第20話 この店がなくなると困る
水曜日。食堂やまもとの定休日。
定休日だからといって、店の人間が完全に休めるわけではないらしい。昨日その話を店長が何気なくしていたのを思い出しながら、俺はグラウンドの端で息を整えていた。球技大会の練習は今日も今日とて容赦がない。定休日だからといって、サッカーの練習まで休みになるわけでもないらしい。世の中、休みとは何なのかを問い直したくなる。
「創ちゃん、顔が死んでる」
隣で同じように息を整えていた夏樹が、タオルで首元を拭きながら言った。
「生きてる。ギリギリな」
「ギリギリなんだ」
「今日は定休日だっていうから、てっきり体力も温存できるかと思ったんだが」
「サッカーの練習は普通にあったもんねぇ」
普通にあった。しかも高原たちが「今日は定休日だから長めにいけるな!」とか言い出した時は、こいつらは人の心を持っているのかと少し思った。結果的に長めどころか濃いめだった。胃もたれするタイプの練習だった。
ボールを片付けながら高原たちがまだ何か話している。その横で、伊谷と加藤が毎度おなじみの屍と化し、後藤は座り込んだまま夕日に向かって無言で呼吸を整えている。池上はタオルを顔にかぶっていて、山田は今日も花壇を見ていた。たぶん妖精は今日も元気だ。
「で、どうするの?」
夏樹が聞く。
「何が」
「食堂のこと。昨日、話すかもって言ってたじゃん」
俺はタオルで汗を拭きながら、一度だけ空を見る。夕方の色になりかけた空は、いかにも何かを決めるにはちょうどよさそうな顔をしていた。こっちはそんな空模様に付き合う気はないんだが、タイミングというのは勝手に来る。
「……山本さんに連絡してみる」
「お、行くんだ」
「行くだけな。話を聞いてもらうだけだ。提案であって、命令じゃない」
「はいはい」
夏樹は少し笑い、スマホを取り出した。俺より行動が早い。
「じゃ、私から萌に送っとくね。創ちゃんが“相談したいことある”って」
「待て、言い方」
「大丈夫大丈夫。丸くしとくから」
何をどう丸くするのか分からないが、夏樹が送ったメッセージはすぐに既読になったらしい。
「お、萌から返事きた。『お父さんもお母さんもいるので、ぜひ来てくださいです!』だって」
「……早いな」
「定休日だから家にいるんじゃない?」
「そりゃそうか」
俺たちは荷物をまとめ、学校を出た。いつもの帰り道だが、今日は向かう先が家ではなく食堂やまもとだと思うと、少しだけ足取りが変わる気がする。練習終わりの体は重いのに、頭の中だけが変に冴えていた。こういう時は大体ろくなことにならない。考えすぎる癖が出るからだ。
住宅街を抜け、商店街に入ると、定休日の店が並ぶ通りはいつもより静かだった。シャッターの下りた店が多い中で、食堂やまもとの前だけ明かりがついている。暖簾は出ていないが、ガラス越しに人影が見えた。
「なんか緊張してきた」
夏樹が小声で言う。
「なんでお前が」
「創ちゃんが変なこと言い出さないか心配で」
「失礼な」
「でも、ちょっとあるでしょ?」
「……ゼロではない」
夏樹が吹き出した。
引き戸を開けると、カラン、と音がした。営業中ではない店内は、いつもより少し広く感じる。客席には誰もいない。照明も半分だけ点いていて、昼と夜の間みたいな空気だった。
「いらっしゃいませ……って言うのも変ですね」
カウンターの向こうで、萌がぱたぱたとこちらに近づいてきた。私服姿だが、エプロンをつけている。定休日でも店の中ではその格好なんだな、と変なところに感心する。
「悪いな、休みの日に」
「いえいえ! むしろ楽しみにしてました!」
何を楽しみにされているのか少し怖い。
厨房の奥から店長が顔を出した。さらにその横には、椅子に腰掛けた奥さん――山本恵理子さんもいる。松葉杖はすぐ手の届くところに立てかけられていたが、昨日よりずいぶん顔色がいい。
