第16話 当然のように始まる同居生活
「お疲れさまでした」と声をそろえ、店長と奥さんに見送られて暖簾をくぐる。
夜の空気が、ふっと頬に触れた。
店内の熱気とは違う、少しだけひんやりした風。火を使い続けた厨房の匂いが、外気に触れてすっと薄まっていく。
商店街は、もうほとんどの店がシャッターを下ろしている。看板の灯りだけがぽつぽつと残り、道を細く照らしている。遠くで自販機のモーター音が小さく唸っていた。
俺と夏樹は、自然と並んで歩き出す。
足音がアスファルトに軽く響く。さっきまでの皿の音や注文の声が嘘みたいに静かだ。
夜の住宅街は、昼間よりも輪郭がはっきりして見える。街灯に照らされた電柱の影、塀の上に落ちる植木の影、閉じられたカーテン越しのやわらかな光。
どこかの家から、かすかにテレビの笑い声が漏れてきて、すぐに消える。
店の油の匂いがまだ服に残っている。腕は少し重い。足も、じんわりと疲れている。けれど歩けないほどではない。むしろ、その疲労が妙に心地いい。
夜風が通り抜け、夏樹の髪がわずかに揺れる。昼間の喧騒も、夕方の混雑も、今は遠い出来事みたいだ。曲がり角を一つ曲がると、商店街の明かりは背後に置き去りになり、住宅街の静けさが深くなる。
足元には、街灯に伸ばされた二人分の影。ぴたりと重なることはないが、離れもしない距離で、並んで揺れている。
商店街を抜け、住宅街へ入ったあたりで、夏樹がぽつりと言った。
「創ちゃん、お腹すいたねー」
「そうだな~。店長からもらった食材使って何作ろうか考えてた」
今日は余った野菜と鶏むね肉、それから豆腐を少し分けてもらっている。冷蔵庫の在庫と合わせれば、何かしらは作れる。
「何にするの?」
期待に満ちた声で覗き込んでくる。
「お前、うちに食いに来るとか言うなよ?」
足が一瞬止まる。
夏樹は、にやりと笑った。
「おやおや?すでに賄賂は受け取っておられるはずですが?」
「賄賂?…………はっ!?」
「思い出した?今日からうちの両親、海外に行ってるんだよね~」
「そういえば、そんな話をしてたな……」
ヨーロッパ二週間周遊とか言ってなかったか。ずいぶん壮大な計画だ。
「なので、今日からお世話になりま~す!」
両手を軽く広げて、勝手に宣言するな。
俺は夜空を見上げる。
「星がきれいだ」
「現実逃避してないで戻ってきて?」
リアリストめ…。そんなんじゃモテないぞ!ってこいつ結構モテるんだった。
「はぁ……。何か希望は?」
「美味しいのがいい!」
「抽象的すぎる」
「じゃあ、創ちゃんの得意料理!」
「それが一番手間かかるやつだろ」
「期待してる!」
ぐいっと袖を引っ張られる。
「ご飯と納豆でもいい?」
「美味しいけど嫌」
「ワガママか」
「だって今日いっぱい働いたもん! ご褒美必要でしょ!」
「自分で言うタイプか」
少し考える。
「鶏むねあるから、照り焼きにするか。あと冷ややっこ。味噌汁は……」
「わぁ、急に具体的!」
「現実的とも言う」
「副菜は?」
「食材があればきんぴら」
「大好き!!」
「栄養バランス大事だしな」
「デザートは?」
「ない」
「あるでしょ?」
「ない」
「プリンが食べたい」
「材料ない」
「作るつもりだったの!?創ちゃんすごい!じゃなくて、それじゃコンビニ寄ろう?」
「寄らない。金ない」
「じゃ、ケーキで我慢する」
「調子乗るな。ケーキのほうが高いだろうが!」
夏樹はくすくす笑いながら、俺の横を歩く。
「冗談だよ!何でもいいよ」
急に素直なことを言うな。
「じゃあ納豆で」
「それは嫌って言ったよね!?しかもデザートじゃない!」
静かな住宅街に、小さな笑い声が転がる。
夜風が少し冷たい。
けれど、夕飯の話をしているだけで、足取りは自然と軽くなる。
「で、本当にデザートないの?」
「ない」
「えー!」
俺は心の中でメニューを組み立て始める。
……とりあえず、納豆は却下らしい。
住宅街の角を曲がった瞬間だった。
「広瀬さん!」
