第18話 静かな一日の終わり
食器を洗い終えて手を拭いたところで、テーブルの上に置いていた携帯が小さく震えた。画面を見るとメールが一件。
差出人は――父、山神俊美。
「お、珍しい」
あの人は基本的に用事がある時しか連絡してこない。しかも短い。びっくりするくらい短い。昔、母が
「あなたのメールは電報みたい」と言っていたのを思い出す。
メールを開く。
――電波の届く場所まで来たので一応連絡。
――まだ落ち着かないが二人とも無事。
――そっちは大丈夫か。
……以上。
「やっぱり短いな」
思わず苦笑が出る。でも、“二人とも無事”の一文を見た瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがすっと軽くなった。
とりあえず返信する。
――こっちは問題なし。
――飯も食ってる。
――無理しないで。
送信。
……うん。気づけば俺のメールもだいぶ短くなっている。
「まあ、血か」
いや、環境かもしれない。
携帯を机に置いて、俺は小さく息を吐いた。少なくとも今日は、安心して眠れそうだ。
風呂場の方から、がちゃりとドアの開く音がした。
続いて、ふわっと湯気が廊下に流れ出てくる。うちの風呂は換気がそこまで強くないので、誰かが入った後はだいたい廊下が温泉地みたいになる。
「はぁ~……生き返った~」
そんな声と一緒に現れたのは、当然ながら夏樹だった。
頭にはタオルがぐるぐると巻かれている。黒く長い髪がすっぽり収まっていて、見た目はなんというか――温泉旅館の朝みたいだ。しかも本人はほくほくと湯気を立てている。人間から湯気って本当に出るんだな、と妙なところで感心する。
パジャマは春の終わり頃にちょうどいいくらいの薄手の生地で、動くたびにゆるく揺れる。完全に風呂上がりモードだ。
夏樹は廊下をぺたぺた歩いてきて、そのままリビングのソファーにどさっと座った。
……俺の横に。
「創ちゃん」
「なんだ」
「プリン」
単語だった。
「取ってこい」
「風呂上がりなんですけど」
「だから何だ」
「疲れてるんですけど」
「風呂入っただけだろ」
「精神的に疲れてる」
「どんな風呂だよ」
俺が呆れていると、夏樹はソファーの背もたれにだらっと寄りかかりながらこちらを見てくる。目が完全に“取ってくれるでしょ?”と言っている。
「……自分で取れ」
「創ちゃん優しいから」
「それは理由になってない」
「でも取ってくれるでしょ?」
なんで確信してるんだ。
俺はため息を一つついて立ち上がる。……ほらな、結局こうなる。
台所に行き、冷蔵庫を開ける。中には例のプリンが一個。
ちなみにこれは、夏樹の分だ。俺のじゃない。俺は買っていない。というか、最初から夏樹が食べる前提で買わされた。
「ほら」
プリンを取り出して振ると、夏樹がソファーからぴょこっと顔を上げる。
「おお~」
犬か。
俺はついでにコップを取り出し、水道から水を入れる。
プリンと水を持って戻ると、夏樹はさっきと同じ姿勢のまま待っていた。完全に待機モードだ。動く気配がない。
「はい」
テーブルにコップを置く。
「プリンの前に水」
「えー」
「えーじゃない」
俺は冷静に言う。
「風呂上がりは水分補給が大事なんだよ。汗かいてるんだから」
「そんなに汗かいてないよ」
「風呂入ったら普通かく」
「創ちゃん急にお母さんみたい」
「うるさい」
夏樹は渋々コップを持ち、ぐいっと水を飲んだ。
「ぷはぁ」
「全部飲め」
「まだ飲むの?」
「半分くらい飲めばいい」
「細かい」
ぶつぶつ言いながら、もう一口飲む。
俺はその様子を確認してから、プリンの蓋を剥がした。ぺりっと気持ちいい音がする。
スプーンも一緒に渡す。
「はい」
夏樹はそれを受け取って、目を輝かせた。
「待ってました」
「大げさだな」
「風呂上がりプリンは世界を救う」
「救わない」
「救うよ」
そう言って、夏樹はスプーンを構える。
……完全に満足そうだ。
俺はその様子を見ながら、ソファーに座り直した。
結局こうして世話を焼いてしまうあたり、俺も甘いのかもしれない。いや、甘いのはたぶんプリンだ。俺じゃない。たぶん。
ソファーに座り直した俺は、何となく携帯の画面をもう一度開いていた。さっき届いたメールを、特に意味もなくもう一回確認する。短い文章だが、それでも見ていると安心するものだ。
隣では、夏樹がプリンを一口すくって満足そうな顔をしている。完全に風呂上がり幸福モードだ。
