第28話 球技大会 決戦前夜(昼)
試合が終わって、ようやく人間としての形を取り戻しつつあった頃、俺はベンチに座って水をあおりながら、もう二度と走らないと心に誓っていた。なお、数十分後にはその誓いが無効になることは経験上わかっている。
そんなことを考えていると、クラスの男子が数人、妙にそわそわした様子で近づいてきた。
「なあ山神」
「……なんだ」
「お前さ、イングランドのクラブチームのユースにいたって……本当か?」
――は?
思わず動きが止まる。なんでそれを知っている。
俺はゆっくりと顔を上げて、ある方向を見る。そこには、明らかに視線を逸らそうとしている幼馴染がいた。
目が合う。
夏樹は一瞬だけにこっと笑って、ぺろっと舌を出しながら「ごめんね」と口パクで伝えてきた。
……お前か。
いやまあ、予想はしてたけども。俺は小さくため息をついてから、もう一度男子たちの方を見る。
「別に隠してたわけじゃないけど、わざわざ言うことでもないだろ」
できるだけ淡々とそう答えると、男子たちは顔を見合わせてざわつき始める。
「いやいやいや、わざわざ言うことだろ!?」
「なんで黙ってんだよ!?」
「そりゃあの動きするわけだわ……」
好き勝手言われているが、正直どうでもいい。
そんな中で、少し離れたところにいる高原、広田、三浦の三人が、妙に納得した顔でこちらを見ていた。
「ああ、なるほどな……」
「だからか……」
「そりゃあな……」
お前ら、その反応はなんなんだ。妙に腑に落ちた顔をされると、それはそれで気になるんだが。
水を飲んで一息ついていると、横からひょこっと顔を覗き込まれた。
「創ちゃん、声枯れてるね」
「そりゃサッカーすりゃな」
短く返すと、自分でもわかるくらい声がガサついていた。喉が完全にやられている。
周りを見れば、高原も広田も似たようなもので、何か話そうとするたびに「……ガッ」「……カスッ」といった擬音みたいな音が出ている。サッカー部員ですらこれなんだから、俺が無事なわけがない。
そんなことを思っていると、その高原がこっちに歩いてきた。
「山神」
「なんだ」
「イングランドのクラブの元ユースってわかったなら、次の決勝は遠慮なく提案させてもらうぞ」
さらっととんでもないことを言ってくる。
「……大昔の話だぞ。あんま期待すんな」
「いや、今までのプレー見てたら期待しかない」
軽く手を振りながらそう返すと、高原は一切迷いなく首を横に振った。広田と三浦も後ろでうんうん頷いている。なんだその信頼の置き方は。重い。
俺はなんとも言えない顔で視線を逸らした。
そのタイミングで、クラスメイトたちがまた騒ぎ始める。
「次勝てば優勝だぞ!!」
「絶対勝てよおおお!!」
「俺たちの未来がかかってるからな!!」
未来て…。なんでご褒美って言わねぇんだ。しかし……。
「動機が不純すぎるだろ……」
横で夏樹がくすっと笑った。
クラスメイト達が集まって次の試合に向けた応援ミーティングをしていると、別のコートからゆっくりと歩いてくる二人の姿が見える。
川村と、その半歩後ろにぴたりとついてくる西海。
嫌な予感しかしない登場の仕方だし、実際その予感はだいたい当たる。俺が内心でため息をついたのと同時に、川村は迷いなく夏樹の前で足を止めた。周りの空気が、ほんの少しだけ張り詰める。
「広瀬さん。次、いよいよ対戦だね」
声は柔らかくて、表情も爽やかで、いかにも好青年という感じなのに、なぜかその場の温度が少し下がる。夏樹は一瞬だけ視線を泳がせてから、小さく返す。
「対戦するのは……私じゃないけどね」
「はは、そうだね」
軽く笑って、川村は続ける。
「でも、一方的な試合になっちゃいそうで申し訳ないなと思ってさ。とはいえ勝負事だから、手を抜くわけにもいかないし……そこはごめんね」
――言い方。やんわりしているようで、しっかりと棘がある。しかも“気遣い”の形をしている分、余計に厄介だ。
夏樹は完全に返答に困って、口を開きかけては閉じるを繰り返している。その空気を見かねたのか、すっと前に出たのは柴田さんだった。
「ずいぶん余裕ね」
にこっと笑っているが、目が一切笑っていない。
「まだ試合も始まってないのに、勝つ前提で話してるなんて」
言葉は柔らかいのに、完全に迎撃態勢だ。
「うちのチームも、なかなかやるわよ?」
その一言に、周りのクラスメイトたちも「そうだそうだ」と小さく頷く。すると、間髪入れずに西海が口を挟んできた。
「いや、でも実力差は明らかじゃない?川村がいるチームが負けるとか、普通に考えてありえないでしょ」
