かし方だけだ。


「ふわふわオムライスってさ、難しそうに見えるけど、慣れれば誰でもできるぞ」

「ほんとに?」


 半信半疑の顔で見てくる。


「強火すぎない中火で、一気に流して、外側は固めずに中を半熟に保つだけ」


 フライパンを温めて油をなじませ、溶いた卵を一気に流し込むと、すぐに箸で大きくかき混ぜながら外側から内側へ寄せていく。ポイントは火を入れすぎないことと、形を整えようとしすぎないことだ。半熟の状態で火を止めて、フライパンを軽くトントンと叩いて形をまとめる。


「……え、もう?」

「これでいい」


 ぽかんとした顔で見ている夏樹の前で、皿に盛ったライスの上にそれをそっと乗せる。


「ここからが見せ場な」


 ナイフを軽く当てて中央に切れ目を入れると、閉じていた卵がふわっと左右に開き、中からとろとろの半熟部分がゆっくりと広がっていく。


「うわああああ!!」


 予想以上のリアクションが返ってきた。


「すごい!すごい!何これ!」

「慣れればできるって」


 大興奮で身を乗り出してくる。

 その横で、自分の分はもう少し簡単に仕上げることにする。卵を同じように流し込んで、軽くまとめてから、表面を滑らかに整えた“ドレスオムライス”にしてライスの上に乗せる。


「え、これも何!?綺麗すぎない!?」

「これは回してるだけだ」


 キラキラした目でオムライスを見ていた夏樹だが、ピコン!となにかを思い出したようにポケットからスマホを取り出して、目を輝かせながら聞いてくる。


「写真撮っていい?」

「どうぞ」

「やった!」


 何枚も角度を変えながら撮っている様子を見て、どんだけテンション上がってるんだと少し呆れつつも、悪い気はしない。

 ようやく満足したのかスマホをしまうと、ぱっと顔を上げる。


「熱いうちに食べよ!」

「ああ」


 二人で向かい合って座り、手を合わせる。


「「いただきます」」


 騒がしかった一日の締めくくりにしては、少しだけ穏やかな時間が流れ始めた。



 夕食を終えると、さすがに一日の疲れがどっと押し寄せてきた。食器を軽く片付けたあと、読みかけの文庫本を手に取ってソファーに腰を下ろし、そのままページをめくり始める。文字を追っているうちに、さっきまでの試合や騒ぎが少しずつ頭の外に押し出されていく。

 一方で、夏樹はテレビの前に陣取っていて、どうやらドラマに夢中になっているらしい。時折「あー!」とか「え、そうなるの!?」とか小さく声を上げているのが聞こえてくるが、内容にはまったく興味がないので、こちらは淡々と読書を続ける。

 しばらくして、喉が少し乾いてきたことに気づく。どうせなら温かいものでも飲むかと、本を閉じて立ち上がろうとしたその瞬間、体のあちこちにじわっとした違和感が広がった。


「……あ」


 一歩踏み出しただけで、太ももや背中、普段は意識しない筋肉がじんわりと痛む。さっき処置した傷とは別の種類の鈍い痛みで、どうやらこれは完全に筋肉痛らしい。


「……今かよ」


 思わず呟きながら、もう一歩進むと今度ははっきりとした痛みに変わる。


「あいたたた……」


 小さく声が漏れるのを聞きつけて、テレビを見ていた夏樹が振り返る。


「どうしたの?」

「いや、ちょっとな」

「怪我?」

「いや、筋肉痛っぽい」


 そう言いながらキッチンの方へ歩こうとすると、さらに痛みが主張してきて、歩き方が微妙にぎこちなくなる。


「何しようとしてたの?」

「温かい飲み物でも入れようかと思って」


 そう答えた瞬間、夏樹がすっと立ち上がった。


「いいよ、私がやるから」

「いや、別にそれくらい――」

「いいから座ってて」


 ぴしゃりと言い切られて、反論の余地がなくなる。


「……はいはい」


 素直に引き下がって、もう一度ソファーに座り直す。さっきまで自分でやるつもりだったのに、あっさりと任せているあたり、我ながら単純だと思う。

 キッチンでお湯を沸かす音を聞きながら、背もたれに体を預けると、じんわりと疲労が広がっていく。

 ……これじゃ完全に介護じゃないか。

 ふとそんな言葉が頭に浮かぶが、今日はもう突っ込む気力もない。


「……まあ、いいか」


 小さく呟いて、今日は大人しく甘えることにした。

 本を読み終えたところで、ふと時計に目をやるといい時間になっていた。ページを閉じて軽く伸びをしながら立ち上がる。


「……そろそろ寝るか」


 そう呟いて一歩踏み出した瞬間、脚から背中にかけて鈍い痛みが走り、思わず声が漏れる。


「いたたた……」


 ちょうどそのタイミングで、テレビのドラマもエンディングに入ったらしく、夏樹がこちらを振り返る。


「大丈夫?」

「大丈夫だ」


 と言いつつ、全然大丈夫じゃない動きになっているのは自覚している。

 そのまま二階の自分の部屋へ行こうとすると、夏樹がすっと立ち上がって前に回り込んだ。


「その体で階段は危ないよ」

「いや、行けるだろこれくらい」

「駄目!!」


 即答だった。


「じゃあどうすんだよ」

「今日は私の部屋で一緒に寝ればいいじゃん」

「は?」


 一瞬、言っている意味が理解できなかった。


「そんなことできるか」

「できるよ」

「できねえよ」


 真顔でやり取りしていると、夏樹がまた例のいたずらっぽい顔になる。


「じゃ、体にきいてみようか??」


 そう言った直後、脇腹をつん、と突かれた。


「っ……!」


 反射的に体が跳ねて、そのまま痛みに顔をしかめる。


「ほらーーー!!行くよ!」


 それみたことかと勝ち誇ったように言われて、反論の余地がなくなる。


「ちょ、待て」


 抵抗する間もなく腕を引かれ、半ば強引に隣の部屋へ連れていかれる。気づけばベッドの前まで来ていて、そのまま押し倒されるように寝かされた。


「昔は一緒に寝てたんだから問題なし」

「それは小さい頃までだって言ってるだろ……」


 起き上がろうとすると、またつん、とやられる気配を感じて動きが止まる。


「これ以上騒ぐなら、意識なくなるまでツンツンするよ?」

「なんだその脅し」


 意味が分からないのに妙に効果があるのが悔しい。

 結局、観念してそのまま布団に入ると、夏樹も何の躊躇もなく隣に滑り込んできた。


「……距離近くないか」

「気にしすぎ」


 あっさり流される。

 言い返そうとしたが、その前に意識がふっと沈み始めた。今日一日の疲れが一気に押し寄せてきて、抗う間もなく瞼が重くなる。

 体も頭も限界らしい。

 そのまま何も考えられなくなっていく中で、かすかに夏樹の声が耳に届く。


「今日はお疲れ様。おやすみ創ちゃん。――――だよ」


 後半はよく聞き取れなかったが、考える余裕もなく、そのまま深い眠りに落ちていった。

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