その夏樹が、ふと俺の手元を覗き込んだ。
「創ちゃん、何見てるの?」
「ん?」
「さっきから携帯見てる」
「ああ」
俺は画面を軽く振って見せる。
「親からメール来た」
「え!?」
夏樹の反応は早かった。スプーンを持ったまま、ぱっと顔を上げる。
「ほんと!?大丈夫だったの?」
「無事らしい」
「よかったぁ……!」
心の底から安心したような声だった。自分のことのように喜んでいる。
「まだ落ち着いてないみたいだけど、とりあえず二人とも元気だって」
「そっか……」
夏樹はほっと息を吐いて、ふわっと笑った。
「早く落ち着くといいね」
その言い方が、妙に優しかった。まるで自分の家族のことみたいに。
「……そうだな」
俺も自然に頷く。
隣を見ると、夏樹が柔らかい表情でこっちを見ていた。なんというか、安心した人を見る顔だ。女神か何かだろうか。
正直、こうやって隣にいてくれるのはありがたい。
口には出さないけど。
俺がそんなことを思っていると――
夏樹の表情が、にやっと変わった。
「……?」
嫌な予感しかしない。
「おい」
「ん?」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「何か企んでる顔」
夏樹はにこにこしたまま、スプーンでプリンをすくう。そして、そのまま俺の前に差し出した。
「あ~ん」
「……は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「あ~ん」
「いやいやいや」
俺は軽く後ろに引く。
「なんだそれ」
「プリン」
「見ればわかる」
「ほら」
「ほらじゃない」
俺は思い出した。
「おい、それってさ」
「うん?」
「球技大会のご褒美じゃなかったっけ?」
あのクラス全体を狂わせた、例のやつだ。
夏樹は一瞬きょとんとしたあと、さらっと言った。
「幼馴染はいいの」
「……は?」
「特別枠」
「そんな枠あったか?」
「今できた」
「今かよ」
俺が呆れている間も、夏樹はスプーンを差し出したままだ。
「あ~ん」
「……」
……まあ、プリンだしな。
俺は少しだけため息をついて、口を開ける。
「あー」
ひょい、とプリンが口に入った。
甘い。
普通にうまい。
「どう?」
「普通にプリン」
「でしょ?」
夏樹は満足そうに笑った。
……しかし。
幼馴染はいいって、どういう理屈だ?
俺には、いまだにその基準がよくわからない。
風呂場のドアを閉めると、ようやく一人の空間になった。時計を見ると、22時30分。まあ、いつもの時間よりは少し遅いくらいだ。
服を脱いで、シャワーをひねる。温かい湯が肩に当たると、今日一日の疲れがじわっと浮き上がってくる。
「……ふぅ」
サッカーの練習に、食堂のバイトに、帰宅後の料理。我ながら今日はよく動いた。
体をざっと洗ってから、浴槽のフタをずらす。湯気がもわっと立ち上った。
「おお……」
思わず声が漏れる。
そして湯に足を入れ、ゆっくり沈む。
「……あ゛あ゛ぁぁぁ……」
完全におっさんの声だった。
自分でもわかる。だが仕方ない。風呂とはそういう場所だ。
その時、風呂場の外から、くすくすと笑う声が聞こえた。
「創ちゃん、おっさんみたい」
夏樹だ。
「聞こえてんのかよ!」
「聞こえるよー」
ドア越しに、楽しそうな声が返ってくる。
「今、洗面所で歯磨きするから、まだ出てきちゃダメだよ?」
「なんでだよ」
「タイミング悪く出てきたら事故だから」
「事故ってなんだ」
「事故は事故です」
言い切られた。
……まあ、確かに。
俺は長風呂ではないが、さすがに全裸でばったりは避けたい。精神的ダメージがでかい。
「わかったよ」
「はーい」
洗面所で水の音がして、歯ブラシを動かす音がかすかに聞こえる。
俺は浴槽に肩まで沈んだ。
天井をぼんやり見上げる。
最近は、一人で風呂に入ることがほとんどだった。
一人暮らしをしていると、湯を張ること自体が減る。シャワーで済ませる日も多い。
飯は夏樹と一緒に食べることが多かったが、風呂はだいたいそのあとだ。
だからこの時間は、完全に一人の時間だった。
なのに今日は、外に人がいる。
歯磨きの音とか、物を置く音とか、そういう生活音が普通に聞こえる。
「……なんか変な感じだな」
嫌じゃない。
むしろ――
少しだけ、落ち着く。
湯に沈みながら、俺は小さく息を吐いた。
「……あ゛あ゛ぁぁ……」
またおっさんみたいな声が出た。その直後、洗面所からまた笑い声が聞こえた。