「やあ、いらっしゃい」
店長が穏やかに笑う。
「話があるんだって?」
そこで俺は一瞬だけ止まった。いざ真正面から言われると、やっぱり少し身構える。定休日の店に高校生のバイトが来て、「経営の話が」と言う。普通に考えればだいぶ図々しい。
「……相談、というか、考えてることが少しあって」
「聞きたいわ」
そう言ったのは奥さんだった。
椅子に座ったまま、でもはっきりとした声でこちらを見る。
「昨日の続きでしょう? 若い人の意見って、案外見落としてるところを拾ってくれるのよ」
「そうだね。最終的に判断するのは僕たちだけど、新聞配達の一件が君の手腕だと聞くと、とても期待が持てるね」
店長も頷く。
その言い方が、ありがたかった。聞く前から全面的に持ち上げるわけでもないし、逆に子ども扱いして流すわけでもない。店長らしい受け止め方だ。
山本さんはというと、すでにノートとペンを持ってきていた。
「メモ取ります!」
「おぉ…。やる気満々だな」
「難しい話はわからないかもですが、頑張ります!」
それはそれで助かる。
俺たちは客席の一つに腰を下ろした。営業中なら常連が陣取っていそうな四人席に、今日は店の人間と高校生が向かい合っている。定休日の店内に、こういう形で座るのは妙な感じだ。客として来ているのか、バイトとして来ているのか、自分でもよく分からない。
少しだけ沈黙が落ちる。
俺は水を一口飲んでから、口を開いた。
「まず前提として、食堂やまもとは、角のチェーン店と同じやり方では勝てないと思ってます」
萌のペンがカリッと鳴る。夏樹も、横で妙に真面目な顔をしている。
店長は腕を組まず、ただ静かに頷いた。
「理由を聞いてもいいかな」
「はい。あっちは“安い・入りやすい・団体で使いやすい”が明確です。しかもチェーンだから、仕入れも広告も、ある程度は仕組みで回せる。食堂やまもとが同じ方向に寄せても、劣化コピーになるだけです」
「うん」
店長はすぐに否定しない。まず最後まで聞くつもりらしい。
「だから戦う場所を変える必要があると思ってて」
「戦う場所、ですか」
奥さんが目を細めた。たぶんこの人は“言葉の置き方”を見るタイプだ。話の中身だけじゃなく、どう整理されているかも見ている。
「チェーンが“便利さ”で選ばれる店なら、こっちは“関係性”で選ばれる店になる方がいいと思います」
「関係性……ですか?」
「簡単に言うと、“ここがなくなったら困る”って思う人を増やす、です」
萌は「ほえぇ」と言い、夏樹は隣で小さく頷く。店長と奥さんは表情を変えない。ただ、目線はこっちから外れない。
「味がおいしい、だけじゃなくて、ここに来る理由がもう一つ二つ増えれば、安さだけでは動きにくくなると思うんです」
「例えばどんなものがあるかな?」
「例えば、地域の中で、情報と人が集まる店になることです」
「情報と人……か」
「はい。例えば店内の一角に掲示板を置く。商店街のチラシ、地域のお知らせ、イベントの案内、そういうものを貼る。飯を食いに来るだけじゃなく、“ここに来れば何か分かる”っていう場所にする」
そこで山本さんが、おそるおそる手を上げた。
「それって……食堂なのに、ですか?」
「食堂だから……だよ」
自分で言いながら、少しだけ語気が強くなった気がした。まずい、熱が入ってきている。
「チェーン店は効率重視だから、ごちゃついたことをやりにくい。でも食堂やまもとは違う。もともと地域の人が来て、店長や奥さんと話して、看板娘の山本さんがいる。つまり顔が見える店です。掲示板があっても不自然じゃない」
奥さんが口元に手を添えたまま、楽しそうに言う。
「なるほど。お店っぽさを減らすんじゃなくて、逆に“地域っぽさ”を強めるのね」
「そうです」
その反応で少し楽になる。伝わっていない相手に説明するのと、半分分かってくれる相手に説明するのでは、息の詰まり方が違う。
