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きみの隣で、今日も考えてる  作者: マリセリソウ


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第15話 帰ってきた灯り

 ここ数日、放課後はほぼグラウンド直行だ。

 読書時間は削られ、代わりに増えたのは筋肉痛。特に太もも。階段を下りるたびに「うっ」と声が漏れる。青春は静かに人の生活を侵食する。

 伊谷と加藤は相変わらず木陰の住人だが、倒れるまでの時間は確実に延びている。池上は転倒回数が減り、後藤はタックルの角度を覚えた。山田は……相変わらず穏やかだが、守備範囲は広がった。たぶん妖精がレベルアップしている。

 俺はというと、走りながら常に考えているせいで、足より頭のほうが疲れる。サッカーはこんなに脳を使うスポーツだったか?


「創ちゃん、今日ちょっとヨレてるよ?」


 隣を歩く夏樹が笑う。


「ヨレてない。省エネモードだ」

「それ、ガス欠一歩手前って言うんだよ?」


 軽口を叩き合いながら、食堂やまもとへ向かう。


 暖簾が見えてくる。


 いつも通りの時間、いつも通りの風景――のはずだった。店内に入ろうとした瞬間、俺は違和感に気付く。


 カウンターの中に、小柄な女性が立っていた。

 エプロン姿。柔らかい雰囲気。そして、脇には松葉杖。いや、立っているというより、松葉杖で体を支えながら器用に動いている。


「……あれ?」


 俺が目を細めるより先に、夏樹がぱっと顔を明るくした。


「恵理子さん!?」


 女性がくるりとこちらを向く。


「あら、夏樹ちゃん!」


 声が弾む。入院中とは思えないほど明るい。夏樹は迷いなくカウンターへ駆け寄る。


「もう退院したんですか!? 大丈夫なんですか!?」

「退院はしたけど、まだ“完全復活”とはいかないわねぇ」


 そう言いながら、松葉杖を軽く持ち上げてみせる。足首はまだ包帯で固定されている。粉砕骨折と聞いていた。手術も難航したと。

 なのに、本人は妙に元気だ。


「家でじっとしてるとね、落ち着かなくて。ほら、あの人一人だとすぐ無茶するでしょ?」


 あの人、というのは店長のことだろう。確かに、あの人は無茶をするタイプだ。

 夏樹が笑う。


「それはわかります」

「でしょ? だから様子見にね」


 様子見でカウンターに立つな。

 俺は一歩遅れて中に入ると女性の視線がこちらに向いた。


「あなたが創太郎くん?」


 柔らかい笑顔。

 初対面のはずなのに、すでに情報は共有済みらしい。


「いつも萌がお世話になってるわ」

「いえ……」


 俺は軽く頭を下げる。

 松葉杖をつきながらも、恵理子さん、もとい、奥さんの立ち姿は妙にしゃんとしている。足は不自由でも、気持ちはまったく折れていない。むしろ、店に立てることが嬉しそうだ。

 入院していたはずの人が、こんなに明るく笑えるものか。

 夏樹が心配そうに足元を見る。


「ちゃんとリハビリしないとダメですよ?」

「してるしてる。先生にも“元気すぎる”って言われちゃったわ」


 笑う。

 店の空気が少しだけ軽くなる。

 なるほど。

 山本さんがあんなに前向きなのは、この人の影響か。松葉杖をつきながらも、カウンターの中に立つその姿は、どこか頼もしい。

 恵理子と呼んでと言われたが、店長のことを店長と呼んでいるし名前で呼ぶのもな…と思ったので「奥さん」と呼ばせてもらうことにした。





 今日は火曜日。いつもに比べて客足が穏やかなはず。

 「様子を見に来ただけ」と言っていた奥さんは、気が付けばドリンカーの椅子にしっかり陣取っていた。

 松葉杖はきちんと横に立てかけられ、足を少し伸ばせる位置に椅子を調整し、その状態でグラスを並べ、氷を入れ、レモンを切り、炭酸を注ぐ。動きが無駄なく滑らかだ。いや、退院直後ですよね? 足首粉砕骨折でしたよね? リハビリ中ですよね? なぜそんなに手際がいいんですか。


