第10話 今日も食堂やまもとは平和です(たぶん)
放課後の校門前で、山本さんはいつものようにぺこりと頭を下げ、「準備がありますので、先に失礼しますね」と言って、軽い足取りで帰っていった。小柄な背中が人波に紛れていくのを見送りながら、俺は無意識に時計を確認する。準備、という言葉の重みを、最近は少しだけ理解できるようになった気がする。
気づけば、その場に残ったのは俺と夏樹だけだった。並んで歩き出すと、妙に足音がそろう。意識しているわけじゃないのに、歩幅もテンポも自然に合ってしまうあたり、幼馴染の年季ってやつかもしれない。
夕方の住宅街は、ちょうど切り替えの時間帯だ。部活帰りの生徒、自転車を飛ばす小学生、買い物袋を提げた主婦。そこかしこから漂ってくる晩ごはんの匂いが、空腹をじわじわ刺激してくる。昨日の賄いの記憶が、勝手に脳内で再生される。唐揚げ、味噌汁、白飯。思い出すだけで腹が鳴りそうだ。
食堂やまもとまでの道のりは、夕方になると妙に人通りが増える。部活帰りの生徒に、仕事終わりの大人、自転車で突っ込んでくる小学生。いつもと同じ光景のはずなのに――
「創ちゃん!!」
背後から、妙に圧のある声が飛んできた。
「……え?」
振り向いた瞬間、夏樹の顔が近い。かなり近い。視線が鋭い。これは、あれだ。地雷を踏んだ後のやつだ。何が原因かは、正直わかっている。でも、わかっているからこそ言及しない。言った瞬間、面倒な方向に話が転がるのは火を見るより明らかだからだ。
「なんで助けてくれなかったのよ!!」
「助ける?何を?」
「私、困ってたじゃない!目も合ったよね!?目で会話したよね!?」
「いつの話だ。それに会話は、基本的に口でするもんだぞ」
「幼馴染は目だけで会話できるの!それは万国共通!!」
「まじで?じゃあ俺たち、幼馴染じゃないかもな……」
「幼馴染じゃん!!生まれた時から隣に住んでるじゃん!!そこからほぼ毎日会ってるじゃん!!」
「それ、ご近所さんって言わない?」
「ご近所さんにしては近すぎるよ!!」
反射的に言い返したが、夏樹はぷりぷりしながら歩き続けている。腕をぶんぶん振っているあたり、相当ご立腹だ。
「で、何をそんなに怒ってるんだよ」
「私が困ってたのに、創ちゃんが助けてくれなかったこと!!」
「だから、何に?」
「川村君のこととか!なぜかクラスが防衛線張ることで一致団結してることとか!」
「いいじゃん。さすが三大美少女」
「それ!!私は認めてないからね!!」
「いや、でもさ。みんながそう認めたなら、もう仕方なくないか?」
俺は少し考えてから、続ける。
「ほら、ジャンヌ・ダルクだって最初は本人その気なかったのに、周りが持ち上げすぎて歴史に残っただろ。ナポレオンだって、英雄扱いされすぎて引くに引けなくなったし。世間の評価って、本人の意思と関係なく確定すること、わりとあるんだよ」
「……あ、そう」
一気に空気が冷えた。
あ、これは完全に拗ねたな。
夏樹は口を閉ざし、視線を逸らし、歩く速度を微妙に俺に合わせてくる。話しかけても返事はしない。だが、離れもしない。そのくせ、ちらちらとこちらを見る目が、捨てられる直前の子犬みたいだ。
気になる。めちゃくちゃ気になる。
「……」
俺が咳払いしても反応なし。わざと遠回りしても、ぴったり付いてくる。
経験上、これは時間で解決しない。糖分だ。
「あ……」
ほっぺたをぷくっと膨らませ、そっぽを向く夏樹。完全に黙秘モード。
「な、夏樹ちゃ〜ん?」
「………………」
「今日の晩ごはんの後、デザート何がいい?」
「………………」
「プリン?ゼリー?それとも今日は奮発して、ショートケーキに――」
「……プリン」
即答だった。
「了解」
俺がそう言うと、夏樹はまだ拗ねた顔のまま、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。まったく。扱いが簡単で助かるような、そうでもないような。