「あと、一人客をもっと大事にした方がいいと思ってます」
「一人客」
店長が繰り返した。
「はい。チェーンは団体客や若いグループには強い。でも一人で入りやすいかって言われると、そうでもない。やまもとはカウンターもあるし、店の空気も落ち着いてる。一人で来る人には、こっちの方が居心地がいいはずです」
「それは意識していたつもりだけど……改めて言葉にされると、確かに強みだね」
「たぶん、そこをもっと“自覚的に”した方がいいです」
「自覚的に?」
今度は山本さんが聞く。
「例えば、ただ静かにしてるだけじゃなくて、“一人でも来やすい店”として整える。おすすめの出し方とか、席の見せ方とか、メニューの置き方とか。小さいことですけど」
山本さんは難しそうな顔をしたが、すぐに「一人でも来やすい……」と書き留めた。分からないなりに、ちゃんと拾おうとしているのが分かる。
夏樹がそこで口を挟んだ。
「創ちゃんが言いたいのは、言い方が悪いけど“わざわざ”来たくなる理由を増やすってことだよね」
「まあ、そう」
「安いから来る、じゃなくて、落ち着くから来る、とか、知り合いに会えるから来る、とか」
「そんな感じ」
奥さんがふっと笑った。
「説明が上手ね、夏樹ちゃん」
「創ちゃんの通訳には慣れてます」
「誰の通訳だ」
「難しいことを難しく言う人の」
余計な一言だが、場が少し和んだのでよしとする。
俺はその空気のうちに、もう一歩踏み込むことにした。
「それと、常連さんを“ただ来る人”で終わらせない方がいいと思ってます」
「どういう意味かな」
「関わってもらうんです」
店長の眉が少しだけ動く。
「例えば、常連さんのおすすめ定食とか、季節のメニューについて一言もらうとか。小さくでも“自分がこの店に関わってる”って思えると、人はその場所を手放しにくくなる」
「参加してもらうってことね」
奥さんの理解が早い。
「はい。参加すると、その店が“自分ごと”になります。そうなると、安い店ができたからすぐ移る、とはなりにくい」
そこまで話したところで、店長がゆっくり息を吐いた。
「面白いね」
その言い方に、俺は少しだけ肩の力を抜く。
「全部を一気にやる必要はないと思ってます。むしろ、やらない方がいいです」
「うん」
「まずは小さく始める。掲示板でも、一人客向けの見せ方でも、一つ二つ」
店長は顎に手を当てたまま考えている。奥さんは、俺ではなく店長の方を見ていた。たぶん今、頭の中で「実行できるか」と「続けられるか」を分けている。
山本さんがおそるおそる聞いた。
「それって、すぐ効果が出ますか?」
「すぐは出ないと思う」
俺は正直に答えた。店長や奥さんにも伝える。
「即効性があるのは、値引きとかイベントとか、分かりやすく人を呼ぶやつです。でもそれは切れやすい。今回必要なのは、少しずつ効いて長く残るものだと思ってます」
山本さんは真面目な顔で頷いたが、正直まだ半分くらいしか分かっていないだろう。けど、それでいい。全部を一回で理解する必要はない。
「ただ」
ここで、俺は少しだけ言葉を選んだ。
「俺、ずっとここにいるわけじゃないんで」
店長と奥さんの目線が、少しだけ変わる。
「高校卒業したら、どうなるか分からない。だから、俺がいなくなっても回る形じゃないと意味がないと思ってます。俺が全部やるやり方は、たぶんダメです」
少し静かになった店内で、奥さんが先に口を開いた。
「それは、ちゃんと考えてくれてるのね」
「……考えすぎかもしれませんけど」
「ううん。大事なことよ」
店長も、静かに頷いた。
「その視点は助かる。提案する人が、そこまで含めて考えてるのはありがたい」
ありがたいと言われると、逆にむずがゆい。俺はただ、後で困るのが嫌なだけだ。
その時だった
店の外から、聞き覚えのある声がした。
「おーい、電気ついてると思ったら、なんだ会議中か?」