「ビール三つー! ハイボール二つ! ウーロン茶追加ねー!」


 声が通る。店の奥まで響く。

 そしてなぜか、店が満席だ。

 暖簾をくぐるたびに、


「恵理子さん退院したって聞いて!」

「顔見に来たよ!」

「無理すんなよー!」


 と、常連客が次々と入ってくる。誰だ!情報流したの。町内放送でもあったのか。

 火曜日だぞ、今日は。


 厨房はすでに通常の一・五倍速で回っている。


「山神くん! 唐揚げあと二皿いけるかい?」

「は…はい!さっきのがもうすぐ揚がりますので、2分以内には始められます!」


 返事をしながら、俺はキャベツを刻み、油の温度を確認し、皿を並べる。軽口を叩く暇もない。フライパンの音が途切れない。味噌汁の鍋が軽くなるスピードが異常だ。ご飯の減りもおかしい。誰だ今日は大盛り頼みまくってるの。

 視線を上げると、フロアがさらに騒がしい。

 山本さんは完全に通常運転だ。注文を取りながら空いた皿を下げ、ついでにお客さんの体調を気遣い、さりげなく追加注文まで引き出している。自然だ。あまりにも自然だ。接客という概念を着て歩いているように見える。さすが、ご令嬢…。


「お待たせしました、唐揚げです。あ、そちら空いてますので下げますね」


 声も動きも柔らかい。

 そして――


「レモンサワーお待たせしました! あ、氷足りなかったら言ってくださいね!」


 夏樹が走る。

 いや、走ってはいない。小走りだ。店内ルールは守っている。だが、ほぼ全力に近い機動力だ。

 今日はバレーの練習帰りだろ。疲れてるはずだろ。なのに、トレーを持つ手は安定しているし、椅子の間を縫う動きもスムーズだ。以前なら「すみませんっ」と椅子に軽くぶつかっていた角度も、今は完璧に抜けていく。


「夏樹ちゃん、慣れたねぇ!」

「まだまだですよ!」


 笑顔で返し、すぐ次のテーブルへ。

 山本さんと目が合うと、言葉なしで役割が切り替わる。片方が注文、片方が配膳。片方が会計、片方がバッシング。まるで長年やってきたコンビのようだ。この混雑は想定外だろうけど難なく乗り越えていっているように見える。


 いや、ちょっと前まで山本さん一人で回してたんだよな? どうやってたんだろう。 


「山神君! 焼きそばもう一丁!」

「はい!」


 店長の声が飛ぶ。俺はフライパンを振る。油が跳ねる。暑い。非常に暑い。

 ドリンカー席では奥さんが座ったまま指揮を執る。


「萌、グラス足りなくなるわよー! 下から出してー!」

「はい!」

「夏樹ちゃん、それビール泡多いから気をつけてね!」

「了解です!」


 座っているのに、場の流れを全部見ている。恐ろしい。

 しかも常連との会話も止まらない。


「恵理子さん、もう大丈夫なのか?」

「まだまだリハビリ中よー。でもじっとしてられなくてねぇ」


 いや、本当にじっとしててください。

 厨房は止まらない。唐揚げが揚がり、焼きそばが皿に盛られ、味噌汁が補充される。皿を洗う時間が追いつかない。俺は盛り付けながら考える。

 厨房は確実にいつもより忙しい。今日は火曜日なのに…。恨みったらしく思ってみる。しかし、これだけ忙しいのに崩れない。


 たぶん、フロアが回っているからだ。


 フロアが回っているだけでなく、山本さんが安定の軸になり、夏樹が全力で食らいついている。バレー帰りで体は疲れているはずなのに、顔には出さない。むしろ楽しそうだ。お客さんの声にきちんと応じ、注文を復唱し、空気を明るく保っている。食事の提供がいつもより遅くなっている部分もあるのに、フロアの二人と奥さんが客と楽し気に話をしてくれているから間が保たれているんだ。


