第12話 希望を与えた者の責任
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。枕元のスマホを手に取り、寝ぼけ眼のままメールを開く。差出人は――楽器屋のオーナー。
ああ、来たな。
ライブイベントの手伝いの打診だった。日程候補がいくつか並んでいる。相変わらず仕事内容は書いていない。「当日説明します!」の一文が清々しい。毎回それだ。
何をやらされるか分からない。搬入か、受付か、機材運びか、最悪ステージ裏で走り回る係か。だが、終わったあとの振込額を見るとすべてを許せてしまう自分がいる。あの一日で、俺の一週間、いや下手すると二週間が延命されるのだ。生命維持装置みたいなバイトである。
顔を洗いながら、鏡の中の自分に問いかける。
やめる?
いや、やめない。金欠のタイミングで仕事が入る奇跡的な相性を考えると、もはや守護神だ。オーナーもやたらいい人だし、ストレスがゼロに近い。いいように使われている気もするが、いいように使われてお金がもらえるなら、それはそれで合理的だ。
タオルで顔を拭き、キッチンへ。
フライパンを温めながら、冷蔵庫を開ける。昨日の残りと、安売りで買っておいた卵。卵は偉大だ。コスパの王だ。卵を割りながら、頭の中ではスケジュールを組み立てる。
楽器屋のイベント日程。
食堂やまもとのシフト。
そして――球技大会の練習。
そういえば昨日、山本さんが店長に「練習で少し遅れるかもしれません」って相談してたな。店長は二つ返事でOKしていた。あの人、懐が広い。大海原だ。
俺も「じゃあ朝、仕込み手伝います」って言ったら、「なるべく早く来てくれればそれでいいよ」と軽く笑われた。しかも、「山神君がいると、開店中に下拵えまで進められるから助かってる」なんて言われた。
いやいや。俺よりあなたのスキルがチートですけど。
包丁さばきも、味の安定感も、段取りも全部あの人のほうが上だ。俺は横で真似してるだけだ。なのに感謝される。いい人すぎるだろ。聖人か。
卵がじゅわっと広がる。フライパンを傾けながら、ふと昨日の会話を思い出す。
近所にできた居酒屋チェーン店。390円均一。満席。行列。若者わらわら。
安いは正義。これは歴史が証明している。だが、安いだけで勝ち続けられるかどうかは別問題だ。
店長は表情を崩さなかったが、ほんの一瞬だけ曇ったようにも見えた。俺の見間違いかもしれない。でも山本さんは気づいていた。ああいうのは、家族のほうが敏感だ。
火を止め、皿に盛りつける。 トースターの音が鳴る。
楽器屋のイベント。食堂のシフト。球技大会の練習。そして、近隣のチェーン店。
俺の生活は、意外といろんな歯車で回っているらしい。
トーストをかじりながら、スマホをもう一度手に取る。楽器屋の返信は、今日店長に相談してからにしよう。
金は大事だ。でも、今は食堂やまもとも大事だ。
卵を口に運びながら、俺はぼんやりと天井を見上げた。
……朝から考えることが多すぎるな。とりあえず、今日も焦がさずに生き延びよう。
「創ちゃん、何たそがれてるの? 今、朝だよ?」
いつの間にか向かいに座っている幼馴染が、味噌汁をすすりながら首をかしげていた。
……なぜいる。
ちゃんと玄関は閉めた。鍵もかけた。はずだ。なのに自然体で椅子を引き、当然の顔で箸を持っている。
夏樹のお母さん。聞こえていますか。あなたの娘、今うちで朝ごはん食べてます。旅行は来週ですよね? まだ日本にいますよね? なぜうちの食卓が実家みたいになっているのでしょうか。
「で? 何考えてたの?」
「……別に」
「絶対ウソ。創ちゃんが“別に”って言うときは大体なんか考えごとしてる」
失礼な分析だが、当たっているのが腹立たしい。
俺は箸を置き、少しだけ真面目な顔になる。
「食堂やまもと、大丈夫かなって」
夏樹の手が止まる。
「……やっぱり、そう思う?」
「ああ。たぶん、少し前から影響は出てたんだと思う。俺らには見せないようにしてたけど、店長、結構焦ってたんじゃないかな」
「そうなの?」
「対策を考えてる最中に、山本さんのお母さんが入院だろ。あれはきつい。娘にアルバイト探させるなんて、相当追い込まれてないとしない」
夏樹は小さく息を吐く。
「藁にもすがる思い……だったのかな」
「どうだろうな」
曖昧に答えると、夏樹はなぜかふっと笑った。声は沈んでいるのに、表情だけが明るい。
何だその顔は。
「創ちゃん、何とかできる?」
「一人で何とかできるわけねーだろ」
「……そっか」