引き戸の向こうに立っていたのは、あの大工の常連二人だった。例のセクハラ未遂コンビである。今日は作業帰りらしく、私服の上からまだ木くずが少し付いている。
「定休日ですよ?」
俺が言うと、片方が笑った。
「いや、見りゃわかるよ。通ったら明かりついてたからな。恵理子さんの顔でも見て帰ろうかと思って」
もう片方が店内を覗き込み、妙に楽しそうに言う。
「で、何の話だ? ただならぬ顔してるぞ、みんな」
店長が少し笑って答えた。
「ちょっと、店のことをね」
「おっ、経営か何かの会議か!?」
大工の二人は、すでに勝手に店内へ入ってきていた。定休日だぞ、という概念はこの人たちには薄いらしい。まあ、常連だからか。
「どんな話だ?俺らにも教えてくれよ!力になれるかもしれない」
店長がちらっとこちらを見る。追い出す気はないらしい。
俺は少し迷ったが、どうせこの人たちにはそのうち協力してもらう可能性もある。なら、聞かせてもいいかと思った。
簡単に、今話していた内容を説明する。地域の掲示板、一人客、関係性、常連の参加。言っているうちに、大工の二人の顔がだんだん真面目になっていくのが分かった。
「……なるほどなあ」
片方が腕を組む。
「安さじゃなくて、“ここじゃないとダメ”を増やすってわけか」
「まあ、ざっくり言えば」
「面白いじゃねえか」
もう片方が言った。
「俺ら、そういうの得意だぞ!」
「え?」
山本さんが目を丸くする。
「本当かい?」
店長が聞くと、大工の片方が胸を張った。
「掲示板作るなら、木材余ってるし作ってやる。店の雰囲気に合うやつ、簡単なのでいいならすぐできる」
「おお……」
山本さん一家がが本気で感心している。
「あと、工事仲間とか一人で飯食うやつ多いから、そういうのにも声かけられるぞ。『ここ入りやすいから行ってみろ』ってな」
「常連が常連を連れてくる、ってやつね。それだと“紹介された店”になるから、最初のハードルも下がるわ」
奥さんが嬉しそうに言う。
俺は少しだけ驚いていた。思ったより話が早い。
「これは、思ったより面白くなってきたな」
店長が小さく笑った。
萌はノートに急いで何か書き込みながら、顔だけ上げて言う。
「じゃ、じゃあ、掲示板から始める感じですか!?」
「そうだね。いきなり全部はできない。でも一つずつならできる。まずは掲示板。そこから、“この店は地域の店なんだ”って見える形にしていこう」
「賛成」
奥さんがすぐに言う。
「あと一人客向けの見せ方も、少しずつ変えたいわね」
「うん。そっちは僕と君で考えよう」
店長と奥さんの間で視線が交わる。その空気に、長く一緒に店をやってきた人たちの呼吸があった。俺がいなくても、この二人なら回していける。そう思えるやり取りだった。
夏樹が横で小さく笑う。
「やっぱり創ちゃん凄いね」
「まだ何も始まってない」
「でも動いた」
それは、まあそうだ。
大工の二人は、勝手にやる気になっていた。
「よし、明日図面考えてくるわ!」
「いや、そこまで大げさじゃなくていいんですけど」
「遠慮すんなって!」
「何の押し売りだよ!」
店内に笑いが広がる。
定休日の食堂やまもとは、営業していないはずなのに、いつもより少しだけ“開いている”感じがした。人がいて、話があって、次の何かが動き出している。
たぶん、これが欲しかったんだと思う。
安さじゃなくて、こういう動きだ。
店長が最後に、静かに言った。
「山神くん」
「はい」
「提案、ありがとう。全部採用するかはこれから考える。でも、聞けてよかった」
「……どうも」
「それと」
店長は少し笑った。
「君、たぶん思ってるより、うちの店に向いてるよ」
それには、明確にお断りを入れておいた。夏樹がこっちを見ながら何か言いたげにしているが無視する。代わりに、テーブルの上のコップの水を飲んだ。冷たくて、少しだけ喉に引っかかった。