こうして今日も、俺は平和を甘味で買い戻すことに決めた。また余計な出費が…。
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食堂やまもとの引き戸を開けると、いつもの匂いがふわっと鼻に入ってきた。油と出汁が混ざった、腹が鳴るタイプの匂いだ。客席を見回す。カウンターに数人、テーブル席もいくつか埋まっているだけで、全体としては落ち着いている。
「……今日は静かですね」
思ったまま口にすると、厨房の奥から店長が顔を上げた。
「火曜日だからね。平日の中でも、特に落ち着く日だよ」
そうだった。平日は全体的に客足が緩やからしいが、その中でも火曜日はその中でもひと息つける日。昨日の忙しさを思い出すと、なおさらそう感じる。
「助かります」
「昨日が少し飛ばしすぎだったからね」
店長はそう言って、また作業に戻った。
そのタイミングで、奥の方からぱたぱたと足音がして、居住スペースの方から山本さんが顔を出した。
「あ、山神君に夏樹ちゃん!もっとゆっくりでもよかったですのに」
すでにエプロン姿。
「準備、もう終わってるんだ」
「はい。今日はそこまで忙しくなさそうなので、下準備も余裕ありました」
ほっとしたような笑顔。俺たちが来る前に店の準備をしていたらしい。
「二人とも、先に着替えちゃってください」
「はーい!萌、部屋に入って大丈夫?」
「大丈夫です!お部屋にハンガーも準備してますので使ってください!」
「ありがとう」
夏樹が軽く返事をして、居住スペースの階段の方へ向かう。
俺は厨房の奥へ向かった。突き当たりにある小さな倉庫で、上着を脱ぎ、制服代わりのシャツをハンガーに掛ける。エプロンを首に回し、紐を結ぶ。昨日よりも、動作が自然になっている気がした。
倉庫を出ると、店長はすでに調理台に立っている。
「今日は仕込みも少なめだ。様子を見ながら手伝ってもらおう」
「わかりました」
短いやり取りだが、無駄がない。昨日よりも少しだけ、距離が縮んだ気がした。
しばらくして、階段の方から足音が戻ってくる。
「お待たせー」
夏樹はエプロン姿になっていた。制服を脱いだだけなのに、すっかり店員の顔だ。
「萌、準備手伝わなくて大丈夫だった?遠慮しないで何でも言ってね?」
「もちろんです!頼りにしてますよ!」
山本さんは胸を張って答えた。
「じゃ、今日もよろしくお願いします」
「「「よろしくお願いします」」」
店長が挨拶をした後、三人分の声が重なりそれぞれの持ち場へ戻る。
夕食のピークの時間を迎えても店は落ち着いていた。満席になることはなく、カウンターに常連が数人、テーブル席も半分ほど。忙しいというより、一定のリズムで回っている感じだ。
俺は厨房の端で、黙々と皿を洗っていた。洗って、流して、重ねる。油汚れも少なく、手の動きも自然と一定になる。こういう時間は嫌いじゃない。
そのとき、カウンター越しに店長と客の会話が耳に入ってきた。
「そういえばさ、角の空きテナント。チェーンの居酒屋、オープンしたな。店長、知ってる?」
「ええ。先日、オーナーさんがご挨拶に来られました。低価格でお酒や料理を出されるお店みたいですね」
店長の声は、いつも通り穏やかだった。
「そうそう。なんだっけ、三百九十円均一? ああいうの、流行るじゃん。お客さん、取られちゃうんじゃない?」
「そうならないように、努力しますよ」
さらっと返しながら、店長は料理をよそっている。
「いつでも、いらしてくださいね」
「俺は来るよ。店長の飯、うまいからさ」
客は笑いながら、箸を動かす。
「嫁も子供もいない身としては、ここはほんと助かるんだよ。ちゃんとした飯が食えるから」
「……そう言ってもらえると、ありがたいです」
店長は少しだけ笑って、小鉢を差し出した。
「これ、サービスです」
「おっ、そんなつもりじゃなかったんだけどな。遠慮なくもらおうかな。ありがとう、店長」
「こちらこそ。今後もご贔屓にお願いします」
「もちろん! ……うわ、これめっちゃうまいな!」