夜道にやけに通る声が響く。
俺は反射的に空を見た。雷かと思ったら川村だった。
夏樹の肩がびくっと跳ねる。
「え?……あ! 川村君」
街灯の下に立っていたのは、ジャージ姿の川村と、その半歩後ろにぴったりくっつく西海。
……ほんとにいつもセット販売だな、この二人。
川村が爽やかな笑顔を浮かべる。
「今帰り?」
爽やかだ。夜なのに。街灯がスポットライトみたいになっているのがまた腹立つ。
「う…うん。川村君はどうしてここに?」
「部活の帰りだよ。広瀬さんはアルバイトの帰り?」
「う、うん。そうだよ」
西海がするっと会話に割り込む。
「広瀬さんはどんなアルバイトしてるの?」
距離が、微妙に近い。半歩ずつ詰めてくるタイプか。
「え? 飲食店でホールのスタッフをしてるんだよ」
「え??どこのお店? 俺らも行ってもいい?」
食いつきが良すぎるだろ。ボールより反応早いぞ。
夏樹がちら、と俺を見る。何だよその“どうする?”みたいな目は。
俺は肩をすくめる。
「いいんじゃね? 食堂なんだから、飯食いに来てもらったらいいじゃねぇか」
「そ…そうだね」
川村の視線が、ゆっくり俺に向く。
「えっと…君は山神君だったかな?」
「あぁ。そうだよ」
「君も一緒に働いてるのかい?」
「一緒にって言うのが意味がわからんが、俺も同じ店で働いてるぞ」
一緒にって何だ。共同経営者みたいに言うな。
「そう…」
川村はにこりと笑う。笑っているが、なんとなく温度が一度下がった気がするのは気のせいか。たぶん気のせいだ。夜は寒いしな。
西海が追撃する。
「今度、サッカー部員みんなで食べに行くよ」
団体予約確定のお知らせ。
「う、うん。店長さんにも伝えておくね」
川村がふと真顔になる。
「そういえば、なんだかすごいことになったけど、あの時のことは本気だから」
あの時?あぁ、球技大会の公開告白事件か。
夏樹の足が一瞬止まる。
「あ…そのことなんだけどね?…あの…」
ちらっ。また俺を見る。
なんなんだその“助けて”と“察して”の中間みたいな視線は。
俺は無表情を貫く。巻き込まれないぞ、俺は。
「いや、大丈夫だよ。球技大会の当日まで返事を聞くつもりはないから」
「え? いや、今答えを……」
「ううん。大丈夫だから。それじゃ」
爽やかに手を振り、川村は踵を返す。西海は最後に一瞬だけ俺を見てから、ぴたりと後ろにつく。
……何なんだあの主従感。
二人の背中が暗闇に溶けていく。
静寂。
虫の鳴き声が戻ってくる。
俺は歩き出しながら言う。
「嫌なら嫌ってはっきり言えばいいのに」
砂利を踏む音がやけに大きく響く。
「伝えようと思ったんだけど」
「嫌なんだ」
夏樹がむっとする。
「その言い方は御幣があるけどね」
「ほーん」
俺は適当に相槌を打つ。
「何よその興味ない感じ!」
「興味ないし」
本当にない。本人の問題だろ。
夏樹が足を止め、街灯の下でじっと睨んでくる。
「創ちゃんのそういうところ良くないよ!!」
「何で怒ってるんだよ…」
俺は本気で首をかしげる。
嫌なら断る。それだけの話だろ。川村が夏樹を好きなのは、まあ分かる。あれだけ堂々と宣言してるしな。でも最終的に決めるのは夏樹だ。
……それ以上でも以下でもない。
夏樹はぷいっと前を向き、早足で歩き出す。さっきより足音が強い。
俺は少し遅れて並ぶ。
「そんな怒ることか?」
「怒ってない!」
「怒ってるじゃん」
「怒ってないって言ってるでしょ!」
静かな住宅街に、小声の言い争いが響く。俺はため息をつく。
夜風は涼しいのに、隣だけ妙に熱い。
……本当に、何で怒ってるんだ
結局。
本当に結局、俺はコンビニの自動ドアの前に立っていた。
さっきまで「寄らない」「買わない」「甘やかさない」と三段活用で拒否していたはずなのに、なぜか財布を握っている。
夜のコンビニはやけに明るい。白色灯が現実を突きつけてくる。
冷蔵スイーツコーナーの前で立ち止まり、値札を見る。
……高くないか?
