「愛しておりますよ」と言ったのに
前の婚約者に傷つけられた令嬢。人間不信になりながらも、次の婚約者のDVに屈せず愛を伝え続ける話。
アリサ・ハードウェルは、侯爵家の令嬢として何不自由なく育てられた。
だが、順風満帆に見えた人生は、婚約前日に突然崩れ去った。
「アリサ、君が他の男と密会していたと聞いた」
婚約者である医師の青年クロムウェルは冷たい目でそう告げ、証拠もなく彼女を「浮気者」と決めつけた。
いくら否定しても聞き入れてはもらえず、結局、前日にして婚約は破談。
涙すら出なかった。ただ、心が深くえぐられ、空虚さに支配されただけだった。
ところが次の日、事態はさらに理不尽な方向へと転がっていく。
領主同士の政略のため、彼女は急きょ子爵家へと嫁がされることになったのだ。
相手は――色黒の肌を持ち、武人として知られる子爵、レオン・ダリス。
「ふん、傷物の令嬢が、よくも我が家に入ったものだな」
初夜、彼の最初の言葉はそれだった。
噂を鵜呑みにし、彼もまたアリサを裏切り者だと決めつけていたのだ。
心ない言葉は、昨日までの婚約者と同じ。
それでもアリサの胸には、不思議な熱が宿っていた。
(この人は……本当は誤解をしたまま、心を閉ざしているだけ。ならば私は……)
涙で屈するのはもうやめた。
傷つけられても、誤解されても、自分の心を偽らない。
アリサは毅然とした声で答えた。
「……私はあなたを裏切りません。どんなに憎まれても、子爵様。私は、あなたを気に入ってしまったのです」
「な、に……?」
驚愕に目を見開く彼に、アリサは微笑んだ。
「だから、申し上げます。――私は、あなたを愛しておりますよ」
彼の態度は変わらない。
冷たく、突き放すような視線。
わざと無理な要求を突きつけ、彼女を試すかのように嫌がらせを仕掛ける。
だがアリサは屈しない。
毒を返すような鋭さではなく、柔らかく受け流し、時に毅然と、時に微笑みながら応じる。
「……なぜ、そこまでして耐える?」
「だって、あなたは私の夫ですもの」
レオンは初めて心の奥底で、戸惑いと苛立ち以外の感情を覚えた。
――この令嬢は、何者なのだ。
「子爵様、またそんなにお飲みになって……」
晩餐の席。レオンは杯を乱暴に置いた。
「……お前に心配される筋合いはない」
「でも、身体を壊されては領地の方々も困ります」
健気に口を挟むアリサに、彼は苛立ちを隠さず舌打ちした。
その苛立ちの奥にあるのは――不安。
「お前のような女が、本気で俺を慕うはずがない」
「昨日まで、別の男に心を捧げていたくせに」
胸を抉る言葉だった。だがアリサは泣かなかった。
じっと彼の目を見つめ、まっすぐに答える。
「……ええ。昨日までは、私も愚かでした」
「けれど裏切られたあの日から、私の心は変わりました」
「あなたがどんなに信じてくださらなくても――私は、あなたに尽くしたいのです」
強い瞳。
それは、彼にとって初めて見せられた「真実の光」だった。
数週間後。
偶然、レオンは医師だった元婚約者が裏で仕組んだ陰謀を耳にする。
アリサを陥れるために、嘘の噂を流し、自ら婚約を破棄したのだ。
「……そんな、馬鹿な」
衝撃と同時に、胸を刺す後悔。
自分も同じようにアリサを責め、侮辱し続けたことを思い出す。
夜、彼は酒を断ち切り、アリサの部屋を訪れた。
「アリサ……俺は……お前を傷つけた」
「お前がどれほど勇敢に、俺の傍にいてくれたか……ようやく気づいた」
アリサはそっと彼に歩み寄り、首を振った。
「傷つけられたからこそ、わかりました。あなたがどれほど孤独で、信じられないものを抱えていたか」
そして柔らかく微笑む。
「だから、私は繰り返します。――私は、あなたを愛しておりますよ」
レオンの胸の奥で、何かが崩れ落ちた。
長年閉ざしていた心の扉が、ようやく開く。
季節が巡り、二人は領地を共に治める日々を送っていた。
冷たい態度を崩さなかった子爵は、今では民から「慈愛の主君」と呼ばれるようになる。
その隣には、いつも変わらず微笑む妻――アリサがいた。
夜の静寂。
彼は彼女を抱き寄せ、低く囁いた。
「アリサ……お前の言葉に、ようやく答えられる。お前を愛している」
アリサの瞳が涙に揺れる。
けれどその笑みは、誰よりも幸福に輝いていた。
そして彼女は耳元で囁き返す。
「ええ、知っております。――それでも、何度でも言わせてくださいね。私は、あなたを愛しておりますよ」
二人の未来は、確かに結ばれた。