 今日の回転を支えているのはあの二人と奥さんだ。


 しかし、忙しすぎるだろ!週末は忙しいって言ってたけど、今日の比ではないぞ!退院祝いとはここまで膨れ上がるものなのか。そして奥さんは本当に安静にする気があるのか。

 それでも、店の中は明るい。笑い声が混ざり、グラスが鳴り、料理が運ばれていく。

 フライパンを振りながら、俺は思う。


 ……この店、やっぱり簡単には負けないな。





 最後の客が「また来るよー」と手を振って帰っていき、暖簾が静かに下ろされた。さっきまでの喧騒が嘘みたいに、店内は急に静かになる。


「はぁぁ……」


 フロアの方から、山本さんと夏樹のほぼ同時のため息が聞こえた。


「今日、すごかったですね……」

「うん……火曜日とは思えなかった……」


 二人はテーブルを拭きながら、空いたグラスをまとめ、椅子を整えている。動きは疲れているはずなのに、最後まで丁寧だ。夏樹も、もうトレーを落としそうな危うさはない。ちゃんと“店の人”の動きになっている。

 俺は厨房で、山のように積まれた皿と向き合っていた。

 水を出す。洗う。流す。置く。


 無心。


 ……と言いたいところだが、腕がだるい。今日はサッカーの練習もあった。足は地味に重い。だが文句は言わない。言ったところで皿は減らない。


「創太郎くん」


 柔らかい声が背後からかかった。

 振り返ると、奥さんがドリンカー席からゆっくり立ち上がっていた。松葉杖に体重を預けながら、一歩ずつこちらへ来る。


「大丈夫ですか? 無理しなくていいですよ」

「大丈夫大丈夫。今日は座ってただけだもの」


 いや、その“座ってただけ”がなかなかの存在感でしたけどね。

 奥さんは厨房の入り口で止まり、俺の手元を眺める。


「主人ね、本当に助かってるって言ってたわ」

「……店長が、ですか?」

「ええ。あなたが来てくれてから、厨房の回り方が全然違うって」


 皿を持つ手が一瞬止まる。


「いえ、俺は言われたことやってるだけです」

「それができる人がどれだけいると思う?」


 にこっと笑う。

 否定のしようがない問いはやめてほしい。


「フロアもね」


 奥さんは少し視線をずらし閉店作業中の二人を見る。山本さんがレジを締め、夏樹がメニュー表を整えている。


「夏樹ちゃん、すごく助かってるのよ。萌一人だと、どうしても目が届かないところがあるしおっちょこちょいだから」


 山本さんが、何かを落としそうになって「あっ」と小さく声を上げ、夏樹にフォローされている。

 ……ああいう部分だろうな。


「若いのに、よく動くわよね」

「体力だけはありますから」


 奥さんがくすっと笑う。少しだけ、表情が真面目になる。


「あのね……」


 声のトーンが落ちる。


「角にできたあのお店。やっぱり影響はあるわ」


 あの低価格チェーン店。

 いつも行列。値段はわかりやすい。入りやすい。


「今日みたいな日は別として、少しずつ客足は動いてる。主人は顔に出さないけどね」


 出てると思うけどな。ほんの一瞬だけ。


「私は、まだしばらく店には立てないわ。リハビリもあるし、長時間は無理」


 松葉杖を軽く叩く。


「だからね、空き時間でできることをしようと思ってるの。メニューの見直しとか、仕込みの効率とか、宣伝とか。何か、思いついたら遠慮なく言ってね。若い人の意見、欲しいのよ。特に、あなたみたいに色々考えてそうな子の」