プリンってこんな値段だったか?
手に取る。戻す。別のを取る。容量を見る。グラム単価を無意識に計算する自分が嫌だ。
結局、無難な価格帯のプリンを二つカゴに入れる。
二つ。
なぜ二つだ。一つでいいだろ。いや、俺の分も必要か?いや、いらないか?いやでも「自分だけ食べるの?」とか言われる未来が見える。
レジへ向かう足取りが重い。
ピッ。
軽い音と引き換えに、俺の小遣いが軽くなる。
レシートを受け取り、外へ出る。
幼馴染の満面の笑みを見て、ちょっとイラっとする。
夜風が少し冷たい。財布の中身も少し寒い。
……これは必要経費だ。
平和維持費だ。
外交コストだ。
これで機嫌が直るなら安いもんだ。
自分に言い聞かせながら帰路につく。
自宅に着くと、夏樹は「一回着替えてくるね」と自分の家へ消えていった。隣なのに、なぜか“別行動感”を出すのが腹立たしい。
俺は家に入り、靴を揃え、手を洗い、うがいをする。習慣は大事だ。プリンの出費より大事だ。
キッチンに立ち、店長からもらった食材を広げる。
鶏むね肉。小松菜。豆腐。半端な人参。冷蔵庫を開け、中身をチェック。
卵、残り三つ。味噌、十分。バター、少なめ。賞味期限がギリギリのヨーグルト……これは明日の俺に託そう。帰り道でぼんやり組み立てていたメニューを、頭の中で再構築する。
鶏むねはそぎ切りにして、下味を軽くつける。小松菜はさっと茹でておひたし。豆腐は冷ややっこにして、生姜をすりおろすか。味噌汁は人参と油揚げで十分だ。残念ながらごぼうがなかったのできんぴらはまたの機会に。代わりに出し巻きでも作ろう。
包丁を握る。
トントン、と規則正しい音が静かなキッチンに響く。
今日一日、グラウンドで走り、厨房で走り回ったはずなのに、料理を始めると妙に落ち着く。
フライパンを温め、油をひく。
ジュッという音が広がる。
さっきまでの夜道の気まずさも、プリンの出費の痛みも、少しずつ薄れていく。
……まあいい。
どうせ食うなら、ちゃんと美味いものを作る。
フライパンを振りながら、俺は小さく息を吐く。
包丁を動かしていると、背後でガチャリと玄関の音がした。隣からの再入場だ。数秒後、当然のような顔でキッチンの入り口に立つ夏樹。
「創ちゃん、お風呂沸かしてきていい?」
俺は手を止める。
「当然のように何を言ってんだ? 家に帰ったのになぜ風呂に入ってこない?」
ここは俺の家だ。俺の風呂だ。公共施設ではない。
夏樹はまったく悪びれない。
「だって、掃除が大変じゃん。2か所洗うよりは1か所の方が省エネでいいでしょ?」
理屈は分かる。分かるが。
「……一理あるな」
くっ。正論に弱い。
「でしょ? というわけで、私はお風呂を沸かしてきます」
宣言と同時に踵を返す。
待て。俺は許可を出した覚えはあるが、決定権まで渡した覚えはない。
だがもう遅い。
廊下の向こうで、迷いのない足音が響く。洗面所の扉が開く音。給湯器のリモコンがピッと鳴る音。
……手慣れている。
あいつ、温度設定も把握してるからな。冬は1度上げるし、夏はぬるめにするし、追い焚きのタイミングまで完璧だ。俺より詳しい可能性すらある。
さらに、物置の扉が開く音。ああ、掃除用スポンジの場所も知っている。
俺はフライパンを返しながら、天井を見上げた。