会話はそこで終わり、客は料理に集中した。
俺は皿を拭きながら、ちらりとカウンターの方を見る。店長の表情は、いつもと変わらない――はずだった。
ただ、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、視線が遠くに行ったように見えた。
すぐに戻ったから、見間違いだと言われればそれまでだ。実際、次の瞬間にはいつもの穏やかな店長だった。
ふとホールを見ると、山本さんがカウンター越しに父親の様子を見ていた。心配そう、というほど大げさじゃない。ただ、何かを気に留めているような、そんな視線。
母親の入院や人手不足。それだけじゃない何かが、頭の片隅にあるのかもしれない。
俺は洗い終えた皿を所定の場所に戻し、エプロンで手を拭いた。店の空気は穏やかで、客の笑い声もある。
少し気になったが、気のせいかもしれないと深く考えないことにした。
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最後の客を見送り、暖簾を下げる。今日の営業も無事終了だ。
ホールでは、夏樹と山本さんが手分けして閉店作業をしている。テーブルを拭いて、椅子を上げて、床をさっと掃く。慣れた動きで、無駄がない。一方、俺は店長と一緒に厨房で下ごしらえ。明日は定休日ということもあって、量は控えめだ。人参を刻み、玉ねぎを分け、指示された通りに淡々と手を動かす。
トントントン、と包丁の音だけが規則正しく響く中、不意に背後から声が飛んできた。
「そういえば、山神君って、いつも本を読んでますよね」
振り返ると、山本さんがモップを片手に首を傾げていた。
「どんなジャンルの本を読むんですか?」
「え? 今読んでるのは小説だけど……まあ、だいたい何でも読むよ。エッセイとか詩集は苦手だけど」
すると、今度は別方向から声が飛ぶ。
「創ちゃん、答えがないものが苦手だよね?」
夏樹だ。椅子を拭きながら、さも当然みたいな顔で言ってくる。
「……それは、まあ、確かに」
包丁を止めずに答える。
「いろんな意見や見方があっていいと思うし、それ自体を否定してるわけじゃないんだ。ただ、映画だって恋愛が好き、アクションが好き、ホラーが好きって分かれるだろ? その中で俺はエッセイや詩集が合わないってだけ」
「なるほど……」
山本さんは感心したようにうなずいた。
「じゃあ、今までどれくらい本を読んできたんですか?」
「どれくらい……?」
曖昧な質問に、手が一瞬止まる。
「図書館一個分くらい?」
横から、夏樹が適当なことを言う。
「いや、そんなでもないだろ」
「でもさ、小学生の時、図書室の本はほとんど全部読んだって言ってなかった?」
「児童書以外な。高学年になってまで絵本はさすがに読まなかった」
「それ、十分すごいですからね?」
山本さんが目を丸くする。
「経営の本とかも読むんですか?」
「特化してるわけじゃないけど、ビジネス書も読むな」
人参を揃えながら、淡々と続ける。
「成功体験を書いた本が多いけど、あれは環境が違うと再現性がないことも多いし、話半分で読んでる」
「じゃあ、経営の勉強もしてるってことですか?」
「専門的じゃない。ただ、本を読んだことがあるって程度だ」
「ほんとに?」
夏樹がニヤリと笑う。
「でもさ、実践したことも何度かあるじゃない」
「……あぁ〜……」
思わず、包丁を置いた。
「あれは仕方なくだ」
「仕方なく、ねぇ」
夏樹は楽しそうに、山本さんの方を見る。
「え? 何ですか?」
山本さんが身を乗り出した、その瞬間。
「……」
嫌な予感がした。
店長は何も言わず、黙々と作業を続けている。だが、その背中が、なぜか少しだけ楽しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
夏樹が口を開く。
「萌、実は──」
俺は内心で、ため息をついた。また、余計な話が始まりそうな気がしてならなかった。