 俺を見る目がまっすぐだ。

 ……止めてほしい。

 皿を水に沈めながら、俺は曖昧に笑う。


「アイディアなんて大したものは……」

「大したものでなくていいの。小さなことでも、積み重なれば変わるでしょ?」


 奥さんは軽く言ったが、その言葉は思ったより重かった。皿を拭きながら、俺はぼんやりとシンクの水面を見つめる。


 チェーン店に対抗する方法。


 ないわけじゃない。


 価格で勝つのは難しい。なら、価値で勝つ。常連との関係性を強化する方法。曜日限定の企画。客層の再定義。メニュー構成の見直し。原価率の再計算。導線の整理。ちょっとした仕掛けで客単価を上げる方法も、いくつか頭には浮かぶ。


 浮かぶが――。


 それを口に出す資格が、俺にあるのか。俺はただの高校生だ。期間限定のアルバイト。いずれは別の場所に行く人間だ。

 この店は、店長と奥さんが長い時間をかけて積み上げてきた場所だ。常連との信頼も、味も、空気も、全部二人の歴史だ。

 そこに、ぽっと出の高校生が「こうした方がいいです」なんて、軽々しく言っていいのか。


 しかも、だ。


 仮に提案が通ったとして、形になるまでに時間がかかるものだってある。数か月、もしかしたら一年単位。

 その頃、俺はここにいる保証がない。

 提案だけして、「あとは頑張ってください」で去る。


 それは、無責任じゃないのか。


 うまくいけばいい。だが、失敗したら? 店の体力を削ることになるかもしれない。常連の空気を壊すかもしれない。

 ビジネス書は簡単に言う。変化しなければ生き残れない、と。


 だが、変化には痛みが伴う。


 その痛みを背負う覚悟がない人間が、口だけ出すのはどうなんだ。


 水を止める。

 静かになった厨房で、遠くから夏樹の笑い声が聞こえる。


 この店は、ただの売上の箱じゃない。人がいて、感情があって、生活がある。


 ……だからこそ、何もしないのも違う気がする。


 提案するなら、最後まで責任を持てる形で。少なくとも、途中で投げないやり方で。そこまで考えきれないなら、まだ口にするべきじゃない。


 ――さて、どうするか。


「萌! これどこに戻せばいい?」

「そこを開けてぎゅっと奥へ!」

「ぎゅっと!? どれくらいのぎゅっと!?」

「常識の範囲でです!」

「それじゃ!これくらい!」


 がたん、ごとん、と戸棚の開け閉めの音。食器が軽く触れ合う乾いた音。最後に「よしっ」と夏樹の小さな勝利宣言。

 奥さんが、くすくすと笑う。


「賑やかでいいわねぇ」


 その声は本当に楽しそうで、無理をしている感じが一切ない。俺はシンクにもたれかけたまま、そのやり取りをぼんやり眺める。さっきまで頭の中を占拠していた、重たい計算式やら責任論やらが、ふっと遠のいた。

 経営の未来だの、対抗策だの、持続性だのと考えていたが、目の前にあるのはこれだ。戸棚の前で真剣な顔をしている夏樹と、冷静に指示を出している山本さん。そしてそれを、嬉しそうに見守る奥さん。

 この空気を守るための店なんだよな、と、今さらみたいに思う。

 俺は小さく息を吐く。

 さっきまでのそれとは違う、肩の力が抜けるタイプの息だ。


 ――考えすぎか。


 いや、考えるのは悪くない。でも、背負いすぎるのは違う。


「創ちゃん、何にやにやしてるの?」


 夏樹が振り向く。


「してない」

「してた」

「気のせいだ」


 奥さんがまた笑う。


「ほんと、仲良しねぇ」


 やめてほしい。その言い方は色々と誤解を生む。けれど、否定する気力もわかない。さっきまで胸の奥にあった重たい塊が、少しだけ軽くなっている。

 今すぐ答えを出さなくてもいい。

 この賑やかさがある限り、きっとやりようはある。そう思えただけで、今日は十分かもしれない。

 俺はエプロンを外しながら、もう一度小さく息を吐いた。

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