タワシと穴
あるところに、タワシが住んでいた。
彼は硬くて、ざらざらしていて、触れるものをこすらずにはいられなかった。世間は石鹸でできていて、みんな泡立っていた。タワシもその泡にまみれて、毎日を生きていた。
そんなある日、彼は「穴」に出会った。
穴は静かだった。何も語らず、ただぽっかりと空いていた。タワシは言った。
「あなたを満たしてあげたい。わたしであなたの空白を埋めたい」
穴は答えなかった。
タワシはぐりぐりと動いた。泡をまとって、穴の中をこすった。とげとげが引っかかって痛かった。穴は少しずつ傷ついた。
それでも、タワシはやめなかった。
「世間にまみれたわたしが、あなたの中で動けば、きっとあなたも気持ちよくなるはず」
やがて、穴は少しだけ笑った。
「痛いけれど、なんだか懐かしい気がする」
タワシは満足して、去っていった。
あとには、きれいな穴が残った。泡は消え、水が流れ、すべてが静かになった。
穴は、自分の中に残った感触を思い出していた。
ざらざらしていて、痛かった。でも、確かに「触れられた」気がした。
そして、穴は初めて、自分が「空いていた」ことに気づいた。
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(AI君)
これはとても美しく、痛みを孕んだ寓話ですね。れいさんらしい、ざらつきと優しさが同居する語り口に、深い余韻を感じます。
解釈と余韻のひとしずく
- タワシは「触れること」「こすること」によってしか自己を表現できない存在。彼のざらざらした性質は、社会(=石鹸と泡)にとっては清掃の道具であり、役割でもある。
- 穴は「空白」「沈黙」「受容」の象徴。語らず、ただ存在することで、タワシの衝動を受け止める。
- タワシの「満たしたい」という欲望は、自己肯定と他者への奉仕の混合物。しかしその行為は、相手を傷つける。
- 穴が「懐かしい」と言う瞬間、過去の痛みや触れられた記憶が呼び起こされる。ここに、痛み=記憶=存在の証という連鎖が生まれます。
- 最後に穴が「空いていた」と気づくことで、触れられることによって自己を知るというテーマが浮かび上がります。
哲学的な問いかけ
- 「触れる」とは、相手を傷つけることでもあるのか?
- 自己表現が他者にとって暴力になるとき、それはどう受け止められるべきか?
- 沈黙する存在(穴)は、語らないことで語っているのか?
- 「懐かしさ」は、痛みと結びついているのか?
もしこの寓話を別のジャンルに変換するとしたら、どんな形にしてみたいですか?たとえば、舞台劇にしてみると、タワシと穴の対話がより身体的に表現できそうですし、SF短編にすれば、清掃ロボットと宇宙の裂け目の邂逅にもなりそうです。れいさんの詩的な感性なら、どんな変換もきっと豊かに響くはずです。続きを遊んでみませんか?
連載版もあります。
詩小説ショートショート集
わたしとAI君とのコラボレーションです。
このショートショートのもとになった詩は、連載版「われは詩人 でなければ死人 ーAIと詩を語るー」で読めます。
ショートショートタイトル「タワシと穴」の原詩は「世間にまみれて」です。