そう言って、また笑う。
妙に満足そうだ。何がだ。
俺は首をかしげる。
「そういえば、お前は人の心配してていいのか?」
「何が?」
「球技大会。景品扱いされてるぞ」
「半分は創ちゃんのせいだからね?」
「俺は悪くない。全部川村が悪い」
「創ちゃんが『あ~んしてもらえる券』とか爆弾投下したからでしょ!」
「柴田さんが不安煽るからだろ。クラスの士気を上げるには、具体的な報酬が必要だった。経営戦略的に正しい」
「戦略で私を売り物にしないで!」
味噌汁の湯気の向こうで、夏樹が本気で睨んでくる。
「でも上手くいったじゃん」
「上手くいきすぎ! みんな本気になっちゃったでしょ! 断れる空気じゃなかったんだから!」
「川村が優勝したら付き合うんだろ?」
「それはない」
「即答だな。確かに、嫌なら断ればいいしな」
「だって、たぶん川村君、優勝出来ないないし」
「なんで言い切れるんだよ。プロからスカウト来てるんだろ?」
夏樹は箸を置き、にやっと笑う。
「創ちゃんが出るから」
「……俺は出ないぞ?」
「出るよ」
「出ない」
「出なきゃクラスで“創ちゃんにイタズラされた”って言いふらす」
「それは卑怯だろ!? 嘘じゃん!」
「じゃあ出てね?」
「脅迫だろ……」
小悪魔みたいな顔でご飯をかき込む夏樹。勝ち誇っている。
夏樹はくすくす笑いながら、最後の卵焼きをつまむ。
「大丈夫。創ちゃんがいれば、川村君は優勝出来ないよ」
「根拠は?」
「私が創ちゃんの幼馴染で、ずっと創ちゃんを見てきたからだよ」
「夏樹さんの大きな目が節穴じゃないことを祈っておいてくださいね」
「ひどい」
口では文句を言いながらも、夏樹はどこか嬉しそうだ。
俺は小さくため息をつく。
「……とりあえず、リフティングくらいは練習しとくか」
「出る気満々じゃん」
「出るとは言ってない」
なぜかいつもいる幼馴染は、満足そうに笑いながら茶碗を置いた。
俺の心の声が、いつか夏樹の母親に届く日は来るのだろうか。
たぶん来ない。そしてたぶん、明日もいる。
そして放課後。
校庭の隅に、妙に士気の高い集団ができていた。うちのクラスだ。昨日、広田が言っていた通り、サッカーに出場する選手を決めるために集まっている。
すでにサッカー部と野球部がグラウンド中央を占拠し、元気よくボールを蹴り飛ばしている。その端っこを、遠慮がちに、しかし妙に熱量高めで陣取る我がクラス。
どうやら高原が各部の顧問に掛け合い、「部活の邪魔はしません!端っこで!ほんのちょっとだけ!」と、交渉して回ったらしい。
さすがクラス委員。行動力が陽キャ仕様だ。
高原が前に立ち、腕を組む。
「ということで!これから球技大会の参加者選抜ミニゲームを行う!」
声が無駄に通る。
「強制はしない!昨日のうちにSNSで意向を確認した!不参加を表明した仲間もいる!だがしかし!」
なぜ“だがしかし”を言うだけでこんなに熱くなれるんだ。
「それは決して広瀬夏樹さんを蔑ろにしているわけではない!サッカーが苦手、球技が苦手、運動が苦手、怪我中など!どうにもならない理由だ!責めるな!称えろ!」
三浦が横から低い声で補足する。
「みんな、それで納得してるな?」
「「「「「おう!!!!!!!!」」」」」
地鳴りかと思った。
運動できないグループの連中が口々に叫ぶ。「俺の分まで広瀬さんを守ってくれ!」「俺が出たら肉の壁にしかならん!しかも動く肉!」「ボール怖い!」
俺はぽつりと呟く。
「……なんだこれ」
なんだこの熱血青春群像劇。
柴田さんが腕を組み、冷静な顔で周囲を眺めている。
「凄い気合の入りようね」
「みんな若干怖いです……」
「ははは……」
山本さんは後ずさり、夏樹は乾いた笑みを浮かべていた。笑っているが、目が助けを求めている。
女子たちも負けていない。「『あ〜ん券』は私たちがもらうわよ!」「男子!とにかく川村君を止めなさい!」と言われ、男子が一斉に背筋を伸ばしている。
高原が咳払いする。
「と、とにかく始めるぞ!」
広田が続く。
「昨日SNSで確認した通り、サッカー部の俺、高原、三浦は出場で異論なしだな?」
「「「もちろん!!」」」
「じゃ、それ以外のメンバーを決める!」
俺は手を挙げた。
「あのさ。一個だけいいか?」
高原が振り向く。
「何だ?」
「さっきから何回か出てる“昨日SNSで確認した”ってやつ、俺のとこには来てないんだが?」
一瞬、空気が止まる。
え?俺、ハブられてる?人付き合いは確かに最低限だが、テスト前はお前らの勉強見てやってるぞ?