風呂から上がり、適当にタオルで髪を拭きながら洗面所を出る。体はさっぱりしているが、まずやることは決まっている。水分補給だ。風呂上がりの体にはこれが一番効く。
棚からコップを取り、水道の蛇口をひねる。透明な水が静かに流れ出て、コップの底に当たって小さな音を立てる。その様子を見ながら、俺はふと真面目に思う。
――ありがたい。
蛇口をひねるだけで飲める水が出る国、日本。しかも安全で、普通にうまい。これ、冷静に考えてすごいことだ。世界には水を買わないと飲めない場所も多いというのに、この国は水道をひねるだけで飲める水を出してくれる。しかも俺みたいな貧乏学生でも当たり前のように使える。
「ありがとう水道局……ありがとう浄水技術……」
誰に聞かれるでもない小さな感謝を呟きながら、コップの水を一気に飲み干す。冷たい水が喉を通って体の中に落ちていくと、風呂上がりの体にじわっと染み込んでいく感覚がある。
「うま……」
思わず声が漏れる。文明、最高である。
もう一杯水を飲んでから、コップをシンクに置いてリビングへ向かった。
ソファーには夏樹が座っていた。クッションを抱え込み、テレビを見ている。どうやらドラマらしい。画面の中では男女が真剣な顔で言い争っていて、いかにも恋愛ドラマという雰囲気だ。
俺は一瞬だけ画面を見る。
そして判断する。
――興味ない。
テーブルの上に置いてあった読みかけの本を手に取り、夏樹の隣に腰を下ろす。ページを開いて文字を追い始めると、意識はすぐに本の世界に引き込まれていった。
その途中で、横からちらっと視線を感じた。顔を上げると、夏樹が一瞬こちらを見ていた。だがすぐに視線をテレビへ戻す。どうやらドラマの続きの方が気になるらしい。
数秒後、テレビの中で誰かが泣き出した。
「……うわぁ」
夏樹が小さく声を漏らし、クッションをぎゅっと抱きしめる。どうやら完全に感情移入しているようだ。俺はそんな様子を横目で見ながらページをめくり、再び読書に没頭した。
テレビの音、夏樹の小さな反応、ページをめくる音。それらが静かに混ざり合い、夜のリビングは妙に落ち着いた空気に包まれていた。
しばらくして、ふと肩に何かが当たった。柔らかくて、少し重い感触だ。視線を横に向けると、夏樹の頭が俺の肩に乗っていた。
目は閉じている。
完全に寝ている。
「……おい」
小さく声をかけてみるが反応はない。テレビではまだドラマが続いていて、誰かが大声で告白しているのに、隣の視聴者は完全に夢の中だ。
俺は時計を見た。
12時を少し過ぎている。
「まずいな」
普通にまずい。明日学校だろう。
「おい、夏樹。起きろ」
肩を軽く揺らす。すると夏樹はむにゃっと小さく動き、ゆっくり半目を開けた。
「……ん……」
「起きろ。部屋行って寝ろ」
「……やだ」
予想通りの答えだ。
「なんでだよ」
少しの沈黙のあと、ぼそっと言葉が出てきた。
「……抱っこ」
ほらきた。
俺は深くため息を吐いた。だがここで議論しても意味はない。こいつは半分寝ている。仕方なく立ち上がり、夏樹の体に腕を回して持ち上げた。
思ったより軽い。びっくりするくらい軽い。
「落とすぞ」
「……だめ」
そう言いながら、夏樹は俺の服をぎゅっと掴む。しょうがないのでそのまま廊下を歩き、隣の部屋のドアを開けた。
ここは元々物置だった部屋だ。だがいつの間にか夏樹用の部屋になっている。犯人は間違いなくうちの両親だ。ベッド、机、クローゼットと普通の部屋が完成しており、さらに夏樹の制服やカバンまで置かれている。
「ここ俺の家なんだけどな……」
誰の部屋なんだ、ここは。
そんなことを思いながら、ベッドの上に夏樹をそっと下ろす。布団をかけると、夏樹は一瞬だけ目を開けた。
「……創ちゃん」
「なんだ」
「……おやすみ」
「おう」
それだけ言うと、すぐに寝息が聞こえてきた。切り替えが早すぎる。
俺は小さくつぶやきながら電気を消し、部屋を出た。リビングを通って自分の部屋へ戻り、ベッドの横に座って本を開く。さっきの続きを読むつもりだった。
だが数ページも読まないうちに、文字が少しずつぼやけてくる。
今日はさすがに疲れている。サッカーの練習にバイト、料理、そして寝た人間の搬送までやったのだから当然だ。
「……今日はここまでだな」
本を閉じて机の上に置き、ベッドに倒れ込む。体が沈んだ瞬間、意識も一緒に沈んでいった。
気が付いた時には、もう眠っていた。