さらっと言い切るあたり、ある意味すごい。
「……そういうの、普通は自分で言わないものよ」
柴田さんが少し呆れたように返すが、西海は気にした様子もなく肩をすくめている。
一方で川村は、ほんの少しだけ困ったような顔を作ってから口を開いた。
「まあまあ、西海」
そう言いつつも、否定はしない。
「忠告だよ。決勝まで来たんだから、お互いに油断せずに戦おうっていうね」
どこまでも“正しいことを言っている風”なのが、逆に神経を逆なでする。
その流れで、なぜか視線がこちらに向く。
「ほら、山神も何か言ったらどうなの?」
柴田さんが横から振ってくる。
「なんで俺だよ」
「何よ、イングランドのユース出身なんでしょ?うちの学校で一番サッカー上手いんじゃないの?」
「そんなわけないだろうが」
「……イングランドのユース?」
川村が少しだけ眉をひそめてこちらを見る。
ああ、そこに食いつくのか。予想通りだが、面倒くさい。俺は軽く手を振って、できるだけどうでもよさそうに答える。
「気にすんな。昔々、そのまた昔の話だ。お前の足元にも及ばんから安心しろ。それに球技大会だろ?気楽にやろうぜ」
視線を逸らしながら続ける。少しだけ場の温度を下げるつもりで言ったが、川村はすぐには答えなかった。
一瞬だけ、こちらをじっと見る。
そのあと、小さく笑った。
「気楽に、ね……」
どこか含みのある言い方だったが、俺は気にせず肩をすくめる。
「そ、気楽にな」
短く返すと、横で夏樹がほっとしたように小さく息を吐いたのがわかった。たぶん、少しだけ緊張が解けたんだと思う。
……まあ、俺は最初から最後まで面倒くさいとしか思ってないんだが。
ひとしきり言いたいことだけ言って満足したのか、川村はくるりと踵を返したが、そのまま立ち去るかと思いきや、ふと思い出したように振り返った。
「そうだ、広瀬さん。今日の球技大会の後、また声をかけるからさ。少し時間、空けておいてくれる?」
さらっと言う。しかも断る余地を与えない言い方で。
夏樹は一瞬だけ目を見開いてから、慌てて口を開いた。
「そのことなんだけど――」
たぶん、さっき言えなかった“断り”をここで伝えようとしたんだと思う。
だが。
「うん、楽しみにしてる」
最後まで聞かない。というか、聞く気が最初からない。川村はそれだけ言うと、もう一度軽く笑って、そのまま背を向けて歩き出した。
……いや、マジで。
「あいつ、人の話聞く気あるのか?」
思わず小声で呟くと、近くにいた何人かが同時に頷いた。
その後ろを、西海が当然のようについていく。
「さすが川村だよな、余裕が違うわ」
なぜか誇らしげだ。お前が誇る要素どこにある。
二人の背中が人混みに紛れていくのを見送りながら、場に残された空気は、なんとも言えないものになっていた。
その中で、まず爆発したのが柴田さんだった。
「なによあいつ!」
ぷりぷりしている。
いや、ぷりぷりというよりは、かなりしっかり怒っている。
「人の話聞く気ゼロじゃない!?」
「まあまあ、直美ちゃん、落ち着いてください」
横で山本さんが慌ててなだめているが、柴田さんは腕を組んだまま納得していない顔だ。
「落ち着いてられる?あれ完全に“決めつけ”じゃない」
「そうですけど……でも、ああいう人なんだと思います……」
萌は苦笑いしながらフォローしているが、あまりフォローになっていない。一方で、当の夏樹はというと、少しだけ困ったような顔で川村たちが去っていった方向を見ていた。
さっきの言葉を飲み込んだまま。
そこへ、高原が一歩前に出る。
そして、なぜか急に声を張り上げた。
「いいかお前ら!」
その声に、クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。
「クラスの宝である広瀬夏樹さんは、俺たちが絶対に死守する!!」
――何を言い出した。
一瞬の静寂のあと。
「「「「「「おおおおおおおお!!」」」」」」
謎の盛り上がりが発生した。
「「「「守るぞおおおおお!!」」」」
「「「「絶対渡すなあああああ!!」」」」
「「「「命に代えても守る!!」」」」
いや重い重い重い。しかも女子も混ざっている。
「「「そうよ!夏樹はうちのクラスのものよ!!」」」
方向性がおかしい。もう完全に何か別の戦いが始まっている。俺はその様子を見ながら、ゆっくりと夏樹の方に視線を向けた。
「……三大美少女に加えて、“宝”になったらしいぞ」
小声でそう言うと、夏樹はびくっと肩を震わせてこっちを見た。
「なってない!!」
「いや、さっき正式に認定されてたぞ」