なぜだ。
なぜ俺の家の間取りを、俺と同じかそれ以上に把握している。
キッチンから声を張る。
「滑って転ぶなよ!」
「転ばないよー!」
信用ならない返事だ。
再びピッという電子音。
『お湯の温度を変更します』
機械音声が、やけに馴染んでいる。
俺は包丁を握り直す。鶏肉を裏返し、味噌汁の鍋を確認し、火加減を調整する。
風呂を他人に管理されながら夕飯を作る高校生。状況だけ切り取ると意味が分からない。だが、もう慣れている自分が一番意味が分からない。
廊下の向こうで、水の流れる音。
きっとついでに排水口のゴミまでチェックしているだろう。下手をすると俺より丁寧に。
フライパンから立ち上る湯気を見ながら、俺は小さくつぶやく。
「……ここは本当に俺の家だよな?」
返事はない。
給湯器の『お湯はりをします』という妙に艶っぽいアナウンスが家中に響いたあと、数分して夏樹がキッチンに戻ってきた。
湯気の立つフライパンを覗き込む。
「照り焼き?」
「時間も時間だし簡単にしか作ってないぞ?」
ちらっと時計を見ると、21時の少し前。高校生の夕飯にしては、まあまあ遅い。
「大丈夫だよ。創ちゃんの料理は美味しいから」
「あっそ」
鶏肉を裏返す。タレがじゅわっと音を立てる。夏樹は腕を組んで、真剣な顔で俺の手元を観察している。
「こうやって料理しているのを見ると、創ちゃんと店長の手つきってやっぱり違うんだね」
「そりゃそう。店長はプロなんだから、俺なんかとは比べ物にならないくらい」
包丁の置き方一つ、火の入れ方一つ。横に立つと分かる差がある。
「そうかな? そんなに違いがあるようには見えないけど」
「横に立って一緒に料理してみろ。食材を切るだけでもレベルの差を痛感する」
俺はまな板の上でリズムよく包丁を動かす。
「力の入れ方、刃の角度、包丁の重さの使い方。店長は無駄がない。俺はまだ“頑張ってる感”が出る」
「ふーん。そうなんだ」
夏樹は感心したように頷く。
少し沈黙。
味噌汁の蓋を開け、火を弱める。
「……そういえば、今日、店長の奥さんに色々相談を受けた」
「え? さっきは世間話って言ってたじゃん」
「世間話ではあるんだけどさ」
フライパンを火から外しながら、言葉を探す。
「ちょっと頭の中を整理するのに付き合ってほしいと思って」
夏樹が首を傾げる。
「いいけど、私はどうしたらいいの?」
「聞いて、相槌を打ってくれるだけでいいよ」
「それくらいなら」
夏樹はすぐ近くの椅子を引いて座る。完全に“聞く体勢”だ。
俺はコンロの火を止める。
言葉にするというのは、思っている以上に効果がある。頭の中だけで考えていると、考えはぐるぐる回る。都合のいい仮説と不安が混ざり合って、整理がつかなくなる。
でも、口に出すと違う。
曖昧だった部分がはっきりする。自分でも気づいていなかった前提が浮かび上がる。相手の「うん」とか「それで?」だけでも、思考は前に進む。
アウトプットは、思考の整頓だ。
俺はエプロンの紐を結び直しながら言う。
「別に大した話じゃない。けど、ちょっと真面目なやつな」
夏樹がにやっと笑う。
「創ちゃんが真面目な話? 珍しいね」
「うるせぇ」
少しだけ息を吸う。
さて、どこから話すか。