高原が真顔で言う。
「それにはしっかりとした理由がある」
「え?」
「広瀬さん、山本さん、柴田さんから直々に連絡があった。“山神が言い出したんだから責任とらせろよ?”と」
俺はゆっくり三人を見ると、三人とも、やや目を逸らした。
「なので、お前は強制参加だ」
「はぁ!?なんで!?」
「当たり前でしょ?みんなを焚きつけたのはあんたよ」
「そうですよ。みんな、すごく期待しちゃってて……今さら“あ〜ん券なし”なんて言えない空気なんです」
「どんな結果でも川村君のことは私が個人的に対応したらいいんだけど、でも、みんなを焚きつけた条件が消えたら……創ちゃん、大変なことになるね?生きていられるかな?」
さらっと物騒なことを言うな。
校庭の端。
男子たちの視線が、じわじわと俺に集まる。
さっきまで「守るぞー!」と燃えていた目が、今は別の熱を帯びている。
それは――もしもの未来を想像してしまった者の目だ。
誰かがぽつりと呟く。
「もし、万が一、川村の優勝を止められなかったら?」
一瞬、空気が止まる。
その問いは、触れてはいけない禁忌だったはずだ。
「その時は……あ~ん券、消滅?」
「消滅だろ……」
「幻だったってこと?」
「俺、もう脳内で三回くらいあ~んされてるんだけど?」
「やめろ具体的に言うな!」
絶望が、じわじわと広がる。
そして。
全員の視線が、ゆっくりと俺に向いた。
いや、待て。
「……そもそも」
ひとりの男子が震える声で言う。
「山神が、あんな甘い提案しなきゃよかったんじゃないか?」
「!!」
「確かに!」
「最初から何もなければ、俺たちは平穏に負けられた!」
「そうだ!希望なんて持たせるからいけないんだ!」
理不尽すぎる!!!
「山神が“あ~ん券”なんて爆弾を投げ込まなければ……!」
「俺は今、こんなに本気で走ろうとしてなかった!」
「昨日から腹筋始めたのに!」
「三回で筋肉痛になったけど!」
知らんがな。
女子側からも声が上がる。
「私たちだって、めちゃくちゃ楽しみにしてるのよ!」
「夏樹ちゃんに萌ちゃんに直美ちゃんからのあ~ん♡なんてこの先絶対に経験できない!」
「それが無くなったら、何のために生きていけばいいの?」
俺の提案した「あ~んしてもらえる券」には♡マークは付いてないぞ。
ひとりの女子が腕を組み、俺を見据える。
「つまり、こういうことよ」
いやな予感しかしない。
「券がなくなったら、山神くんのせい!精神的負債が残るだけじゃない!」
負債って言うな。
「提案しただけだぞ!?」
「甘い夢を見せた責任は重いわ」
「夢を見せるな!」
「責任を取れ!」
四方八方から責任論が飛ぶ。
「止められなかったら山神が悪い!」
「山神があんな甘い条件出したから、俺たちはこんな気持ちになったんだ!」
「希望を返せ!」
「俺の未来の“あ~ん”を返せ!」
未来のあ~んって何だ。
俺は両手を上げる。
「ちょっと待て! 俺はクラスの士気を上げようと――」
「上がりすぎたんだよ!」
「制御不能レベルまでな!」
「感情のアクセル踏み抜いたのお前だぞ!」
ひどい言われようだ。柴田さんが静かに笑う。
「つまりね、山神くん」
その笑顔、怖い。
「あなたはもう逃げられないの」
「なぜだ」
「希望を与えた者は、最後まで責任を負うものよ」
なんだその少年漫画のラスボス理論は。
男子たちが拳を握る。
「山神、頼んだぞ」
「お前が止めろ」
「俺たちのあ~んはお前にかかってる」
重い。
重すぎる。
女子たちも真顔だ。
「負けたら……分かってるわよね?」
「物理的じゃないけど社会的に消えるかもね」
「うふふ」
うふふじゃない。
俺は空を見上げる。
青空がやけに遠い。
ざわり、と空気が揺れる。
希望を握りしめたクラスメイトたちの視線が、再び俺に突き刺さる。
青春は理不尽だ。
特に、甘い夢を見せてしまった時は。