「されてないから!!」
顔を赤くしながら必死に否定してくる。
「というか創ちゃんも止めてよ!」
「無理に決まってるだろ」
「…………」
言い返してこないということは無理なことは伝わったようだ。なによりだ。その間にも、クラスメイトたちの士気は無駄に高まり続けている。
クラス全体が「守れ!宝!」みたいな、よくわからない方向にテンションを振り切っている中で、ふいに肩を軽く叩かれた。
「山神、ちょっといいか」
振り返ると高原だった。いつもの軽いノリではなく、少しだけ真面目な顔をしているあたり、どうやら本題らしい。
「……逃げ場のないやつか?」
「逃がさねえよ」
ですよね。
仕方なく人の輪から少し離れて、高原と二人でグラウンドの端に移動する。さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、ここだけ少し静かだ。高原は一度だけ深く息を吐いてから、まっすぐこちらを見る。
「次の試合、川村がキーマンになる」
「まあ、だろうな」
それは全員が思っていることだ。
「だから、少し戦い方を変える」
俺は黙って続きを促す。
「フォーメーションを変える。3-1-2-1から、3-3-1」
「……一枚上げるのか」
「ああ」
「その一枚、お前だ」
やっぱりか。
「今までより前目のポジションを取ってもらう。そこでボールを何とかキープしてほしい」
「簡単に言うなよ」
思わず苦笑いが漏れる。
「相手、あのチームだぞ。全員サッカー部員なんだぞ?」
「わかってる。でも、お前ならできる」
迷いなく言い切られると、逆に困る。いや、できるかできないかで言えば、まあできると思うんだが。問題はそこじゃない。
「……で、守備は?」
「ディフェンスのときは、川村をマンマークしてくれ」
「お前がつくことで、あいつの自由を奪う。後藤や池上のカバーは俺と広田で見る」
「CBと距離空くぞ?」
「怖いけどな。でも、それ以上に川村を自由にさせる方が怖い」
理屈は通っている。むしろ、かなり合理的だ。
……だから余計に面倒くさい。
「つまり俺は、前でボールキープしながら、戻ってマンマークもして、さらにカバーもするってことか?」
「ざっくり言うとそうだな」
「無茶だろ」
業務量がおかしい。ブラック企業か。
高原は少しだけ申し訳なさそうに笑うが、その目は本気だ。
「攻撃は、三浦に頼るだけじゃ厳しいのはもうバレてる」
「まあな」
「だから、前で時間を作る。お前がボールを収めてくれれば、その分だけ相手の攻撃回数が減る」
「時間稼ぎ役ってことか」
「それだけじゃない」
高原は指で前線の位置をなぞるように空中で動かす。
「伊谷と加藤にも前で受けたらとにかくシュート打てって言ってある」
「……マジで?」
「マジだ」
思わず笑いそうになる。
「雑じゃね?」
「雑だよ。でもそれでいい」
開き直りがすごい。
「ターンオーバーを減らすことが目的だ。中途半端に崩されるくらいなら、無理でも打って終わらせる」
「なるほどな……」
確かに、相手の攻撃回数を減らすという意味では理にかなっている。
「で、守備は俺が川村に張り付く、と」
「ああ。あいつが機能しなければ、相手のバランスは崩れる」
「崩れなかったら?」
「そのときは、まあ……気合だな」
高原は一瞬だけ言葉を止めてから、肩をすくめた。
「最後、最後雑すぎるだろ!!!」
思わずツッコミが出る。
だが、言いたいことはわかる。結局のところ、このレベルの試合で最後に物を言うのは、気合とか根性とか、そういうやつだ。
「あと、基本は変わらない。しっかり守ってカウンター。チャンスは少ないけど、そこを決める」
「三浦頼みは継続か」
「エースだからな」
それも間違いない。少しの間、二人で無言になる。
グラウンドの向こうでは、まだクラスメイトたちが騒いでいる。
「宝を守れ!」とかいう謎のスローガンが、風に乗ってこっちまで聞こえてくる。
「……なあ高原」
「ん?」
「俺、なんでこんな働かされてんの?」
「お前が一番動けるから」
即答だった。少しも迷いなく言い放ちやがった。
俺は小さくため息を吐いて、頭を軽く掻いた。
「……まあいい」
どうせここまで来たんだ。今さら手を抜く気もない。
「やるよ。その代わり」
「ん?」
「終わったら読書時間返せ」
「それは無理だ」
「即答すんな」
高原は笑いながら肩を叩いてきた。
「頼んだぞ、山神」
「はいはい」
軽く手を振って返しながら、俺はもう一度グラウンドの方を見る。
――さて。
ブラック業務、最終ラウンドらしい。




